価値のある活動

雑記

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本日で年内のゼミは終了。まだお仕事は残っているけど、1年間の仕事の大きなヤマを越えた気分。入れ替わり立ち代り研究室をいろんな人が訪れるのも、なんだかこの時期ならではの慌ただしさ。

社会に学問は必要だけど、生きていくのに必要とは限らないし、アカデミックな知識への関心は皆無で勉強をサボっていたとしても、お金になる仕事ができる人もいる。一生懸命勉強した経験を、お金になる仕事をするための練習として活かせる人もいるし、仕事とは関係ないけど、好きなことを好きなように追求するために学生時代を費やす人もいる。要するに、僕らの仕事は「あってもなくても大して変わらない」。

さて、よく考えてみれば、僕たちが携わる仕事の多くは、社会に必要だとしても、目の前にいる相手にとっては必要であるかどうか分からず、つまりはあってもなくても大して変わらないものが多い。だからそういうものに価値があると思わせること、コストを払ってよかったと思わせられることは、仕事が仕事である理由を生む本質的な活動でもある。

こう書くと、僕の仕事が「あってもなくてもいいもの」に価値を持たせるための活動という風に読んでしまうかもしれない。もちろんそれでもいいんだけど、実は卒論だとか、研究指導だとか、そういうことにも当てはまる話だったりする。

大学教員という仕事(上司でもコーチでも置換可能)は、「人育て」という点において、そこまで明確な数値目標が与えられていない。丁寧に手をかけすぎて周囲から心配される僕だけど、逆に考えれば、熱心に指導してもしなくても報酬への反映はないわけだから、できる限り学生に不人気な態度をとることが負担軽減の戦略としてはもっとも有効だ。にも関わらず多数の学生に熱心な指導をする人というのは、単に自己満足かお人好しか物好きの類ということになる。

大抵の教員は、その中間だ。手をかければ伸びるなら、なんとかしてあげたいと思うし、何をやっても無駄なら無理なことはしない。ということは、指導してもらえるかどうか、それによってバリューの高い結果を出せるかどうかは、指導される側が指導するに値する結果を出そうとしているかどうかに依存する部分がある(もちろん、指導する側との相性や能力とかもある)。

世の中を生きていれば、「お前はこの場にいてもいなくても変わらない(だから金を出す意味がない)」とか言われる経験は一度や二度ではない。だから、いま自分が課されているタスクに意義を感じないとしても、それはしかたのないことかもしれない。でも、互いにやってもやらなくてもいいものに、相手にとっての価値を生み出すことができるかどうかは、それがお金になるかならないかに関わらず、僕たちがこの社会で生きていく意義につながっているんじゃないだろうか。

というわけで僕自身はきっとその一点だけで、自分の仕事に価値があることを学生たちに示そうとしているのだけど、学生たちにも「これは自分のしたことが教員にとって手を掛けるに値するものであることを説得的に示す活動だ」くらいに思ってくれたらいいなと思うのだった。

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