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	<title>Soul for Sale &#187; 思考</title>
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		<title>正月だからタスク管理を考える</title>
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		<pubDate>Tue, 03 Jan 2012 14:00:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>タスク管理という奴は、それだけで本が何冊もあるくらい奥の深いものなのだけど、きちんとした形で始めるには色々と困難もつきまとう。一番やっかいなのは、「多数のタスクを抱えている」からこそタスク管理を始めたいのに、忙しすぎてそもそもタスク管理の方法について学んだり工夫したりする余裕がないということだ。正直、GTDの本なんか読んでる暇があったら仕事するよ、という人も多いと思う。</p>
<p>お正月というのはそういう意味で、タスク管理を学んだり始めたりするのにとてもいい時期だ。まだ12月30何日あたりをうろうろしている人もいるだろうけど、実家でいつまでもぬくぬく休んでいたいという人もいるんじゃないかと思う。そこで今回は、自分がタスク管理を見直す時期だったこともあって、「誰にどんなタスク管理が向いているのか」について整理してみようと思う（ちなみに僕は、毎日色んな仕事をこなしてはいるけど、タスク管理の専門家でもなんでもないので、そういう意見が聞きたい人は「戻る」ボタンを押してもう一度Googleで検索だ）。<span id="more-1090"></span></p>
<p><strong>タスク管理と「時間割」の違い</strong></p>
<p>まず、タスク管理と「予定表」の違いを押さえておく必要がある。特に学生までの時分では、タスクとはすなわち予定のことだった人が多いと思う。授業の時間割だとか、レポートの提出締切だとか。夏休みの一日の予定を円グラフにしたなんて人もいるだろう。あれは簡単にいうと「何かをする時間」だけを管理しているもので、要するにその時間に決め（られ）たことを実行すればいいわけだから、タスク管理としては初歩の部類だ。</p>
<p>こういう管理ができるのは、タスクの先が一元化されている場合に限られる。学校だったら教室という場所に行く、9月1日に夏休みの宿題をまとめて提出する、など。でも、大きくなってくるとそういうわけにはいかない。学生だって勉強とサークルとバイトを鼎立させないといけないし、会社に入れば複数の取引先を相手に、微妙に異なる仕事をしなければならない。</p>
<p>もうひとつ違うのは、「仕事をしているとき」は「締切」や「実行日」ではないことが多いということだ。夏休みの宿題は、最初の一週間で終わらせようと、最後の三日で慌ててやろうと、夏休み明けに提出すればそれでよかった。夏休みをどう過ごそうがあとは自由だ。でも大人の仕事には、きちんと質に対する評価が付く。時間をかければいいものができるわけじゃないけど、やっつけ仕事で提出だけすればいいというものではない。そのため、「どのくらいの時間をかけてそのタスクに取り組むか」の見積もりができないと、結局は終わらない仕事を抱えて徹夜続きでパンク、なんてことになりかねない。たとえ締切をちゃんと覚えていたとしてもだ。</p>
<p><strong>タスク管理の三つの要素</strong></p>
<p>ということは、タスク管理をするためには、子供の頃の「予定表」に加えて、作業時間の見積もりを行う必要がある。タスク管理の世界（？）では、これはたいてい「進捗」と呼ばれている。いまその仕事が何パーセントくらいの達成率なのかを管理することで、「あとどのくらいの時間が必要か」を推し量るのだ。</p>
<p>当たり前だけど、進捗や残りの作業時間は人によって異なる。レポートなら、ワードを前にうんうん悩むのが大部分の時間を占める人もいれば、じっくりと図書館で下調べをするのに時間をかける人もいる。教科書的にはそこで「図書館で資料探し」と「本文執筆」にタスクを分けて、それぞれの予定を細かく管理せよ、と書いてあるのだけど、正直お勧めしない。細かすぎても管理が複雑になるし、そもそもそんな簡単に分割できないタスクも多いからだ。</p>
<p>なにより、こうした複雑な管理は、タスク管理の三つ目の要素「余裕（バッファ）」をコントロールすることを難しくする。綿密に立てられた予定は、それを眺めているだけならうっとりできるくらい美しいこともあるけれど、世の中はまず予定通りには進まない。風邪をひいてしまったり、恋人と喧嘩してやる気を失ったり、定期券を落として遺失物届け所に行かなきゃいけなくなったりするものだ。</p>
<p>「予定」「進捗」に加えて、この「余裕」を管理できるかどうかで、タスク管理が役に立つものになるか、時間の無駄で終わるかが別れる。言っておくけど、タスク管理は所詮タスクを完了させるための手段なので、仕事さえ終わればタスク管理なんかできなくてもいい。ただ、どのくらいの余裕で仕事を進めるかって、文字通りワークライフバランスに関わってくるわけで、仕事一筋に生きたいと思わない人ほど、意識した方がいいんじゃないかと思う。</p>
<p><strong>どこまでを自分の頭に入れるか</strong></p>
<p>さて、ここからは具体的な手段の話だ。タスク管理といっても、紙の手帳を使う方法から、流行のウェブサービスを使うものまで多様だ。ここでは、そうした多様な手段の中から、どんな方法が向いているのかについて判断する基準を挙げてみたい。</p>
<p>(1) 手書きの方が馴染むかどうか？<br />
これはもう個人の問題なのだけど、世の中には「手書きの方が早い」人もいれば、「PCのキーボードの方が早い」人もいる。僕は使い慣れたキーボードなら、人の会話の要約くらいはリアルタイムで議事録化できるレベルのものが作れる。でも手書きの方がいいという人にとって、使い込んだ手帳やノートは、どんなアプリケーションやサービスもかなわないユーティリティを有している。もちろん、ケータイでの入力が最速だという場合もあるだろう。なんにせよ、入力するのに一番ストレスのない方法を選ぶべきだ。</p>
<p>(2) 他の人との共同作業が多いか？<br />
人は誰も一人では生きられない。仕事も同じだ。そして他の人との共同作業は、自分一人ではなし得なかった成果を可能にすることもあるけれど、誰か一人のせいで足を引っ張られることもある。他の誰かの仕事があがらないと自分の仕事が進まないような共同作業が中心の仕事をしている場合、タスク管理も必然的に進捗や余裕の管理の方が大事になる。紙の手帳に毎日、メンバーの進捗状況をメモしていってもいいけど、やっぱりこういうときはPC上での管理が便利だ。</p>
<p>(3) いつも決まった場所で仕事をしているか？<br />
出勤して、朝から晩まで自分専用のPCの前にいられる人は幸いである。でも、取引先への交渉、営業、取材、リサーチなど、オフィスを離れて仕事をすることは多い。帰社してメールをチェックするまで、ほぼ一日PCを触らないという人にとって、パソコンに入れた進捗管理表なんてほとんど役に立たない。こういう人は紙の手帳を持ち歩くか、ケータイからでもチェックできるウェブベースのサービスを利用すべきだ。</p>
<p>そして、どんなツールを選ぶにしても気をつけないといけないことがある。それは、ツールは結局のところ自分の頭をサポートするものでしかなく、頭の中身をすべて写し取ることは（いまのところ）できないということだ。問題は、どこまでを自分の頭に入れておくかという点にある。予定表だけ見て、現在進行中のタスクと進捗を挙げられるくらい性能のいい脳じゃないとしても、いちいちメモをとる前に「このメールを書いたら次はこっちに電話」くらいのことは覚えていられるはずだ（という僕はよく忘れるけど）。また、ものの1分で済む仕事のためにタスク管理サービスを5分眺め続けるなんて無駄の極みだ。ツールは万能じゃない。必要なことだけを入力し、それを使いこなす方に頭をチューニングできないと、結局は山積みのタスクの前で途方に暮れるだけだろう。</p>
<p>僕の場合、タスクはできる限りおおざっぱに書く、移動ないし提出物のあるタスクに限るという使い方が主であり、また色んな場所で仕事をすることが多いので、⑴ シンプルにタスクが登録できること、⑵ 多くのデバイスに対応していること、という条件を満たすものとして、いまのところ<a href="http://www.6wunderkinder.com/wunderlist/" target="_blank">Wunderlist</a>をウェブ、iPad、Androidのスマホで利用している。iPhoneアプリとしては<a href="http://www.google.co.jp/url?sa=t&#038;rct=j&#038;q=%E6%AC%A1%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8&#038;source=web&#038;cd=1&#038;ved=0CDgQFjAA&#038;url=http%3A%2F%2Fitunes.apple.com%2Fjp%2Fapp%2Fid400206539%3Fmt%3D8&#038;ei=aqMCT_DzJO_PmAWqutDkBw&#038;usg=AFQjCNF4FJz5FXpkGTmNUczkFE8JhRl78g&#038;sig2=A-yizQ5tkgoUnCObi7iMnA" target="_blank">「次にすること」</a>が秀逸だった。</p>
<p>正解なんてものはないし、特にPCやウェブのツールは日々進化する。だから「何を使うか」（に伴う「どう使うか」）という部分にフォーカスした話をしても意味のないところがある。その一方で、どんなツールが向いているかという話は、自分のライフスタイルや職場が大きく変わらない限りは有効なのだ。時間にちょっと余裕のある正月だからこそ、自分のワークスタイルを見直してみるといいんじゃないか。</p>
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		<title>「自粛ムード」の心理</title>
		<link>http://blog.szk.cc/2011/04/17/psychology-of-jishuku/</link>
		<comments>http://blog.szk.cc/2011/04/17/psychology-of-jishuku/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 17 Apr 2011 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[思考]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>

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		<description><![CDATA[Twitterに「不謹慎」という非難が飛び交う理由について書いたのがきっかけで、海外のメディアからいくつか取材の依頼をいただいた。それ自体はありがたいのだけれど、どうしても「自粛＝日本独自の現象」という先入観で取材をされ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Twitterに「不謹慎」という非難が飛び交う理由について書いたのがきっかけで、海外のメディアからいくつか取材の依頼をいただいた。それ自体はありがたいのだけれど、どうしても「自粛＝日本独自の現象」という先入観で取材をされることや、僕の語学力の問題もあって、なかなかきちんとした形では答えられなかったところもある。さしあたりここでは、「自粛」を一般的な心理状態であると仮定した上で、そうした感情や、それが生み出す弊害をどう回避するかについて考えてみたい。</p>
<p><span id="more-1056"></span></p>
<p><strong>１．自粛と萎縮</strong></p>
<p>まず、「自粛」という言葉について。宇多田ヒカルさんも「自粛を要請ってそれ他粛じゃね？」とつぶやいてたけど、じっさい僕らが直面している「自粛」なるものは、なんとなくパーッとやる気になれないという「自粛」と、ここで盛り上がるのは批判を招くのではないかという不安からくる「萎縮」のふたつから成り立っている。むろん「自粛を要請」されたところで、それに従うかどうかはお任せしますよ、ということだから「自粛」なのだし、実際に批判を受ける前から自らの判断で何かを止めてしてしまうことを「萎縮」というわけだから、このふたつは簡単に切り分けることができないのだけれども。</p>
<p>ただ、いわゆる「自粛ムード」だとか「過剰な自粛」だとか言われて批判されている昨今の風潮は、「自分としては自粛するつもりはないのだけど、自粛しないことで批判を受けるのではないかと萎縮していること」を示しているのは確かだ。実際、テレビ東京がアニメの放送を再開した際には、局の方に抗議が来たとも聞くから、その不安も故のないものとは言えない。それでも多くの場合、抗議がくる前に中止を決定するわけだから、問題は「過剰な自粛」ではなくて、「過剰な萎縮」の方にあると考えるべきだろう。</p>
<p>過剰な萎縮が招く経済活動の停滞を避けることを目標にするならば、自粛せよという非難がどのような動機から生じるのかということ、つまり非難する人の問題と、その非難を先回りして萎縮する側の問題を切り分けた上で、前者の人びとの動機を別の方向に向けさせ、後者の人びとに過剰に心配する必要はないのだということを示すことが必要になる。そのためには、前者、後者をともに「日本文化に特有の問題」と切って捨てるのではなく、ある程度普遍的なメカニズムの中で生じた現象だと仮定して対策を考えた方がよい。</p>
<p><strong>２．罪悪感が非難を生む</strong></p>
<p>Twitterで僕が<a href="http://togetter.com/li/112174" target="_blank">述べた</a>のは、R. K. マートンの『大衆説得』における「献身の三角形」というモデルを援用した仮説だった。ごく簡単にまとめると、震災以後、被災地の状況は様々なメディアのチャネルを通して、被災者ではない人びとにも届けられている。さらに原発事故のような、専門性が高いにもかかわらずハイリスクな出来事が長く続くことで、多くの人が「自分ではどうしようもない悲惨な出来事」に直面しているという感覚を強く抱くようになった。この「何かしたいのに何もできない」というフラストレーションが、「自分より何もしていないように見受けられる人びと」へと向けられるのが、「不謹慎」という非難なのではないかということだ。</p>
<p>ただこの説明は、マートンの説明（自分は貢献できていないという不安から、戦時公債を追加で購入してしまう）を逆転させただけであり、なぜそれが「非難」へと向かうのかという点については少し曖昧になっている。そこでもう少しだけ補足してみよう。</p>
<p>僕の説明だと問題になるのは、たとえばメディアによってフラストレーションが喚起されるなら、なぜ日本よりも（良くも悪くも）生々しく、またときに扇情的な報道が行われた海外においては非難や自粛の動きがほとんど見られないのかというところだ。日本でのみこうした現象が見受けられるということは、やはりそこには日本の文化特有の問題があるのではないか？</p>
<p>この点に対する反論として、たとえば2001年の米国同時多発テロの際にも、全米のラジオ局で複数の曲が放送禁止になったじゃないか、ということを挙げることもできよう。ただそれよりも僕としては、今回の震災に関してメディアが与えるフラストレーションは、特に日本のある種の層にとって強いものになっているのではないかという仮説の方が説得力がある気がする。</p>
<p>震災で注目を集めた概念に「生存者罪悪感（Survivor&#8217;s Guilt）」というものがある。大きな災害などで生き残ってしまった側が持つ罪悪感で、PTSDを引き起こす可能性があることから、適切なケアが必要であるとされている。なぜ彼らは罪悪感を抱くのか。それは、亡くなってしまった人たちは「何の罪もない」人であり、自分と相手の生死を分かったその境界線は、偶然引かれたものに過ぎないという風に思えるからだ。死ぬほどの罪を背負っていたわけでもないのに死んでしまった人と比べれば、自分という存在は生きているだけで何らかの罪悪を抱えている、という関係性が、生存者たちを苦しめるのである。</p>
<p>さて、その「罪もない」人びとに対する罪悪感を、私たちがもっとも強く感じるのはどういう人だろう。おそらく、自分と境遇の近い人ということになるのではないだろうか。似たような年齢で、似たような立場で、しかし向こうは亡くなってしまったのに自分はのうのうと生きていると思われるとき、罪悪感はもっとも強くなる。実は、震災後にマスメディアによって広められた「犠牲者」のイメージこそ、多くの人びとにとって「自分と大して違わない」、つまり「普通」の人びと、というものだった。むろんこの場合の「普通」は、日常的にテレビを見ている層で、かつターゲットを絞りやすい対象、つまり、子どもを抱えた親だとか、高齢者だとかにとっての「普通」なのだが。</p>
<p>ともあれ、主としてこうした人びとに対してマスメディアの報道は強いフラストレーションを引き起こすものになる。逆にいえば、外国の人びとは日本の報道に「自分たちと同じ」という感覚を惹起される可能性が低いので、そこまでのフラストレーションにはならないのではないか（逆に原発問題が非常にセンシティブに作用する西ヨーロッパ諸国、とりわけフランスやドイツで反原発運動が盛り上がった理由も、似た現象がかの国で起きたと考えれば説明がつく）。</p>
<p>「普通」の人びとが被った犠牲というマスメディアのメッセージは、彼らに共感する人びとの間にある種の生存者罪悪感に近い感覚を広めることになったのではないか。</p>
<p><strong>３．共感不可能性と攻撃性</strong></p>
<p>生存者罪悪感の中でも、直接被災者と関係がなかったり、被災地から遠く離れていたりする人が感じ取る罪悪感は、様々な意味でやっかいだ。まずもって彼らは被災者でも犠牲者でもない。ただその人たちと似た境遇だと感じているだけの存在なのだ。だから、自分のフラストレーションを理解してもらおうにも、同じ非被災者からは「でも別におまえが被災者を代表して傷ついたり怒ったりする正当性ないじゃん」と言われ、実際、自分でも被災者の方々には申し訳ないという気持ちがあるわけだから、被災者にもその感情（「あなたの気持ちはよく分かる」）を吐露できない。つまり彼らは、誰からも共感を得られないような罪悪感を抱えてしまったのだ。</p>
<p>僕自身、秋葉原連続殺傷事件の折にそうした感覚に襲われ、非常に強いストレスを感じることになった経験から、こうした人びとの罪悪感は、似たような感覚を抱えた人どうしでざっくばらんに話をしてみることからしか解消されないと感じている。しかしそうした回路を持ち得ない人びとにとっては、被災者に対する申し訳なさよりも、被災者に共感を感じる自分を理解してくれない周囲との温度差の方が、より強いストレスになるだろう。結果的にそのストレスは、彼らに対する攻撃性として現れてくる。</p>
<p>その攻撃性の一例が、おそらく「不謹慎」なものに対する非難であり、「自粛せよ」という声なのではないか。この点を押さえることで、「自粛ムード」というものが、「喪に服する」という日本の宗教的伝統に由来しているのだという、問題のある説明を回避できる。喪に服すというのはあくまで自分自身の行為であって、喪に服さない人びとを責めるための理屈ではない。あまり好きな例ではないけれど、未亡人というのは周囲が夫亡き後の新しい人生を生きることを勧めてきたとしても、それに逆らって夫の死に殉じ続けることで喪の意志を表明する。それを踏まえれば、「自分と同じように喪に服せ」と人に命じるのは、喪に服すという行為の尊さ（だと考えられているもの）を台無しにしているといえないか。</p>
<p>むしろ自粛を求める非難の声は、社会心理学的に普遍的なメカニズムによって引き起こされたものであり、それゆえメディア社会の問題や災害時の報道のあり方としてとらえることが可能なものだと見なした方がよい。そうすることで、何もできないもどかしさ故に攻撃性を発露している人びとに対する「対処」方法について考えることができるようになるからだ。</p>
<p><strong>４．「不謹慎を許せない人たち」をどうするか</strong></p>
<p>まずもって重要なのは、「不謹慎を許せない人たち」の攻撃性は、彼らが感じているフラストレーションを可能な限り倫理的に解消するために生じているのであって、たとえばより上位の価値による抑圧（日本の経済を停滞させてはならない）とか、彼らの行為がはらむ倫理的な問題の指摘（おまえの言い方はキツすぎる）では昇華されない、むしろ火に油を注ぐ結果になると思われることだ。もっとも有効なのは、似たような罪悪感を抱える人どうしが話し合いながら、自分たちがとることのできる適切な手段について考えられるようにすることなのだが、それ以外の人にもできることはある。</p>
<p>まず、余裕があるならば黙って話を聞く、というのがあるだろう。こうしたケースでの心理的な攻撃性は、自分でも理屈が通らないことを自覚していたり、時間がたつとなぜそんな気持ちになったのか分からなくなることが多い。話を聞いているうちに、相手も少し落ち着いてきて、冷静に話ができるようになるかもしれない。その上で、Twitterなんかでも書いたように、その人にとって本当の意味で貢献できることについて考えることも、意味があるだろう。</p>
<p>相手と自分が対等な関係になく、たとえばこちらが組織として「不謹慎だ」というクレームに対処しなければならない場合、ただ話を聞くだけでは済まないこともある。こういうケースは現場の人たちが詳しいだろうけれど、攻撃性を昇華するためには「無理が通った」という気になることが大事だ（「おまえじゃ話にならん！上のものを出せ！」）。一定程度の譲歩は、相手と自分の立場を対等に近づけ、相手の理不尽さについて自覚してもらうきっかけを生むかもしれない。</p>
<p>もしかすると、自分自身でも「不謹慎」を許せないとまではいかなくても、ぱーっと盛り上がることにある種の罪悪感を感じているかもしれない。そういう人は、盛り上がることと被災地のための貢献を両立させるような手段を考えてみるのもいいだろう。日本リサーチ総合研究所のレポートでも<a href="http://www.research-soken.or.jp/reports/economic/pdf/number28.pdf" target="_blank">述べられている</a>が、「コーズ・マーケティング」と呼ばれる、消費行動と社会貢献を両立するようなプログラムもすでにいくつかスタートしているし、地域の祭りで義援金を集めることだってできる。積極的な行動が苦手な人には、各企業の震災に対する取り組みを調べたり、まとめページを作ったり、TwitterでRTしたりしてみてはどうだろうか。</p>
<p><strong>５．この文章の読み方</strong></p>
<p>と長々と書き連ねてみたものの、いまだに悩ましい部分はある。そもそもこのエントリは取材などで喋ったことを補足するために考えていたものなのだけれど、あれこれ調べたり迷ったりしているうちに時間がたってしまい、当初とは少し状況が変わってしまったところもある。また、先行研究などから示される典型的なパターンが当てはまるという前提で話を進めているから、ここでの分析が当てはまらないケースもたくさんあるだろうし、もっとスマートな説明の仕方もあったかもしれない。</p>
<p>なので、ここに書いた話は「役に立つのならば役立てる」という読み方しかおすすめできない。普通の言葉を使えば「参考資料」だ。新しい状況が発生したり、考え方が変わったりすれば、またここで何かを書くこともあるかもしれないけれど、現段階で考えられるのはこのくらいということで。</p>
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		<title>時間は有限だが可能性は無限だ</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Apr 2011 15:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
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		<description><![CDATA[35歳になった。統計上は「若者」の定義から外れる年齢ということになろうか。正直なところ若いか若くないかという感覚そのものが鈍っているので、そういわれてもあまり感慨はない。一応、今年で物書きとしてお金をいただくようになって [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>35歳になった。統計上は「若者」の定義から外れる年齢ということになろうか。正直なところ若いか若くないかという感覚そのものが鈍っているので、そういわれてもあまり感慨はない。一応、今年で物書きとしてお金をいただくようになってから、つまりデビューしてから10年ということになるのだけど、歴史というか社会的な風潮の目安としてのディケイドと、自分の人生の中の10年というのは同じ物差しでは測れないわけで、こっちも「へえ」くらいの感想だったりはする。</p>
<p><span id="more-1052"></span></p>
<p>35歳問題、という奴にも直面しそうな気配はない。自分の人生を振り返れば、なれたはずの自分、失わなくてもよかったはずの関係、今なら選ばないはずの大事な選択は、山ほど数え上げられる。けれど、もうここに至るまで何度も何度も後悔して懺悔して諦めて開き直ってまた後悔してを繰り返してきた僕にとって、「取り返しのつかないこと」が持つ重みなんて、いまさら突然増えるはずがないのだ。</p>
<p>おそらくこの話は、なれたはずの自分よりも今の自分の方があるべき姿なのだということを確信するために、なれなかった自分を弔い、鎮める必要から生じたものなのだと思う。けれど「リスク社会」であるところの現代においては、「ああすることもできたかもしれない」などという後悔の念は、大人になったからといって消えはしないし、減りもしない。むしろ関わる人間関係の増大とともに、より複雑な形でリスクへの対処を求められるようになり、決断と後悔を繰り返す場面の方が多くなるだろう。</p>
<p>一方で「できること」についてはどうだろうか。僕に限って言えば、こちらの方は「増えてきた」とシンプルに答えることができる。金銭面もそうだし、経験も積んだ。失敗しなくなったという意味じゃない。失敗が持つダメージの大きさを勘案できるようになり、それは自分の現在の手持ちの資源でどのくらい補償できるものなのか、予測できるようになったということだ。「失敗したらどうなるか分からない」というのと、「失敗したらこのくらいひどいことになる」では、後者の方が、たとえ現在失敗しつつあったとしても気分がずいぶんと楽になり、不安からくる決断の先延ばしという事態を回避することができる。</p>
<p>もしかすると、40歳とか50歳になったら、もう明らかに意識が変わってしまうような出来事が起きるのかもしれない。でもいまのところ、できることの量は増えていて、しかも未来にその気持ちや姿勢や「できること」の増大にブレーキがかかるようになるかもしれない、なんて思えている時点で、可能性は無限大だ。残り時間は刻一刻と減っているのだろう。けれど、その残りの時間でできることは、逆に増えている。どうしたらいいのだろうという迷いは、若い頃よりもずいぶん強くなった。</p>
<p>思えば僕は、ここ数年意味も分からず焦っていたのだけど、その多くは、自分自身ができるようになったことが急激に増えたことと、周囲とのギャップによって生じていたのだなと気づく。目標が達成されたことによるアノミーではない。新たに生じた目標と、そこに到達するための手段の不在というギャップから生じるアノミーだ。</p>
<p>僕が目指しているものが変化し、ある程度の積み重ねがないとたどり着けないようなものになっていけば、そこを一緒に目指せる人間の数は自然と減る。何に価値があると信じて、何が「高い」目標であるかが共有できない人が自分についてこないからといって恨みがましく思うのは身勝手だ。そして歳をとると、若いときには可能性が少ないが故に目標を共有できる気になっていた仲間が、それぞれの道で、それぞれの目標に向けて歩き出すので、付き合う時間を割けなくなったり、ときには利害が対立するようになったりするのだ。</p>
<p>簡単に言えば、歳をとることで、自分ができることは増えるけれど、その代わり仲間は減る。減っていく仲間をつなぎ止めるためには、人格的な信頼ではなく、仕事上の能力や、社会から期待されている役割を用いなければならない。馴染みだからではなく、きちんとした人だからこそ仲間が集まるのだ。かくして、人は歳をとることで「大人」になることを余儀なくされるのである。</p>
<p>まあこの点に関しても、そうそう人格的に信頼されるような振る舞いもしてこなかったし、「僕のこと気にくわないだろうけど、でも無視できないでしょ？」という嫌らしいアピールをして生きてきたわけで、いまさら「大人」なんか目指さなくてもいいのかもしれない。それでも、単に片意地を張って子どもすることと、自分がどういう理由で、なぜいまの状況にいるのかを理解した上で突っ張るのとではずいぶん違うはずだ。たぶん僕は、何も変わらないけれど、何も変わらないために何かを変えた。そういう35歳のスタートなのだと思う。</p>
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		<title>「電子書籍元年」とオープン戦略の意味</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Feb 2011 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
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		<description><![CDATA[インターネットが登場した頃、これで紙のメディアは不要になると言われたことがあった。実際、オフィスでの文書のやりとりは徐々に電子化され、いまでは細かな文書はメールで送られることが普通になっている。けれどその一方で、コンピュ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>インターネットが登場した頃、これで紙のメディアは不要になると言われたことがあった。実際、オフィスでの文書のやりとりは徐々に電子化され、いまでは細かな文書はメールで送られることが普通になっている。けれどその一方で、コンピューターやインターネットに関する雑誌や書籍が売れるという出来事も起きたのだった。</p>
<p>昨年あたり騒がれた「電子書籍元年」も、それが既に三度目の「元年」であることがたびたび指摘されたが、電子書籍より、電子書籍やリーダーを特集した紙媒体が売れるという点でも、過去に何度か見た風景の繰り返しだったように思う。もっとも、デジタル化、情報化で世界が変わる、歴史が変わる、働き方が変わる、という話そのものが、1960年代から語られ続けている「狼少年」の類だったりするのだけど。</p>
<p><span id="more-1028"></span></p>
<p>では何も変わっていないのかというと、もちろんそんなことはない。変わったとか変わってないとかは、変化する枠組の定義次第でなんとでもなる話だ。さしあたって大事なのは、昨年からの「元年」が、何を、どのように変える可能性があるのかということを定義し、検証することだろう。</p>
<p>といっても、切り込むべき角度は無数にある。デバイスとしての電子書籍リーダーのデファクトになるメーカーはどこか、仕様は統一されるのか、出版社や書店の収益構造は変わるのか、取次や印刷会社のビジネスモデルはどうなるのかなど、数え上げればきりがない。</p>
<p>その中でも僕が特に気になっているのは、「電子書籍化」に絡んで様々な新規プレーヤーがこのブームに参入しようとしていることだ。とあるところで見せてもらった資料によると、出版社から読者の間に入る流通過程に、たくさんの業界団体、コンテンツプロバイダー、代理店が何らかの形で関わろうとしており、一目では理解できないほど複雑なアライアンスを結んでいるという。電子化とは本来、流通の中抜きをすることでコストダウンをはかり、消費者の利便性を高めることだと思っていたら大間違い、というわけだ。</p>
<p>これは言い換えれば、電子化は単に寡占を推し進めるのではなく、うまくプレーヤーの交代を促進することで新たなビジネスチャンスを生むものにもなりうるということだ。しかしその点が先行しすぎると、結局は失敗する結果に終わりかねない。</p>
<p>昨年末に購入したシャープのGALAPAGOSだが、経済誌をわざわざ紙で買って読まなくてもよくなった点では満足しているものの、それ以外では不満の方が多い。非常にわかりにくい設計の電子書籍サイト、買わせる気があるとはとうてい思えない概要の表示方法、ソフトウェアアップデートの際に生じたミスなど。しかし一番ひどいなと思ったのは、PCとの連携ソフトを使って読めるようになるとうたわれていたPDFが「ファイルを画像として解釈して表示する」という仕様を採用したことで、まともに読める代物にならなかったことだ。</p>
<p>このことは、たんなる設計ミスというよりは、先に述べたビジネスモデルの問題と絡んでいるのだと思う。つまり、TSUTAYAと連携して大々的にリリースした自社の電子書籍販売サイト経由で購入した商品以外は、基本的に読ませないという方針なのだろう。</p>
<p>これはまさに「ATRAC3の悪夢」を思い起こさせる事態だ。グループ内に音楽出版も抱えるソニーが自前で作った流通網にリスナーを囲い込むために採用した「WakmanではATRAC3がデフォルト」という仕様は、結局リスナーのWalkman離れ、あるいはiPodへの流出を促す結果となった。失敗した理由は簡単だ。人はレーベル単位ではなく、好きなアーティストや曲、アルバム単位で音楽を購入するのであり、またデジタル音楽プレーヤーのターゲットユーザーは、既に大量のデジタル音楽ファイルを所有していたという事実を、完全に無視したからだ。</p>
<p>電子書籍についても似たようなことが言える。出版業界の一部の人が考えているような「紙の手触りこそが書籍の本質」という考え方に同意する人は、確かに「本好き」ではあるかもしれない。しかし「本の消費者」として考えたときには、自分の所有する本を断裁してPDF化してまで大量の本をストックし、読みたいと思う「自炊派」の方がはるかに「本好き」だということになるだろう。</p>
<p>こうした人びとにとっては、既に所有している本を電子化して読めるのと同じくらい、わざわざ断裁してScan Snapに放り込まなくてもいいように、電子書籍販売サイトが充実していくことに対するニーズがある。「音楽好き」が結局購入した、またはTSUTAYAで借りてきたCDをリッピングする手間を省いてiTunes Storeで音楽を購入するように、買いたい本が販売サイトの方にあれば、そちらを購入するようになるのではないか。</p>
<p>実はこの点でも、TSUTAYA GALAPAGOSを含め多くの電子書籍サイトはニーズに応えられていない。点数が少ないのはもちろんなのだが、そもそも並んでいるラインナップに問題がある。そこでは往々にして、ビジネス誌、自己啓発本、旅行ムック、時代小説、ミステリ小説、そしてマンガが主力商品となっている。このラインナップは、新幹線の駅売りキヨスクに並んでいるものとほぼ同じだ。つまり、数時間の移動時間をつぶすための読み捨て前提のコンテンツであり、しかもそうした人達がまさに欲しいと思った瞬間に手に取ることのできる場所にあるリアル書店と競合しているのである。</p>
<p>経済の世界では「フロー」と「ストック」を分けて考えるが、その例に倣えばこれらのコンテンツは「フロー」としての性格が強い。なぜこうしたフローばかりが電子化の対象になるのか。その理由は、出版不況の影響の出方の違いによる。ストックが前提の一般書や人文書の場合、全体として本が売れなくなったとしても、それを挽回しようとすれば「当たる本」を作るしかない。それに対してフローの雑誌や新聞は、単体の号の売り上げよりも、固定読者の増加が見込めなければ意味がない。そのため「読者の間口を広げる」手段である電子流通化に踏み切るインセンティブが強いのだ。</p>
<p>むろん委託販売モデルとかその辺の問題もあって、書籍もだんだんストック的なものよりは新書などフロー性の高いものが主軸になりつつあるのかもしれない。だが電子書籍という点で考えれば、むしろ「宝の山」は、リアル書店に並ばない、つまりリアル書店と競合しない絶版本や少部数の専門書、雑誌のバックナンバーの方にある。ただ、この点については「図書館での電子レンタル」というダークホースとの兼ね合いが気になるところではあるのだけど。</p>
<p>iPodはコンテンツをオープンにする一方でデバイスをクローズにすることで、収益性とオープン戦略の両立を達成した。いまのところ電子書籍の世界では、コンテンツもデバイスもクローズというパターンが目立つように思う。それは「新しい流通」の手段に群がる様々なアライアンスのメンバー全員は納得させるかもしれないが、読者は納得しないし、企画そのものがこければ水の泡だ。いま必要なのは、コンテンツをオープンにすることで、デバイスなしでは生きられない人びとを増やし、最後は彼らにビートルズを売りつけるような戦略であるはずだ。</p>
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		<title>ニュースとしての行動履歴――mixiとfacebook</title>
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		<pubDate>Sat, 12 Feb 2011 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[思考]]></category>
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		<description><![CDATA[最近、ぼんやりとfacebookを眺める機会が増えた。特に何かを発信するわけでもなくて、何かを書くときも英語で、と決めているので、基本的には見ているだけ。しかも流れてくる情報にもあまり興味を持てない（他のサービスだってそ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>最近、ぼんやりとfacebookを眺める機会が増えた。特に何かを発信するわけでもなくて、何かを書くときも英語で、と決めているので、基本的には見ているだけ。しかも流れてくる情報にもあまり興味を持てない（他のサービスだってそうだけど）ので、ほんとにただの「読み流し」。でも、しばらくそうやって読み流しているうちに、facebookのインターフェイスが想定しているのは、そうした「読み流し」なのではないかという気がしてきた。</p>
<p><span id="more-1019"></span> 少し遠回りして説明しよう。人がウェブサービスを利用する大きな動機は「反応が返ってくること」だと言われている。言いたいことを言いっぱなしに言えるからではなくて、自分のアクションに対して何かリアクションが返ってくると、それにさらにリアクションをしたくなってしまう、というわけだ。もちろんそれはポジティブなリアクションばかりとは限らない。けどネガティブなリアクションの連鎖も「２ちゃんねるは殺伐としてるのが本来の姿」といった具合に認められてしまうこともある。</p>
<p>このリアクションの連鎖がウェブ上のコミュニティを生むわけだが、人と人との関係である以上、そこには大きなサイクルというものが存在する。どんな集団でも、出会った当初は気持ちが盛り上がるが、やがて冷めていくものだ。ネットの場合、最初にネットならではの「つながり力」みたいなものがポジティブにはたらいて、あんな人とも、こんな人とも出会えるなんて、素晴らしい！みたいな段階がある。コミュニティが急拡大すると、そこには独特の文化が生まれ、日常とは違う「そこでしかできないコミュニケーション」が、うまくリアクションの連鎖を導くというスパイラルも生じる。</p>
<p>ある程度まで拡大したコミュニティの中に、ノリを共有できない人の存在や、メンバー同士の意見の食い違い、仲良くなりすぎた故の気遣いの必要みたいなものが意識されだしたあたりから、コミュニティは内向きになる。拡大することよりも、既存のメンバーの関係を維持することに注意が向けられるようになり、またそうした人の間でも、リアルで会うのは年に一年くらい、基本はお互いの近況を眺めるだけ、という状態に陥ることがある。</p>
<p>気をつけなければいけないのは、これはあくまでサービス内でのネットワークの繋がり方の問題であって、サービスの利用者の増減とは関係ないということだ。ノリが内輪化して、よほど合う人間でなければ新規参入しなくなるサービスもあれば、内輪での情報共有や関係維持に特化して、リアルの繋がりをウェブ上に持ち込むためのサービスに衣替えすることで、利用者を拡大することに成功するケースもあるわけだ。</p>
<p>ウェブサービスのトレンドの変化は、こうした「停滞する関係」のリセットという動機から生じる場合がある。初期のmixiの話で言えば印象的だったのは、IT関係の人脈を持っている人がmixiに招待される一方で、２ちゃんねるのオフ会コミュニティの人達が招待制をとっていなかったキヌガサに集まっていたのだけど、mixiのオープンから4ヶ月くらいで、一人の人がmixiに移ったのをきっかけに全員が大移動したという出来事だ。ウェブサービスをコミュニティ単位で移動することで、以前のサービスで関わっていた人の中から「付き合いたい人」と「付き合いたくない人」を選別するのである。</p>
<p>ではmixiとfacebookを比較した場合にはどうか。facebookは実名登録が基本だから日本では流行らない、というけれども、実名登録のメリットは、実際に自分を知っている人がサービス内で自分を探せるようにするというところにある。それが歓迎されないということは、職場バレや学校バレが恐れられているということだ。そもそもmixiこそスタート時には実名登録を推奨していたのであり、それがコミュニティの内輪化とともに、リスク回避のために実名登録を非推奨にしたという経緯がある。</p>
<p>ロジカルに考えるならば、リアルの人間関係を志向しているのはむしろfacebookのほうだ。社会学的に言うならば、両者の違いは、人間関係に結びついた自己呈示のあり方の違いということになる。つまり実名登録を推奨するということは、現実の人間関係に基礎づけられた、つまり色んな役割を自分に期待している人の関係から成り立つ自己を呈示することが求められるということである。一方で会社や学校の人間関係と切り離して、ネットワーク上で見せられる「アバター的」な自己呈示を可能にするためには、できる限り実名などのプロフィールは隠されなければならない。</p>
<p>ということは、mixiからfacebookへの「民族大移動」が起こるためには、これまでのような人間関係のリセットとは違う動機が与えられなければならない。たとえばそれは、コミュニティごとに人格を切り替えるようなアバター的なコミュニケーションはめんどくさい、と多くの人が思うようになる、とか。</p>
<p>いまのところ僕の考えでは、mixiからごっそりとfacebookに人が移動するだろうと予想される要因は見あたらない。ただ、うまく機能すればfacebookのユーザー拡大を促すかもしれないなと思うポイントは見えてきた。</p>
<p>ひとつはfacebookのインターフェイスの「わかりにくさ」だ。わかりにくいというのは、言い換えれば、何ができるのかわからない、つまり、facebookの機能を利用し尽くしたいのにそれができないという不満の表明である。しかし、ここに大きな誤解がある。facebookはそもそもユーザーの多くが無数の機能を利用することを予期していないし、想定してもいない。おそらくたいていの人は、どこかで一度会ったきりの薄い友人の近況をぼんやり眺めて、思いついたときにつぶやいたり写真を投稿して「いいね！」とか言われたり、その程度でいいと思うように設計されている。</p>
<p>そう考えると、リリース当初は嫌われたという話も聞く、プロフィール変更だの友だちが増えただのがいちいち友人たちにも告知されるという機能が、実はよくできたものであることに気づく。あれはつまり、自分の行動履歴や個人情報を「ニュース」として友人たちに配信することで、いちいち日記を書いたりコメントしたりしなくても「つながり」を維持できるようにするための仕組みなのだ。</p>
<p>一方でfacebookには、長めの情報の公開や公的な告知を行うための、facebookページのような仕組みも用意されている。でもこうした機能が必要なのは、メディアに勤めている人だとか、文筆家だとか、情報発信に専門的に携わる人であって、ほとんどの人はそれを受け取る側で構わない、という機能なのだ。だから、多くのユーザーは「最新情報」の全てに目を通す必要がない、つまり「ハイライト」でいいや、ということになっている。</p>
<p>他方、mixiの場合、というか日本的な内輪ウェブコミュニティの場合、どうしても自分の情報を日記という面倒な手段で発信したり、いちいちコメントをつけたりすることが求められがちで、「スルー」だとか「見てなかった」だとかが許されにくい傾向にある。つまり多くの人が情報発信に参加することを推奨する仕組みだから、ユーザーはいちいちそのためのネタを探さざるを得ず、また時間も割かなければいけなくなる。ソーシャルゲームだとかその辺も、いわばコミュニケーションのネタだと思えば、日記を書くよりはアイテムだの手伝いだのをやりとりする方が楽ということでしかない。</p>
<p>両者の違いを「軽い」情報と「重い」情報に分けて説明すると、下の図のようになる。</p>
<p><img src="http://blog.szk.cc/wp-content/uploads/2011/02/20110211_thumb.png" border="0" alt="20110211" title="20110211" width="399" height="389" style="margin: 0px auto; padding-left: 0px; padding-right: 0px; display: block; float: none; padding-top: 0px; border-width: 0px;" /></p>
<p>主として重い情報を発信することを求めるmixiのインターフェイスは、様々な機能を分かりやすく配置し、日記、写真、ゲームと機能を拡大していく中で、誰もが重い情報の発信をしやすくるように設計していた。そのことによってユーザーの滞留時間は長くなり、媒体としての価値も上昇する。一方でそうした「重い」コミュニケーションが苦手な人や、そういう相手がいない人は「不活発ユーザー」という扱いになってしまっていたわけだ。</p>
<p>対してfacebookでは、多くの人は軽い情報を、それもスルー込みで読み流しながら利用することが意図されているのではないか。一部の人はオフィシャルだったり長文だったりする重い情報を発信するが、それがどう読まれるのかという点についてのフォローアップはあまりない。ユーザー視点で見れば、「興味があれば読んでやる」くらいのものになるだろう。</p>
<p>なんだ、facebookの方が気軽に情報発信できるように設計されているよ、という話かと思ったかもしれない。が、そうではない。おそらくfacebookの設計の基本思想には、長期間にわたって情報発信するネタのある人などごく少数だという割り切りがあるように思える。というより、いちいちウェブで相手の近況を知らないとリアルで会ったときに会話が成り立たないとかの方が変でしょ、なのかもしれない。あくまでmixi的なものと比較してね。</p>
<p>その代わり、facebookには「私たちがあなたの代わりに、あなたの行動履歴から友人たちに配信する”ニュース”を生成してあげましょう」という思想がある。現代のウェブは、人とコミュニケーションするためには個人情報を発信するほかないアーキテクチャだ。そしてたいていの人には、個人情報くらいしか売るものはない。mixi的なコミュニケーション、あるいは日本的なウェブコミュニケーションが、その個人情報を「盛る」ことで成り立っていたのだとすれば、facebookはそういうコミュニケーションにはきっと向いてない。けれど、そういう「盛った」少数の人と、個人情報を勝手にアグリゲートされるほかない多数の人、という比率は、ある意味ではすごくリアルだ。それがいいことなのかどうかはともかくとして。</p>
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		<title>ノンアルコールビールとターンテーブル</title>
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		<pubDate>Tue, 18 Jan 2011 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[思考]]></category>
		<category><![CDATA[消費社会]]></category>

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		<description><![CDATA[若者にモノが売れないと嘆く声が、昨年はあちこちから聞こえてきた。そこに無根拠な若者批判の匂いをかぎ取ったネットの人たちなんかは、バブル世代を基準にするなと反論したが、肝心の部分は分からないままだった。要するに、お金がない [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>若者にモノが売れないと嘆く声が、昨年はあちこちから聞こえてきた。そこに無根拠な若者批判の匂いをかぎ取ったネットの人たちなんかは、バブル世代を基準にするなと反論したが、肝心の部分は分からないままだった。要するに、お金がないから消費しないだけで、ほんとは一回履いたスニーカーは二度と履かないみたいな生活がしたいと思っているのか、かつて欲しがられていたモノへの購買意欲そのものがないのか、ということだ。</p>
<p>この問題は実際には検証できないことで、それというのも、「かつての消費」というものは、「将来にわたるレギュラーな収入」によって支えられていた可能性が高く、宝くじで数千万円当たったからといって、そうしたレギュラー収入で購買意欲をかき立てられる商品にマインドが向かうとは考えられないからだ。消費というのは、消費するためのスキルや価値観を涵養する環境と一体で可能になるものだ。</p>
<p>「お金があったら消費するのか」という問いは、どういう風にお金があるのかまでを勘案に入れ、また消費するかしないかという経済学的な問題ではなく、「ウチの商品を買ってくれるか」という実質的な内容に踏み込んだ答えを求められる質問である以上、「分かりません」以外に誠実な答え方などありようもない。そしてもちろん、誠実な人間がいつも歓迎されるわけでもない。</p>
<p><span id="more-1011"></span></p>
<p>とはいえ、消費財へと人を動機づける条件として、お金という経済学的条件、階層上昇志向などの社会学的条件を抜いて考えたとき、何があるのだろう。哲学的な条件として、ひとつ「嗜癖」ということを考えてみたい。つまり、何らかの非合理な理由によって、そのモノに魅せられてしまうということだ。というかマルクスに言わせれば貨幣経済は発達するほどにそうした物神性を帯びてくるわけだけれども。</p>
<p>嗜癖、つまり中毒（Addiction）といっても、そこには身体的なもの、心理的なものがあるし、心理的と言っても、モノやそれを使うことへの嗜癖なのか、人間関係への嗜癖（依存）なのか、様々な形態が考えられる。ただ、おおむね共通しているのは、たとえそれがよくないことだと分かっていたとしても止められないという点だろう。</p>
<p>嗜癖をもたらす要因になる物質は、それが社会活動を成り立たなくさせるという理由から、権力による規制の対象になる。一方でそれらは、多くの人を惹きつけてやまないことから、権力による独占と限定的な供給という形で制度化されることもある。伝統社会であれば、平時には呪術師だけが薬物の使用を許されるが、祭礼の時には男子全員が薬物を使用する、ということが考えられるだろう。近代社会では、かつてのたばこや塩のように専売制度を採るとか、買える年齢や販売できる場所に規制を設けるといったやり方が考えられる。</p>
<p>つまり、嗜癖をもたらす物質は、危険だからといって撲滅されるわけではなく、権力による管理、特に近代社会においては制度化された管理の下に置かれることで相変わらず存在し続ける。その背景には、それらが危険であるからこそ欲望の対象となり、それゆえ撲滅を目指してヤミ流通を発達させるくらいなら、いっそ管理下に置いて存続させた方がマシだ、ということになってきた歴史があるのだろう。</p>
<p>ただ、その管理の仕方には少し注意を払う必要がある。つまりここでいう「管理」とは、「危険性を管理すること」に他ならないのだ。たとえば、タバコという薬物を全面的に禁止するのではなく、危険性の源泉となる物質、要はニコチンなどの量に制限をかけ、「ある程度」の危険にとどめておくのだ。ここで重要なのは、危険性が完全に喪失すると、その物質の魅力が失われるかどうかという点だ。</p>
<p>スラヴォイ・ジジェクの言う「カフェイン抜きのコーヒー」や「脂肪抜きのクリーム」は、まさに「危険」な要素を取り払ってしまうことで、安全に欲望を追求することを消費者に約束する。それは資本主義がその嗜癖性を欺瞞的に維持しながら存続するための苦肉の策だ、と彼なら言うのかもしれない。ただ、こうした商品が成立する条件は、もっと社会学的なものであるはずだ。</p>
<p>ノンアルコールビールという商品は、本物のビールが売れなくなるほどに飲まれたらしい。しかし不思議な話だ。ビールを飲みたくないなら、甘いお酒でもソフトドリンクでもいいはずなのに、なぜわざわざノンアルコールビールを飲むのか？その理由は、こういう風に考えられなければならない。つまりノンアルコールビールは「飲みたくても飲めない」人のための商品なのだと。</p>
<p>ビールを飲みたくても飲めない状況とはどういうものか。たとえば、団体で外食をしているが、運転できるのは自分だけだ、ということが考えられる。このとき、「飲みたい」という欲求は心理的なものだが、「飲めない」というのは社会的な機制だ。おそらくそのドライバーは、ビールは飲みたいが、飲酒運転にまつわる多くの事故報道や、免許の更新の時に見せられる啓発ビデオの内容などを思い出して「飲めない」と判断する。そのジレンマを解消する商品が、ノンアルコールビールだというわけだ。</p>
<p>同じことは、電子タバコについても言える。電子タバコは、多くの人が指摘するように禁煙グッズというよりは、タバコの代用品と考えるべきものだ。ここにも「タバコを吸いたい」という欲望と、公共空間においては受動喫煙の問題があるのでタバコを吸ってはならないという社会的な禁止とのジレンマがある。そういえば今日電車の中で堂々と電子タバコをくわえている人がいて驚いたけど、もしかしたら喫煙者の欲望とは、タバコを吸うことよりも、常に何かをくわえていたいということなのかもしれない。</p>
<p>一方で、こうした「危険」や、あるいは「リスク」と呼んだ方がいい要素を管理し、排除する商品の中でも、少し毛色の違うものがある。それがデジタルターンテーブルだ。昨年、TechnicsのSL-1200というアナログターンテーブルが生産中止になったというニュースが、世界中のDJを騒がせた。少なくともCDによるDJが普及する前は、間違いなくターンテーブルのデファクトスタンダードはSL-1200だったからだ。</p>
<p>CDによるDJが主流になった大きな理由は、アナログレコードがリスキーなモノだからだ。針は飛ぶし、曲がるし、削れる。モノとしては有限で、スクラッチなんかしようものならその寿命はさらに縮まる。自宅のPCでCDが焼けるようになったこともあって、わざわざアナログでDJする人は次第に減っていった。だが、アナログにはアナログのよさというものがあって、それはたとえば直感的に頭出しができるだとか、手で押さえればポーズできるだとか、そういうことだ。</p>
<p>Technicsのデジタルターンテーブル<a href="http://panasonic.jp/technics/products/dz1200/dz1200.html" target="_blank">DZ1200</a>は、こうしたアナログの「よさ」をデジタルに再現するという点において、他の類似商品にはないアドバンテージを持っている。もはやレコードは回らないにもかかわらず、SL-1200と同じモーターを搭載し、ターンテーブルを操作するアナログインターフェイスに仕立て上げたのだ。</p>
<p>DZ1200が「ノンアルコールビール」と異なるのは、後者が禁止と欲望の間の折り合いを付けるために、リスク＝嗜癖の対象となっている本質部分を換骨奪胎してしまった商品であるのに対して、うまくその本質部分だけを抽出したモノであるからだ。むろん、針飛びするかもしれないからアナログには味があるという人もいるだろうけど、「あの手になじむSL-1200の感触」だって十分にモノとしての魅力をたたえていたのだ。</p>
<p>モノがモノとしての魅力を持つということは、ある種の反社会性や危うさのような要素と関係した出来事である。だからこそその危うさは常に管理や規制の対象になるのだけれど、規制に妥協しながら消費者の欲望に応えようとするとき、そこから出てくるのはノンアルコールビールのような、仕方なく我慢して消費する代用品のような商品だ。アナログDJだって、ヴァイナルの持つ面倒さを管理可能なものにしようとすれば、デジタル化して、直系8センチくらいの円盤ふたつをPCにつないで操作するようなインターフェイスにする方が合理的なのかもしれない。</p>
<p>でもそこでわざわざ、アナログターンテーブルの操作感だけをインターフェイスとして商品化することで、かえってモノの魅力を増したケースが、DZ1200なのだと言える。モノが売れないと技術者が嘆くとき、そこで目指されている技術的な努力が、ノンアルコールビール的な商品を作るためのものなのか、デジタルターンテーブルを作るための努力なのか。そういう観点から見返してみることがあってもいいのかもしれない。</p>
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		<title>脱・個人所有の時代は来るか</title>
		<link>http://blog.szk.cc/2011/01/07/the-age-of-post-individual-consumption/</link>
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		<pubDate>Fri, 07 Jan 2011 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[思考]]></category>
		<category><![CDATA[消費社会]]></category>

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		<description><![CDATA[昨年はあまり目立った活動はしていないのだけど、ウェブや雑誌でインタビューを受けたり、企業の内部セミナーで喋らせてもらったりと、仕事そのものはたくさん受けていた。執筆も、発表されたものでチキーダとの共著や思想地図β、そして [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨年はあまり目立った活動はしていないのだけど、ウェブや雑誌でインタビューを受けたり、企業の内部セミナーで喋らせてもらったりと、仕事そのものはたくさん受けていた。執筆も、発表されたものでチキーダとの共著や思想地図β、そしてまだ刊行されていないものなども何本か書いていて、まあ単著を出さなかった年としては例年並みの忙しさだったはず。ただ体調を崩したりしていたこともあって、後半は遅れた仕事を巻き戻すだけで精一杯になっていたのも確か。ずいぶんとブログも書かなかったので、いくつか去年やった仕事の話でもまとめておこうかな。</p>
<p><span id="more-1003"></span></p>
<p>某自動車メーカー絡みでは、「若者のクルマ離れ」をネタに喋らせていただいた。もちろん僕が喋るので、「なぜ若者はクルマを買わないか」について喋ることはない。むしろ、「誰もが一家に一台のクルマを望んだのはなぜだったか」について解説することを通じて、もはやそれが当たり前ではなくなった時代に、どうクルマという商品について考えるか、そのヒントを提供するのが役割だ（だって、本格的なマーケティングは、彼ら自身がやってるものね！）。</p>
<p>出発点となるのは、社会学がモノに対して向けてきたまなざしだ。モノは、単なる物質財ではなく、また、ひとりひとりの異なる選好によって消費される商品でもなく、その時点における人々の理想を反映した、つまり社会的な欲望を背景に市場を流通する。言い換えれば、人が何を好むかはその人の自由だが、たとえ自由に選んだように見えても、その選択には何らかの傾向があり、その移り変わりは、社会の移り変わりをも反映しているのだ、ということだ。</p>
<p>それってホントなのかよ？と言い出すと話が長くなるので、一応その前提で話を進めると、第二次大戦後に復興を遂げたいわゆる西側先進諸国では、その社会的な欲望を共有する人々のサイズが国民レベルになり、また現実にその欲望をかなえるだけの経済成長にあずかることができるようになった。いわゆる「高度成長」による「大衆消費社会」の到来だ。</p>
<p>大衆消費社会は、人々に様々な夢を見せる。ここで言う夢とは、なんとしてもかなえるべき規範のようなものではないが、望んで努力すればいつかはかなうはずの願望という意味だ。つまり「こうなるべき」というほどではないが、「こうなるはずだ」とぼんやりと信頼しているようなモデル、それが夢である。</p>
<p>その夢のうち、クルマ消費に関わるものをみっつ挙げるとすれば、「明るい未来」「温かい家庭」「豊かな生活」ということになろう。未来が明るいというのは、社会の成長と個人の成長がリンクしている、つまり世の中の進歩に自分がついて行くという意味だ。そして両者の架け橋として、「交通」はとても分かりやすいものだった。遠くまで列車が伸び、高速が走り、都市部に地下鉄が整備されていくとともに、「遠くまで、速く」移動できるようになるということが、社会と自分の進歩を象徴していた。</p>
<p>遠くまで速く行く動機とは何か？高度成長は労働者の待遇を改善し、定期休が確保されるという副次効果ももたらした。同時に都市部で雇用が増えたこともあって、田舎を出て都市でサラリーマンになる人が増えると、若い世代は田舎の風習を離れ、アメリカ流の核家族イメージを模範とした家族形成を夢見るようになる。この「温かい家庭」を支えるために、定期休にクルマに乗ってレジャーに出かけるという余暇消費が重要になるのだ。</p>
<p>つまり、社会の進歩と共振し、温かい家庭を築けているかどうかの指標として、一家の稼ぎ手である夫がクルマを所有するということは、様々な夢の中心的な出来事であったし、またそれゆえ、所有しているクルマの「格付け」が、そのまま彼らのかなえた夢の格付けでもあったのだ。だから彼らは、豊かな生活を手に入れるために、クルマという物質的な財を必要としたのである。</p>
<p>だが、物質を所有し、消費することが夢であるような時代の条件は、1970年頃を境にして次第に失われてしまう。その説明はグローバルな経済環境の変化や雇用問題など多岐にわたるので別の機会に回すけど、少なくとも個人がクルマを所有し、それが家族を乗せて遠出するハコとしての役割を果たし、そのことによって所有者の地位を表明できるという黄金のリンクは失われてしまったのだ。要するに、今後若者の所得が増大したとしても、彼らの可処分所得が、かつてと同じような動機でクルマに向かう可能性は低い。</p>
<p>たとえば、都市部の人々に対して向けられる郊外の人々の怒りというものがある。環境負荷その他の問題から脱クルマ社会が唱えられるのを、苦々しく眺める人達だ。私たちの生きている環境では、クルマはないと生きていけない。その現実を無視して脱クルマを言う人達は、私たちのことを不当に無視しているというわけだ。その異議申し立てがどの程度当たっているのかについては疑問を感じることもあるけれど、そこに見え隠れしているのは、「生活のために仕方なくクルマを所有している」という感覚だ。生活のための道具であれば、安くて燃費がよければ軽自動車でも中古車でもよいことになる。そこでは、「格の高さ」を売りたいメーカー側と、「道具」としての使い勝手を求める消費者との間に、重大なミスマッチが生じることになる。</p>
<p>仕方なく乗ってやってるのだ、くだらない付加価値なんかどうでもいいから、とにかく安くしろ、という消費者に応えようとすれば、おそらく新興国の方が一枚上手だろう。草食化した若い奴らのことなんか知るか、オレはクルマの夢が好きだぞ、という（なかば妄想混じりの若者批判が鼻につく）顧客だけを相手にするのも、グローバルな新興富裕層へのリーチを考えない限り頭打ちだ。というか、後者の道を採ったとしても、ある意味で「バタくさい」グローバルな高級車を日本の消費者が受け入れるのかどうか、よく分からないところがある。</p>
<p>ひとつの方向性として僕は、「所有」「遠出」「地位」という、ある時代にクルマが体現した夢を、別の形に切り替えていくことはできないか、と考えている。個人（とその家族）が遠くに行くためではなく、「みんな」で「近く」を乗り回すために使うカーシェアリング、行く先々で車格を自慢するためのクルマではなく、近い場所で価値観を共有するための、個室としての役割に注目したクルマや、停車時間を上手に利用できるクルマ。個人にとっての価値観ではなく、他者や、社会にとっての価値観を表現するための手段としてのハイブリッドカーやコンセプトカー。現在あるものだって、十分に新しい要素は持っている。それを、うまく新しい枠組の中に位置づけられていないだけだ。</p>
<p>「共有」とか「みんな」とか、ウェブの新しい動向の分野ではとにかくあらゆるところで繰り返されている。でも、完全に情報化された分野でのみそれが起こるのであれば、それはその手の論者が言うような産業革命以来の時代の転換ではなく、単なる新市場の到来に過ぎない。個人が所有し、そこに夢を託すことが当たり前で、それを傷つけられると彼らが強い憤りを覚えるようなモノの消費において脱個人所有化が進まない限り、真の意味でのソーシャルな消費など生まれようもないだろう。</p>
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		<title>あなたの欲望に寄り添うなら</title>
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		<pubDate>Thu, 30 Dec 2010 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[思考]]></category>

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		<description><![CDATA[一年を振り返って今年は大変だったなあと思うのは、きっと年の瀬がすごく静かで穏やかな人の特権で、それどころじゃないよ仕事だよ、って人も、このサービス社会にはたくさんいる。高度に消費社会化が進むと、今日くらいはお金で買えるサ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>一年を振り返って今年は大変だったなあと思うのは、きっと年の瀬がすごく静かで穏やかな人の特権で、それどころじゃないよ仕事だよ、って人も、このサービス社会にはたくさんいる。高度に消費社会化が進むと、今日くらいはお金で買えるサービスに頼らずに家族や友人、近隣の人々と過ごそうぜって人がいなくなるというか、そういう人たちを家から追い出してお金を使わせようとする誘惑が増えていくからだ。</p>
<p><span id="more-997"></span></p>
<p>もともとそういう誘惑にはあまり魅力を感じない方で、だからといって年越し蕎麦とおせちが大好きってわけでもなくて、<a href="http://blog.szk.cc/2009/12/30/thinking-about-our-death/">昨年</a>と同じことを書くけれど、要するに僕にとって年末は単に自分の死に思いを馳せる時間なのであって、無理矢理にでも孤独になる必要があるのだ。というわけで、原稿までひとしきり片付けて、何もすることがなくなったことにして、ぼんやりと一年が死ぬ瞬間を待っているのである。</p>
<p>消費社会化と同じ理屈で、僕たちはどんな瞬間にも「しなきゃいけないこと」を見つけることができる。Evernoteにライフログを保存、GTDでタスクを管理、メールの埋もれたログの発掘、いつかやろうと思っていることもメモして保存、そんでホントに何もなくなったら、ブログでも書いて自己表現を、というわけだ。</p>
<p>経済成長は必要か、と疑問を投げかける人がいる。経済成長は必要に決まっている、と経済学者は言い返す。しかし、彼らは本当はこう訊きたいのじゃないか。私にこれ以上の成長は必要ですか、と。今年できなかったことを来年こそはやろうと決意したり、目標に向けて一歩前進したり、TOEICのスコアをあと100点伸ばすための努力をしたり。そういうことは、もうやりたくないのです、と。</p>
<p>言い換えると、やりたいことなど特にないのに、それをどうにかして見つけてこなければ成長できないという強迫観念から自由にさせてもらえない限り、こうした人々がマクロでの経済成長の必要性に同意する可能性は低そうだ、ということだ。人には必ず何らかの選好と欲望があると経済学者は想定し、それは消費によって可能になる場合が多いと考える。だから働くことはその消費を可能にするための金銭を得る行為であって、それ自体が選好や欲望の対象だとは考えてこなかった。それにも関わらず、僕たちはますます、労働（による成長）が欲望の対象であるべきだという観念の中を生かされるようになっている。</p>
<p>こういう社会で、やりたいことがない人が、それでも労働による自己実現を図ろうとすれば、他者の欲望に応えるという道を選択するのは当然の帰結だ。お客様に感謝されること、社会問題の解決に寄与すること、対価以上の働きをすること。そうしたことが叶えられさえすれば、わざわざ消費による自己実現を目指さずともよい、という社会は、人件費の抑制が迫られるグローバルな競争の時代には適合的だけれども、マクロな経済成長が必要な社会にとっては問題でもある。お金を使う人を、よそから連れてこないといけなくなるからだ。</p>
<p>もうひとつ。サービスが主たる産業になる社会で求められる「サービス」とは、他者の欲望にそのまま寄り添うことではないという点が重要だ。むしろ、他者の望みをその人が気づく前に先回りして読み取り、提供するという「気の利く」態度こそが、理想的なサービスなのである。いわば、誰もが労働の場面においてマーケターとして振る舞い、適切なソリューションを出すことが「仕事」なのである（そういう気遣いを求められない仕事は、長年働いていようと「非熟練労働」と呼ばれてしまう）。</p>
<p>消費者の側から見れば、彼らの役割は、次々と提供されるサービスに「うーん」とか「そうですねー」と、アパレル店員に服を勧められたときのような曖昧な笑みを返すことになる。明確な否定は、そこにはあまりない。なぜなら、店員の気遣いによって進められたサービスは、すべて「あなたは本当はこれを欲しているはずだ」というメッセージとともに差し出されるのだが、消費者はそれが事実なのか判断できないからだ。ほんとうに、ほんとうにあなたはこれが要らないんですか？と訊かれて、強くうなずける場合ばかりではないことは、直感的に分かるだろう。</p>
<p>仕事や、タスクが山積みだという感覚ではなく、互いの欲望を読みあい、何かをしてあげたいとか、何をすれば感謝されるのかとか、そういうことを考えることこそ、年の瀬に僕らが解放されなきゃいけないものなのだと思う。終わってしまえば、どんなことも、いい結果だろうと悪い結果だろうと取り返しは付かない。今年あったいいことも悪いことも、すべては終わったことなのだ。誰かの欲望に応えられなかったことや、誰かの望みを叶えられなかったことや、誰かとの約束を果たせなかったことは、放っておいてもまた来年、同じように後悔するという程度の出来事でしかない。だからこそ、一年の終わりにそれを「終わらせた」ことにする瞬間を、用意しておくべきなんだと思う。</p>
<hr />毎年毎年、もう10年以上、場所を変えながらも書いていることを、性懲りもなく今年も書きます。七味五悦三会という風習があります。大晦日の除夜の鐘が鳴り続けている間に、その年食べたおいしいものを七つ、楽しかった出来事を五つ、出会えてよかった人を三人挙げることができたら、その年はいい年だったねと言って暮れるという、江戸の風習なのだそうです。あなたの2010年が、最後の最後まで、豊かな年でありますように。</p>
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		<title>空間の商品化</title>
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		<pubDate>Thu, 29 Jul 2010 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[思考]]></category>
		<category><![CDATA[消費社会]]></category>

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		<description><![CDATA[先日、生まれて初めて「ディナークルーズ」というものを体験する機会に恵まれた。現代においては「感動」がマーケティングのキーワードになるのだ、ということがよく言われていて、サービス業も「感動」を与えるホスピタリティを提供しな [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img style="border-right-width: 0px; display: block; float: none; border-top-width: 0px; border-bottom-width: 0px; margin-left: auto; border-left-width: 0px; margin-right: auto" title="100728" src="http://blog.szk.cc/wp-content/uploads/2010/07/R0010234.jpg" border="0" alt="100728" width="470" height="357" /></p>
<p>先日、生まれて初めて「ディナークルーズ」というものを体験する機会に恵まれた。現代においては「感動」がマーケティングのキーワードになるのだ、ということがよく言われていて、サービス業も「感動」を与えるホスピタリティを提供しなければダメだ、なんて言う。そのホスピタリティも、従業員の一方的なやりがいの搾取的奉仕ではなく、顧客と従業員の相互信頼関係に基づいたものでなければならない、なんて話まである。そりゃ理想はそうでしょうけど、商品化って「カネを出せば買える」ことの言い換えなのだから、そうしたホスピタリティは、究極的には「一見さんお断り」の、マイルドに言っても、空気の読めない客をやんわりと排除する、その輪の中にいない人にとっては単にいけ好かない場しか作らないような気がする。</p>
<p><span id="more-925"></span></p>
<p>で、ディナークルーズだ。結論だけ言えば、そこには人によって作られるホスピタリティとはまったく異なる「感動」があった。18時半に出帆した船は天王洲からIHIのコンビナートとお台場の脇を抜けて、外海へ向かう。大井埠頭の倉庫街を抜けると、右手には羽田空港。夕暮れ空の向こうに次々と着陸する飛行機と船で併走するなんて、たぶんこの季節のこの時間に、この場所でしかできない体験だと思う。</p>
<p>外海をぐるっと回る間にディナーはメインディッシュへ。そしておなかも満たされた時間にはまたお台場の方へ戻ってきて、レインボーブリッジの下をくぐったりした後に帰港。「特別なお客様」には、花火のサービスまで用意されている。結婚パーティーなんかで使う人が多いという話も納得のサービスには、「もてなし」というか、結局は従業員を犠牲にするか、客の敷居を上げるかしないといけないというしょーもない理論にげんなりしていた僕には、鮮やかなひらめきを与えてくれるものだった。</p>
<p>場所がもたらすプレミア感というものがある。一生に一度は巡礼すべき聖地というのは、とても行きにくい場所だったからこそ、逆にプレミアとして機能した。東京タワーの展望台のさらに上には「特別展望台」というのがあるらしいのだが、そこには、たかが数メートルでも「上」なら、別料金を取ってもいいくらいのプレミアが付くということが、端的に表されている。</p>
<p>現実の空間にプレミアをつけるためには、普通に考えれば、高いところに上るか、遠いところに行くしかない。要するに、空間という資源は有限だからこそ、アクセスしにくい場所というものに価値が出る。これだけなら単純な希少性の原理だ。でも、アクセスしにくいからといっても、そのままでは価値が出ない場所もある。高いところに価値が出るのなら、飛行機で飛ぶ数千メートル上空が一番プレミアなはずだ。もちろんそんなことにはならない。でも、同じ高さからスカイダイビングできるとなれば、その高度にはプレミアが付く。旅客機が飛ぶ7000メートルくらいの高さから、初心者がダイブするのはけっこう難しいらしい。</p>
<p>旅客機とスカイダイビングの間を分かつのは、そこに日常を超える「体験」があるかどうかだ。その高さでしか体験できない出来事があるかどうか。高々度からのスカイダイビングは、そこまで行くだけの能力とカネがないと体験できないという意味でプレミアなのだ。もちろん旅客機にだって、たとえば雲海の向こうから昇る朝日が見えるとか、そういう体験が付随すれば、立派な空間プレミアムが付くのである。</p>
<p>「高さ」のプレミアは分かりやすいけど、一方でバカと煙はなんとやら、で、分かりやすすぎるが故に陳腐化する危険性もある。そこで、縦ではなく横のプレミアだ。陸上で体験できるプレミアとしては、北海道の地平線が見える場所とか、阿蘇を抜けるやまなみハイウェイとかが思いつくけど、海にだってプレミアはある。ただ、雄大な大自然を楽しむ海は日本の中だとそんなにないので、陸上や高いところよりも、いっそうのナラティブ化が必要になるだろうと思う。</p>
<p>ナラティブ化とは、要するにマーケティングのことだ。「○○という場所は××である」という意味を、空間に付与するということだ。70年代の「ディスカバー・ジャパン」にしたって、苗場でスキーでユーミンだった80年代にしたって、代理店主導で積極的に空間に意味を付与してきたのだ。</p>
<p>ただ面白いのは、ナラティブというものは、正のナラティブだけでなく、「恋人どうしで行くと必ず別れる場所」のような負のナラティブを帯びた場所であっても、「二人の愛を試すために行ってやろうじゃないか」と受け止められる場合があるということだ。ナラティブ化は、その内容以上に、次のコミュニケーションを生むかどうかが重要なのである。</p>
<p>コミュニケーションを生むナラティブと、プレミアムな場所での体験は、とても微妙な関係にある。ナラティブはどこまでも情報として伝わるけど、体験は、体験した人の間でしか共有されない。ましてプレミア空間のような「行かないと分からない」場所は、どれだけ言葉を尽くしても、それが「体験」に追いつかないものだからこそ、美しい言葉であればあるほど上滑りするだろう。</p>
<p>だからこそこうした場所を宣伝していく上で必要なのは、「体験」を共有する人々のコミュニケーションを、まだ体験していない人に見せてやることだ。こないだ立ち読みした食のムックで、とあるグルメ情報サイト、というか、そのサイトのユーザーがけちょんけちょんにバカにされていたのを見た。グルメとしては正しい判断なのだろうが、ライターも編集者も含め、商売人としては最大級の間抜けだなと思った。</p>
<p>それは、一般ユーザーを見下したかのような書きっぷりが、あの業界にグルメ情報サイト嫌いが多いことを知らない普通の人にとっては不快なだけだというレベルの話ではなく、グルメ情報サイト、あるいは家電や本のレビューでもいいのだけど、ああしたものが「体験の共有」と、それがもたらすナラティブ性によって支えられているという点を見落としているのだ。「いいものを作れば自然と客は付いてくる」とか言うのと同じくらい、人はいいのだろうけど、お仕事はご一緒したくないたぐいの話だなと思った。</p>
<p>話はディナークルーズに戻る。なかなか認知度が上がらず、リピーターも増えないという話を関係者から聞いて、なんかマーケティング戦略考えたいですねーと言っていたのだけど、考えてみれば、こうした体験をした人どうしで「あれよかったよね！」と語る場所すらないのだから、それはまあ当たり前の話なのかもしれない。富裕層マーケティングとか簡単に言っちゃう時代だからこそ、メカニズムにまで突っ込んで理論化できるマーケターが必要なのにな、と思う。</p>
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		<title>資源の有限性と共同体</title>
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		<pubDate>Wed, 28 Jul 2010 14:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>charlie</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[思考]]></category>

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		<description><![CDATA[誰かの人生を支えるために自分の人生を犠牲にすることを、美しいと思う人もいるけれど、自分がやれと言われたらいやがる人が大半なんじゃないかと思う。そこに愛があればいいとか思っていても、いつまでたっても成功しないバンドマンを食 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>誰かの人生を支えるために自分の人生を犠牲にすることを、美しいと思う人もいるけれど、自分がやれと言われたらいやがる人が大半なんじゃないかと思う。そこに愛があればいいとか思っていても、いつまでたっても成功しないバンドマンを食わせてる彼女さんというありふれた構図にすら、僕らはちょっとした抵抗を感じる。なぜだろう。おそらくそれは、彼女さんに、彼を食わせることをやめたり、他の男を選んだりする自由意志があるはずだという、言い換えれば、彼女さんにも他の人生があるはずだという僕らの思いに由来する感情だ。</p>
<p><span id="more-919"></span></p>
<p>しかしまあ、実際にそういう人に接してみると、よく言えば健気、少し悪く言えば好きでやってるんじゃん、という人が多い。だから、心配しないで、なんてことも言う。そういう人たちの中には、自分の能力に限界を感じている人が少なからずいて、自分はいいから、誰かの夢を叶えることが自分の夢だなんて思っていたりもする。</p>
<p>こうやって書けば書くほど、僕らの中にあるリベラルな前提、つまり、人は誰も等しく自らの能力を見定め、それを伸ばしていくべきなのであって、それこそが人としてのよろこびなのだという思いが強くなる。だから心が軋む。なのに、結婚した女性が相手だと評価を反転させる人がたくさんいるから、この話は面白い。自分の人生の追求に対する優先度を下げ、夫や子どものために人生を捧げることが正しいと、何の関係もない他人の生き方に首を突っ込んででも「アドバイス」をしてあげたいという人に出会う機会は、そう少なくない。</p>
<p>それでもやっぱり、そうやって個人の自由を奪うのは不当なことであり、自分の人生を追求することが、男性には許されても女性には許されないのはけしからん、と、少なくとも建前上は言える。では、これが共同体になると？おそらくは子育て以上に女性、特に「嫁」に対する抑圧が強い共同体はたくさん存在しているのに、彼女たちを「解放」すべきだという主張は、あまり強くないように思える。</p>
<p>そもそもそうした非対称な規範が生まれたのは、自然の摂理でも何でもなくて、有限な資源を効率的に活用するためだった。農村では集団的な労働が中心だったから、その有限な資源の管理者、例えば村長や長男夫婦といった人たち以外は、使い捨ての労働力でしかなかった。そこでは子育てすらも、ムラの仕事だったのだ。</p>
<p>しかし産業社会においては、労働力は土地から切り離されたサラリーマンになり、またできる限り長時間、低賃金で働かせるのが効率的だ。人生の規範というものをムラの習俗から切り離し、消費へと接続するこのシステムは、有限な資源＝給料の稼ぎ手として男性を、彼らの労働力と次世代の労働力の再生産、そして資源の管理者として女性を任命した。ここでは労働だけを任された男性は、退職して用済みになると管理者から罷免される「濡れ落ち葉」的な扱いを受けることもあったわけだ。</p>
<p>要するに、ムラや家族の共同体的な関係の背後には、有限な資源の管理者がおり、その人がいるおかげで共同体は成り立つが、その人が管理している限り、個人には共同体から離れる自由はない、という仕組みがあった。食い扶持を稼ぐ人ではなく、それを管理する人こそが共同体の中心であり、好きと嫌いとにかかわらず、その人の世話にならないと生きていけない仕組みこそが、共同体の本質だった（近代家族の場合は、稼ぎと管理を分業することで、相互に離れられない仕組みになっていた）。</p>
<p>こうした本質は、個人が好きあって家族を作るとか、地域社会は絆で結ばれるべきだといった、個人化された社会の前提と根本から矛盾する。家族をつなぎ止めるのはダンナしか十分な金を稼げないという事実であり、子はかすがいという責任問題であって、愛情でも何でもない。地域社会が必要なのは、絆があるからではなく、いやな連中とでも協力しない限り生きていけないからだ。</p>
<p>当然の如く、共同体のこうした側面は忌避の対象であり、だからこそ人は家族や共同体から逃避し、親密性によって結ばれる純粋な関係性だとか、再帰的に構築された地域社会だとかを称揚する。だがそれは、資源が無限にあって、それを利用して個人が自分の人生を自由に選択できるという、あり得ない想定の下でしか可能にならない。社会が悪かろうと何だろうと、教育もちゃんと受けていない女性がシングルマザーになって、一人で子供を育てようとすれば、取り得る選択肢は限られる。こういう人々には、「自分の人生は選びうるものなのだ」という思想は、単なる抑圧にしかならない。</p>
<p>個人としての僕は、それでも人は自分の人生を選ぶべきだし、それを可能にするために、最大限に能力を開発すべきだと思う。でも、この資源の有限性が共同体を作るという問題を解決しない限り、それは「選びうる人」のための議論でしかないという風にも思えてきた。男性は人生をあきらめてくれる女性に依存し、都会の人は人生をあきらめて共同体のために奉仕する農村・漁村の人々や、途上国の人々が作る資源に依存して生きている。そこに負担をアウトソースした上でしか、再帰的な共同体など作れないのなら、それはやはり不完全な社会構想であり、「俺も人生を選べないのだから、お前も人生を選ぶな」という、ある種の逆恨みと社会的な亀裂しか生まないのではないかと思うのだ。</p>
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