女性専用車両とカテゴリー保護のジレンマ

雑記

鉄道会社が設ける「女性専用車両」については、こうやってネットに文章を書き始めた20年くらい前には既に定番の「着火ネタ」だったから、もう何周目だよ見飽きたよという人もいると思う。もちろん、それにも関わらず一向に状況が改善されていないように見えるのもまた確かで、体が小さく、髪を伸ばしてたりすると痴漢に遭遇することもある身としては、暴力が個人ではなくカテゴリーに向けられることの理不尽さや、自責の念、自罰感のようなものを経験することも多く、どうにかならないもんかなあとついいろいろ考えてしまう。というわけで、少し抽象度の高い社会思想のお話。

今回の議論の発端はこちらの記事にあるような、女性専用車両への男性の意図的な乗車とそれがもたらすトラブル。少なくともネット上(の一部)では議論を喚起することに成功したという点で、実行した人たちの目的は果たされているようにも思う。ただ山口先生がお書きになっているように、世論の多数派は女性専用車両を支持しており、どれだけ議論になったとしても、多くの女性が被害に遭うという事実は、そうした被害から女性たちを遠ざけるために乗車できない車両が設けられることによる男性の不便を、天秤にかけるに値しないものだと見なす傾向は揺るがないように思われる。

一方で、こうした問題が論争的になる背景には「男性/女性」というカテゴリーに基づく議論があまりにも範囲の広い、実際の多様な現実に見合わないものだということもあろう。この問題を取り扱うに際し私たちは、どこまで大きなカテゴリーで話をしなければならないのか。

こうしたことを考えるときには、まず起きていることが「個別のケース」から演繹される要因によって生じているのではなく、特定のカテゴリーに対する「マクロな傾向」から生じているということを押さえなければならない。具体的には、以下の2つのケースを見るとよいだろう。

カスタマーサポートの写真を「女性」「男性」「ブロンド美女」「猫のキャラクター」に変更すると、何が起こるのかという記録 – GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20180219-photo-messaging-with-customers/

「アルマーニか」銀座の小学生に嫌がらせ相次ぐ : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/20180220-OYT1T50000.html

両者のケースはともに、社会的に弱い立場に置かれた人々のうち一定の割合が、何らかの攻撃の対象になりうるということを示している。つまり女性や子どもは、その人になんらかの原因があるから攻撃されるのではなく、女性である、子どもであるという「だけ」で、標的にされるリスクが高まるのである。そうした経験をすれば、女性や子ども(の保護者)は「自衛」のために普段から「気をつける」ようになるかもしれないけれど、そうしたミクロレベルでの対策と、マクロな傾向とはさしあたり切り離して考える必要がある。マクロに見てそのような傾向が観察されるのであれば、そのカテゴリーに対してなんらかの保護対策を行うのは合理的な施策だと言える。

だが上の2つのケースからは、より問題を複雑に見ることもできる。最初の記事にあるように「魅力的な容姿のブロンド女性」は、そうでない女性に比べて暴力の対象になるリスクが高いと思われる。あるいは2番めの記事のように、メディアで報道の対象になるといったことも、一時的ではあれ被害に遭うリスクを高める。大きく見れば「女性は男性に比べて暴力の対象になる傾向が強い」のだとしても、より細かく観察すれば、その中にリスクの高い群とそうでない群を認めることができるかもしれない。そのとき「女性」というカテゴリー保護の大きさは適切なのかという議論はあり得るだろう。

もうひとつ重要なのは、加害側のカテゴリーの大きさと、対策にかかる負担の問題だ。「女性」がより被害に遭いやすいので保護の対象にするならば、当然「女性でない人」(多くは男性)が一律に対策から漏れることになる。だがたとえ「男性は女性よりも性暴力の加害者になる傾向が強い」という事実が観察されたとしても、すべての男性が加害者であるわけはないので、女性の保護に関わる不便を男性が等しく享受しなければならないことについての不満が生じうる。集団の中では少数派であろうと思われる痴漢の常習犯の被害を抑止するために、多数派である痴漢をしないと自認している男性までもが同じように不便を強いられるのは我慢ならないという感覚は、抑止対策が厳しくなるほどに大きくなるだろう。

今回のケースとは離れるが、北陸先端科学技術大学院大学の「喫煙後45分は入構禁止」という措置に対する反応にも、そうした不満を感じることができる。喫煙者の中でも「1日1本吸うか吸わないか」という人からチェーンスモーカーまで様々ある。この対策がもたらす「不便」は両者で異なるだろうし、普段から喫煙マナーを強く意識している人ほど、こうした措置に対して「一部のマナーの悪い人のせいで喫煙者全体の肩身が狭くなっていく」という不満を持つことになるだろう。「喫煙者」とひとくくりにすることで、本来は多様であるはずの喫煙者が逆説的に「排除される側」というカテゴリー意識を強めてしまうことすら考えられる。

実はこのような「保護/排除すべきカテゴリーを明確にすることがもたらす諸問題」については、政治哲学の中でも有名な論争がある。それが「再配分/承認論争」というもので、過去にこのブログでも紹介したことがある。

「である」人と「する」人
今も残る「である」ことと「する」ことの問題 丸山眞男の文章の中でもっとも有名なものといえば、おそらく国語の教科書で読んだ「「である」ことと「する」こと」(『日本の思想』所収、1961年)になるだろう。あまりに有名なこの文章をいまさら要約する...

ここでナンシー・フレイザーが取ったのは「保護すべきカテゴリーを承認することがかえってその人たちへの憎悪を高めることがある」というもので、むしろそうしたカテゴリーは脱構築されるべきだというものだ。現代的に解釈するならば、データなどのエビデンスに基づいて高リスクな状況や群を特定し、いわゆる「アーキテクチャ」を用いて機械的に高リスク群を切り離すことで対策を講じるべきだということになると思う。予算を無視して考えるなら、IC乗車券に登録された各種の情報(性別や年齢、妊娠の有無など)をもとに、特定の特徴を有している人であればA車両、そうでなければB車両にしか乗車できないという風に振り分けるといった具合だ。

制度や環境を上手に設計すれば、そこで電車に乗っている人は、どのような条件で自分がその車両に振り分けられたのかを知ることができず、自分以外の属性の人がどのような環境で乗車しているのかも知り得ない。そのためにフレイザーが言うような「保護されたカテゴリーへの憎悪」は起きようがない。そういったわけで、社会的属性の多様性が増すほどに、社会的に認知された属性やカテゴリーによって扱いを変えることへの批判が噴出し、エビデンスに基づく工学的に自動化された対応の差異化へのニーズが高まるというのが、ここから導かれる結論ということになる。

ところでこうした「自動化された取り扱いの差異化」のことを、社会学では「社会的振り分け」と呼んで批判的に扱うことが普通だ。その理由は論者によって多々あって、「人間は単なるデータの集合体ではないので、工学的な取り扱いには倫理上の問題がある」というものもあれば、「技術の設計者が振り分けの塩梅を決められることで実質的な権力を握ってしまう」というものもある。その中でも僕が社会的振り分けを(一定の効果を認めつつも)批判的に考える理由は、「社会政策を民主的に決定することが不可能になるから」という点にある。

少し前のブログにも書いた通り、世の中的には「話し合いで分かり合う」という解決に対するポジティブな感覚が薄れつつあるように思う。どうせ分かり合えっこないなら、最初から触れ合わないようにするのがお互いのためじゃんとか、話し合いとかいうけど、結局は話し合うに足る人は最初から選別されているじゃんとか、そういう気分が薄く広く共有されているように感じる。綺麗事を言うくらいなら、機械の判断にすべてを委ねて、またそのアルゴリズムを設計する人々が互いにバグを潰し合いながら運用を改善していくはずだというハッカー倫理に期待しておく方が、民主主義なんかよりずっとマシだという主張に説得的に反対するのは、多くの社会思想家にとっての課題であり、そして困難である。

ただせめて、議論の抽象度を少しだけ上げることくらいには貢献したいなと思う。現在のネットの論争に多様な感想を持つ人が参加すること自体は、それこそ民主的な議論という面で考えても必要だろう。けれど保護/排除されるカテゴリー「である人」どうしが互いに憎悪と、すれ違いの徒労感しか持たない論争が繰り返されれば、それは結果的に「分かり合えない人といかに関わりを断って生きるか」という志向を強めることにしかならない。議論のフィールドを変えることで「そういう風に考えると話が通じ合うのか」といった体験をネットで提供するのは無理だとしても、せめて目の前で関わる学生たちの範囲では提供できればと思うところ。

付記:「対話」ということについては、「ひとりの人間がすべての人と対話できる」という極端な想定をする必要はないように思う。どんな人にも「話の通じる」範囲があり、分かり合えない人もいる。ただ、私の話が通じる人は、その話を別の人に違った形で伝え、通じ合うことができるかもしれない。僕が思春期の難しい問題を抱えた中学生に話をしても何も通じないだろうけれど、僕の話を受け止めた担任の先生なら、長い時間をかけてその子と通じ合うことができるかもしれない。まずいのは「○○である人」をハードで全面的なカテゴリーだと考え、「××である我々とは通じ合わない」という風に分断してしまうことだ。対話はグラデーション的になされるものであり、また時間をかけて変化するという認識を諦めないかどうかが、さしあたり大事なことなんだと思う。

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