旅人について

雑記

確か10年ぶりくらいになる金沢への出張。数日前まで記録的な大雪だった街にはあちこち、うず高く積まれた雪の山。まるで街中が冷蔵庫になったみたいだ。グーグルマップの指示に従って歩くと、ところどころ雪に埋もれて進めない場所に出くわすのにも、この場所がいま非日常にあることを思わされる。

雪に慣れている人にとっては常識なのかもしれないけれど、雪による日光の反射は思っているよるずっとまぶしい。一面の雪原が下から照らす街では、なんだか人の表情も美しく見える。人の手が届かない場所では、雪に抗うのを諦めたかのようにどこまでも雪原が続き、春が来るまで居座ることを宣言しているようだ。

泊まった宿には大きなスピーカーとアナログレコードが自慢のバーがある。東京ならオーガニックなコーヒーなんかを出してそうな雰囲気だ。僕はしばしバーテンダーと旅の話をする。仕事で色んな国や街を行き来する僕と、色んな国の旅人を受け入れる彼との間で、きっとこの場所で何度も繰り返された情報交換が行われる。僕の話もいつか、また次の旅人に継がれていけばいいと思った。

バーテンダーの話によれば、やっぱり新幹線の効果はとてもすごいものらしい。べらぼうな値段の海鮮丼も、ブームで需要が増した結果であり、インスタ映えを意識して過剰に盛られた海鮮のせいで、必ずしも利益が上がっているわけではないのだという。僕はいわきで聞いた話を彼にする。海鮮で売っていた街の飲食店は、いまでは地元産ではない魚で商売をせざるを得ないこと。緯度がほぼ同じで、日本列島を挟んで東西の反対にあるふたつの街が直面する対照的な運命のこと。

旅をすると思うのは、旅人という立場は常にアマチュアだということだ。自分よりその場所に詳しい人、その場所のリアリティの中に生きている人、そういう人たちと会話を交わし、素人ながらに意見を述べる。他の旅人も同じで、たとえば外国なら行き交う旅人はみんな片言の英語で、そうした制限された状況が生む特殊な連帯感を味わうかどうかが、僕にとって旅とそうでないものの間の境界線になっている。

たいていのことは宙吊りのまま判断に困ることだな、と思う。人も社会も複雑な事情を抱え、そのときどきの課題に対処しながら生きているから、以前と同じままなんてことは決してない。だからいつも旅人でいたいなと思うし、色んな人たちに対して素人であることを心地よく思う。そうして関わったひとたちの間に、僕が痕跡のように残ればいいとも思う。たとえばそれは旅先で泊まったホテルのWi-Fiの設定がそのままになっていて、再び訪れた時に自動的に接続されてしまうような経験に似ている。僕という存在など、そういう痕跡の積み重ねくらいでいいと思った。

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