一年前の一年後の今朝、街は驚くほどに普通で、リーマンだらけになった駅前からは出勤中の人々が足早に歩き、大型車が中央通りを飛ばす。裏道のパーツ屋は品出しを始め、まだシャッターを下ろしている店の中でも、きっと昨夜のうちに受注した通販のメールを処理している社員がいる。この街のショップでバイトしてたのはもう10年も前のことだけれど、朝のこの時間帯の空気は、たぶんほとんど変わっていないと思った。
交差点は、案の定早い時間からカメラを担いだ人とスーツを着た人が、献花台を脚立で取り囲んで、リハーサルや撮影を行っていた。この分じゃ、そうとうに気持ちが強くないとあの中に入っていくのは無理だろうなと感じる。反対側の歩道から横目に眺めていたら、大型トラックが突然、長いクラクションを鳴らした。たぶん本当に前の車が邪魔だっただけなのだろうけれど、反射的に体が硬くなった。
一年前、事件の翌日の月曜日、僕は前の日に続いて現場に来ていた。akiba-ichiに続くエスカレーターを登っていたら、後ろの方で、早めの昼食だろうサラリーマン二人が笑いながら話していた。
「なんか警察がいてものものしいよね」「あれでしょ、昨日の事件の」「ああそうか」「なんか逃亡して取り押さえられてたんだよね」「そうそう」「そういうとき、自分が取り押さえたりして、ヒーローになってみたくない?」「インタビューとか答えてね」「俺のことはいいから逃げろ!みたいな」「でもさ、追い詰めるだけ追い詰めて、『金を出せば見逃してやる』とか言っちゃってね」「ぎゃはは!それ最低じゃん!」
息を呑んで堪えられただけ、大人になったというか丸くなったよなと思う。不愉快すぎるのでイヤホンを耳に突っ込む。シャッフルしたら最初にiPodがセレクトしたのは、スガシカオの「気まぐれ」だった。
めんどくさいから話し合いとかしないよ
壊してしまうほうが楽だし
やられる前にいつも先回りしないと
君のことまで 笑われてしまうから
新しい本は、日曜日の明け方に書き上げたばかりだった。事件の報を聞いて、これは大きく書き直しが必要になるだろうな、という予感はあったのだけど、リーマンたちの会話を聞いて、それが確信に変わった。僕らが生きる消費社会を肯定するということは、この世に起きる多くの不幸を、他人事として、昼食のネタとして飲み込んで消化して日々生きる人々に、タテマエの外側の余暇を認めるということでもあるのだと思った。
口にするのもはばかられるような品のない話題は、マリア様ならぬ世間様が見てる、という恥の意識によって、かつては蓋をされていたものだった。その意識に駆動された消費は、三種の神器だの3Cだのという「人並み意識」をかき立てることで成り立ち得たけど、一度受容が一巡してしまえば、後に残るのは「自分より上位の商品を持つ人を集団から排除する」という、社宅文化のような同調圧力の強い社会。人より出しゃばらないという規範の枠を外す力は、他ならぬ消費社会の中に内包されていたのではなかったか。
それをお前は胸を張って肯定できるのか、というのが、僕が僕自身に問いかけたことだった。その答えはまだきちんと出せていないけれど、少なくともそこに何ほどかの倫理を呼び込もうとするつもりは、いまのところない。タテマエの共同体を復活させたところで、ネットに発露する、本音の形式を採ったネタ的コミュニケーションはもはや消滅しない。厳然として「ある」ものに眉をひそめることは必要かもしれないけれど、そうした僕らと彼らの間に、違いなどありはしないのだ。
午後になって人通りも増えた街角には、あちらこちらでメイド服の女の子たちが宣伝に立っていた。市場が飽和しているせいもあるのだろうけど、平日なのにこんなにたくさんの子たちが出ているのは、今日が今日という日だからだろうか。カメラを構える報道陣に向かって大音量で宣伝ムービーを流していたソフマップといい、彼女たちといい、資本主義というのは逞しい。資本の力は時に残酷なまでに悲劇すら押し流してしまうけれど、僕らはそうやって悲劇と喜劇を踏みならしながら生きてきたのだ。できることならこの街が、たくさんの悲喜劇を飲み込みながら、たくさんの尊い生と卑しい生を分け隔てなく受け入れる場所であればいいと思う。
この世界の憂鬱に
垂れ流したヒクツに
いつか捨てた勇気に
僕らが愛した歌に
同じ朝が来る
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