引き裂かれた当事者性

語り口の問題、というものがある。「何を語るかより、誰が語るかだ」という話にも近い。科学という営みは「誰が語っても同じ答えになるもの」に漸近していくものだから、こうした「語り口」に対しては距離感のある学者が多いと思う。もちろん「教育者」として考えるなら、彼らの仕事は人を動かすことなので、「語り口の上手な教師」が人気になる傾向にあるし、それが大学であれば研究費を獲得できたり院生が増えたりして研究リソースの拡大につながるという側面もあるから、語り口と無縁というわけでもないのだけど。

そのジレンマは、僕自身にもある。研究という面で言えば、この数年、内容よりもハッタリ、根拠よりもビジョン、何を言うかよりも誰が言うかが重視される傾向が、ソーシャルメディアの普及とともに強くなり、それがスタートアップにおける独自のハッタリ文化を作り上げたり、「意識高い系」と揶揄されるような人々の振る舞いの自己啓発化を促したりしていることを課題として取り上げてきた。昨年、学会などでこうした傾向を、ベルナール・スティグレールの「心権力」という概念で説明できそうだというヒントをいただいて、より深く考察してみたいと思うようになってきてもいる。

他方で僕自身は、そうした「語り口」の点で、まさに「人を動かす」ことが相対的に得意であり、またそのことにある種の自信や自己効力感を感じているタイプでもある。自分が批判的に考察する対象が自分の得意分野だというジレンマは、当然のことながら対象との距離感をとても微妙なものにする。

その微妙さは、たとえばこんな記事を読んだ時に自分の中に相反する感想が生じることにも現れている。

記事の前半は、TEDを中心に、ある分野でのプレゼンのあり方が以前よりも「エモく」なっていることを示している。「トランプ以後」という言い方も興味深い。政治の世界も産業の世界も、明確な根拠を示して論理的に組み上げる(広義の)政策から、いまだ存在しない市場や需要を発掘するための「暗闇への跳躍」が求められるようになっている。そこで重要なのは「ビジョンを示すこと」であり、そのビジョンに対する共感を集め、人を動かすこと、具体的には出資者(あるいは投票者)を募ることだ。

だが記事の後半になって、僕のよく知らない日本の業界の人たちの話に言及されるに至って、話は急に怪しくなる。本来なら「事業の拡大」「政策の実行」という目標のために用いられるはずの「エモい語り口」が、生き方や仕事のスタンスの話にスライドする。人を動かして何かを実現するのではなく、人に対する影響力が、サバイブのための手段になる。言及されている人たちがどういう仕事で生計を立てているのかは知らないけれど、少なくとも読み手が受け取るメッセージはそのようなものだ。

「エモい語り口」は、こういう諸刃の剣になる危険性を、常にもっている。自分の営みに誠実であればこそ、既にあること、人の指示に従っていればいいことの中にとどまるのではなく、イノベーションや新市場の開拓、学術的な発見に向けて跳躍するための「ビジョン」を示すことが求められる一方で、それを受け取る側が「これからは専門的な知見に基づく論理的な分析ではなく、勢いだけのバカでも人の何倍も努力することで成功するのだ(だから大事なのは勉強ではなくブログの更新回数なのだ)」という理解をする可能性を避けられない。

そうした冷静な分析とは裏腹に、「ああ、でもそういうトレンドってあるよなあ」とか思ったり、「なんなら最近、ブログでもエモめの記述をあえて増やしたり、学生向けにSlackで書いた文章を転載したりしてるもんなあ」という自分にも気づく。そういうのが嫌いな人は一定数いるし、そのことで悪口を言う人がいることも知っているけれど、その人たちのことを顧みる必要を感じないくらいには、そういう自分に開き直っているところがある。

考えてみれば、20代の頃から自分の記述は、そういう「引き裂かれた当事者性」に深く関連している。引いた目線で当事者を批判するでもなく、かといってその中に埋没して分析的な視点を失うでもない、そういうスタンス。どっちつかずゆえに双方の立場の人から批判されることも多いけれど、ジレンマの中にある人、そのことに自覚的な人ほど、強く共感してくれることが多かったように思う。

社会というものは、どちらにせよその中で生きていくしかないものだから、引き裂かれた当事者性というのがもっとも誠実なスタンスであり、そこであえてブーメランを投げ続けるしかないのだろうと思うけれど、そのことで何かの解決に向かうわけではないし、きっと理解者が増えるということもないわけだから、なかなかにしんどい立場だなあと、まったく休みのなかった連休の最終日に思うのだった。

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