ICT周りでは久々の大ヒットとなったバズワードが「ビッグデータ」だ。バズワードというと内実を欠いた流行語だと思うかもしれないが、そういう正論を吐けるのは、稼ぐということに必死になったことがない人だけだ。正しい見方はこうだ。バズワードとは、それなくしては次の仕事を生み出せない業界関係者にとって、既存の仕事に新しい価値を与えて、自社の事業を変えずに他社には変革を要求することのできる、天啓のようなキーワードなのだ。
ではビッグデータという言葉の本質は何か? それは、「データ」から解析によって新しい価値を生み出すために、データの幅と量を増やしましょうということだ。言い換えるとデータ取得と解析のコストは下がっているのだから、さしあたり取れるものは全部取ってしまって、あとは弊社のデータアナリストによる解析と付加価値化をお待ちください、という話になるだろうか。
取れるデータはすべて取ると聞くとなんだかGoogle的な響きだが、いくらデータ取得のコストが下がったといっても、付加価値を生み出しやすいものとそうでないものがある。そしていまビッグデータとして価値の高い情報といえば、やはり消費者の購買に関する情報ということになるだろう。
いつ、どこで、どんな属性の人が何を買ったか。その情報を把握することは、特に小売流通に関わる事業者にとっては事業の本質に関わる重要な課題だ。だがこれまでその情報は、お客様アンケートか店舗での観察、あるいは店員が入力するPOSデータに頼るしかなかった。いずれも量や正確さの点で大きな問題があるものだ。
だが例えば、ポイントカードや電子マネー支払いを介して、消費者の情報と購買行動を結びつけることができれば、従来よりもはるかに精度の高い情報が得られる。企業ポイントによる囲い込みは1989年のヨドバシカメラのポイント制度が始まりらしいのだが、2001年にSuicaとEdy(現・楽天Edy)の利用が開始されてからは、ポイントや電子マネーなどの広い意味での仮想通貨が、流通の世界で大きな存在になっている。野村総研の調べによると主要電子マネーの決済金額は、2012年で既に2兆円を超えているという。
ただ、これを「電子マネー」と呼ぶのが適当なのかどうかは微妙だ。エドワード・カストロノヴァ『「仮想通貨」の衝撃』は、ゲームオタクの経済学者による仮想通貨論だが、彼に言わせれば通貨とはもともと仮想的なものでしかなく、通用するという事実さえあれば貨幣として成立するという。一方で、グレシャムの法則(悪貨が良貨を駆逐する)に従うならば、「リアル」な通貨は資産価値を持つ仮想通貨に対する悪貨ということになるので、仮想通貨の普及はリアルマネーとは別の(多くの場合非公式な)市場の形成を促すということになる。
この話の前提になっているのは、仮想通貨をMMORPGのゲーム内通貨のような、リアルマネートレード(RMT)を通じて現金と交換可能な資産として捉える見方だ。たしかにそうした非公式市場は存在する。だが経済規模で言えばそれは、ポイントや電子マネー支払いに比べると小さなものだろう。
さらに言うならば、いわゆる「電子マネー」は確かに電子媒体に記録された通貨のように見えるけど、実際は決済手段を電子化したに過ぎず、資産価値を持つ「良貨」にはなりにくい。円に対して変動する交換レートが存在しないからだ。法制度の面でも、ポイントに関しては自社のみの流通であれば値引き、他社と共通化したものであっても「景品」という扱いで、発行できる額に明確な制限がかけられている。電子マネーについても、2010年の法改正でプリペイドカードと同じ扱いにすることになった。
つまりはこれらの電子化された決済は利用者にとって、経済的利益というよりは支払いのスムーズさや盗難のリスクを軽減するという利便性を持つものだといえるし、そうしたことに頓着しないのならば利用しなくてもいいものなのだ。
ではポイントを発行する事業者にとっては? 興味深いことに、この数年で電子マネー、ポイント市場は拡大すると同時に、合従連衡が進んでいる。電子マネーのEdyを吸収し、自社ポイントとの共通化を目指す楽天は会員数5600万人、会員数4500万人を抱えるカルチュア・コンビニエンス・クラブのTポイントは、会員数2700万人のYahoo!ポイントと統合。後発ながら急速に会員数を伸ばしているローソンのPONTAカードは会員数5500万人と、非常に大きな市場を形成している(数字はいずれも『日経ビジネス』2013年7月15日号より)。これらのポイントは、利用できる店舗を増やし、自社の経済圏に囲い込むことで相互に送客することを目指しつつ、それらの店舗で利用したプロファイルを共通化して分析することで、より詳細なマーケティングに利用しようというわけだ。
だから、いま起きているのは電子マネーの普及ではなく、購買行動のデータを囲い込むためのポイント経済圏の間の争いなのだ。たくさんの店舗が参加しているポイント経済圏であればあるほど、そこに参加するメリットが増すという意味で、ここにも「プラットフォーム」的な性格がある。だが利用者にとってはどうだろう。支払いがスムーズになる場合もあるし、どこかのお店でついたポイントが別のところでも使えるとお得なのかもしれない。一方で様々な店舗での購買行動がひとつの決済情報として蓄積されてくれば、それが個人を特定する情報になる可能性も高まる。
そのちょっとしたお値引きとプライバシーはコストとリスクに見合う取引なのかを考えることもなくポイント経済圏戦争に巻き込まれていく気持ち悪さはある。そしてそれ以上に気持ち悪いのは、そうまでして抱え込んだデータでできることが、結局のところ従来型のCRMと大して変わらないんじゃないかと思わされるほど粗雑なイメージしかないことだ。それならせこせこダイレクトメールを送りまくってた方がよかったんじゃないのか?
購買という動態的なデータを分析しながらできることがメールを送ることでしかないのなら、利用者にとって大きなメリットはもたらされないかもしれない。その点で興味深いのはAmazonの試みだ。『週刊エコノミスト』2014年3月4日号の記事では、米Amazonが「予測配達」の特許を取得したことが報じられている。Amazonの各種利用データから「おすすめ商品」を表示する機能は既に有名になっているが、これはその一歩先に進んで、「顧客がオンラインで注文する前に、システムが特定の顧客の購入を予測。箱詰めした配達物をすぐに配達できる状態にし、注文があり次第配送し、注文がなければ最寄りのハブ物流施設にとどめておく」のだという。
こうした動向から読み取れるのは、ビッグデータの活用の先にあるのは、在庫やロジスティクスの管理の高度化であり、今日書店に行って本を買おうとする利用者にAmazonでクリックしてその本を購入させるという、ギリギリのつばぜり合いの話だということだ。
マーケティングの人たちとビッグデータの話をする時に僕が言っているのは、このギリギリ感の抱えるリスクだ。まずデータから予測された購買モデルは、環境要因の変動に弱い。偽装肉が出回ったとか大きな事故があったとか、そうしたことで容易に変化する可能性がある。さらに言えば、どれだけ高度にリアルタイムな解析を行ったとしても、製造や流通のほうがそれに追いつかない可能性もある。どれだけデータにフォーカスしようと、購買するのは主体としての個人だ。データ解析によって「どうなっているのか(How)」が明らかになっても、「なぜそうなっているのか(Why)」がブラックボックスのままであれば、「絶対に儲かる金融工学」と同じく、予想外の事態で大きな損害が出るかもしれない。
そんなわけで「ビッグデータ活用」の先にあるものについて僕はまだ懐疑的だし、解析すること自体は楽しいだろうけど事業に与えるメリットという点ではそこまで大きなものではないと思っている。もちろん使い方によっては、カーナビの走行データから事故多発地点を割り出して公共インフラの改修の優先順位を決定するとか、社会的に意味のある利用も考えられる。ただそれは匿名的で自由な行動をする人々の行動から公共的な意義を見出す、個人の意図が無視できるようなデータ利用だからであって、ロジスティクスやマーケティング分野に簡単に当てはめてしまうのは危険だ。
さて、では利用者にとってこうしたデータ活用が進むことは、どのように受け止められるだろうか。記憶に新しいところでは、JR東日本がSuicaの乗車履歴を(規約の範囲内とはいえ)販売していたことで批判されたケースが思い浮かぶ。だがそれでSuicaの利用者が激減したという話もその後聞かないし、政府での検討も進んでいるが、基本的にはビッグデータ解析を事業化するため、もろもろの問題から目を背けているという批判もある。
一方で、ローソンはパナソニックと共同で、そのパナソニックのお膝元の大阪府守口市にオープンさせた「次世代コンビニ」では、店内のカメラで来店客の行動をつぶさに監視、買わなかった商品のデータまで取得できるようにするという。ご丁寧なことに、このカメラでは人物だけを映像から消し去ることができるのだそうだ。同種の試みをアメリカでジレットとウォルマートが行った際には、(人物を消す処理などなかったとはいえ)消費者団体から大きな批判が上がって即座に企画を撤回したことを思えば、日本の消費者の反応は鈍い。
その理由を推測するのは難しいけれど、ビッグデータとプライバシーの感覚には、どこかTwitterで犯罪自慢をしてしまう人たちと似たようなところがあるんじゃないかと思う。つまり「これだけたくさんのデータがあるんだから、自分ひとりのデータくらい、見られたところで大したことはないのではないか」という。データマイニングの「マイニング」とは「発掘」という意味だが、データ解析にはどこか、ゴミの山の中から宝を見つけ出すという性格がある。そして僕たちの直感は、自分のデータがゴミの山の一部でしかないことを敏感に嗅ぎとっているのではないか。
ゴミのようなデータを日々大量に生成し、企業に売り渡す代わりにちょっとしたお値引きというメリットを得る。データアナリストが必死にそのゴミを漁って見つけ出したお宝を企業に売り渡す。企業はそこから、競合に対するギリギリの競争を仕掛けるチャンスを見出そうとする。そうしたビッグデータ活用が進む社会では、プライバシーだとか、あるいは欧州で認められた「忘れられる権利」だとかも、法律家の人たちが頭を悩ますのとは別の次元で理解されることになるだろう。
つまり、「私のデータを、正しく元のゴミの山に戻してくれ」ということだ。ゴミの中に埋もれたままにしていてくれるなら、そこでどんなデータが取られていても気にしないからと。そういう人たちに必要なのはきっと「忘れられる権利」ではなくて「自分がデータ的存在であることを忘れたままでいられる権利」なのだろう。そしてゴミデータがそれだけ必要とされる理由を考える人は、その中には一人もいないのである。