先週に続いて採点の話。こちらは社会の風潮がどうのという話ではなくて、単純な感想。ケータイ文化について考えてくる学生の中には、「ケータイ小説」を題材に持ってくるものがかなり多い。きちんと読み込んだり、映画化されたものを見たりして書いているものもあれば、一般に流布しているイメージだけを元手に論じているものもある。後者の場合なんか、「若者が若者論を通して自己イメージを獲得するループ」の典型みたいな、「女子高生はケータイ小説みたいな稚拙な作品ばかり読んでいてけしからんが、でもそれも入門編としてはいいんじゃないか」なんて、どっちやねん!と突っ込みたくなる例がけっこう目に付く。
ただまあ、文芸の世界ではどうなのか分からないけれど、瀬戸内寂聴先生だってケータイ小説をご執筆なさっているわけだし(しかもこれが割と出来がいい)、社会評論の世界ではむしろケータイ小説はそれなりの地位を確立しつつあって、頭ごなしに否定する論ってそこまで見かけない。というか「売れている」というただその一点において、今の日本文学には、それを頭ごなしに否定できるほどの力はないので当たり前なのだけれど。
そうなってくると気になるのは、まさに頭ごなしにケータイ小説を否定する論考だ。数は少ないけれど、そういう答案もちらほら目に付く。やっぱり手書きがいいよね、とか、コミュニケーション志向の強い作品では伝えられないことがあるんじゃないか、とか。ご説ごもっとも、と思うものも多い。ただ僕が気になるのは、そうだとして、じゃあ具体的にはそうしたことを体現している作品って、君にとって何よ、ということだ。
いまの20歳前後、いわゆるアラハタっていうんですか、そのくらいの子たちにとっての「いまのうちに読んでおくべきスタンダードな物語」って、果たして存在するんだろうかってことを、Lifeなんかでも何度か話している。大人たちがラノベだの新しい日本語だのって言う一方で、なんとなくスタンダードな物語のラインナップはほとんど更新されていなくて、いまだにサリンジャーとか村上春樹だとか言われてるんだとしたら、それはそれで貧しい。
もちろん話は別に小説に限らない。マンガだってアニメだって、そこに「等身大の自分たち」を見出しているのは、かつて子供だった大人たちで、新版ヱヴァンゲリヲンに喝采している10代たちは「これで僕らもエヴァ語りに参加できる」と思っているだけなんじゃないか、なんて思う。『とらドラ!』は、物語が進むほどスタンダードな青春少女マンガの色彩が濃くなって、ああ、これは鉄板だなあとも感じるのだけど、あれってどう受け止められているのかな。個人的にはあれと『文学少女』シリーズは、古き良き青春のすったもんだだと思うのだけど。
たとえば長嶋有みたいな人が、そういうスタンダードな物語のラインナップに並べばいいなあと思う。木堂椎は確かに「リアル」かもしれないけれど(そして技量もすごく上がっているけれど)まだスタンダードっていう感じじゃない。スタンダードなものは、自分がその受け手の中にいるときには書けないもので、「受け手でもあり送り手でもある」という立場を離れるその一瞬にだけ書けるようなものだと思えば、これから20代後半、30代を迎える作家から、そういう作品は出てくるのだと思う。そしてそれが社会の、世代の変化と偶然マッチしてしまったときに、そこに時代性のようなものが生まれるのだと思う。
何かが足りない、という話は聞き飽きた、という話もそろそろ喋り飽きた。最近はあまり小説を読む機会もなくなっているのだけれど、もう少し僕も本屋に足を運んだ方がいいのかも。
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