欲望するは我にあり

雑記

6月は気づけば講義期間も山場で、何本か見た映画もブログに書くほどではないという感じのまま終わってしまった(試写で拝見した『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』は、公式サイトにコメントを載せてもらったけど)。7月には勤め先の研究所の報告もあって、ややハードな研究活動をしていることもあり、どうにも振れ幅が大きい。

そんな中で、主張の新幹線で読んだ、佐藤尚之『明日のプランニング』がちょっと面白かった。というか、刺激を受けた。昨年、このブログでIPPS消費について書いて以来、色んなところで消費の話をする機会に恵まれていて(たとえばこちら)、その関係もあって消費論やマーケティング論にも手を伸ばしているのだけど、基本線として思うところは重なりつつ、落とし所は違う視点という感じだろうか。

本書の前提となるのは、日本にはまだ7000万人ほどの「非アクティブ」なネットユーザーがいて、そこが、いまミリ単位でしのぎを削っているネット向けのマーケティングや広告の手法とは異なる原理の世界になっているということ。一方が伝統的なマスマーケティングと口コミの組み合わせで効果をあげられるのに対して、他方は世界中の砂粒の数より多い情報の中から、自分が発信した情報を診てもらうという、限りなく不可能に近い課題に応えなければいけない。

そうした状況をふまえて、さとなおさんは「生活者のオーガニックな言葉」を引き出すためのファン獲得の取り組み(「戦略」とかいうと野暮だろう)を推奨するわけだけれど、おそらく相手によってはこういう話はとても有効で、廃線寸前だったけどファンからの声で持ち直したローカル鉄道だとか、長年の愛飲者が多い老舗のお茶屋さんだとか、そういう売り手と買い手の関係があるところでこそ活きるものだな、と思う。

一方でそこには、どんなふうに言おうと「売るためのコミュニケーション戦略」という意味もつきまとう。オーガニックな言葉だろうとファンの声だろうと、要するに無関係な私にお金を使わせるために、誰かがその言葉を私に届けてるんでしょ、という意図が見え隠れした瞬間、この手の話は「冷める(覚める)」。広告とかマーケってそういうものでしょ、と言われれば身も蓋もないが、一見「いい話風」のバイラルコミュニケーションが蔓延しているいま、このジレンマは避けて通れないもののように思う。

ところで、昨年から言い続けていることの大きな骨子のひとつが「広告ではなく友だちが勧めるものの方が購買を促す」→「だから生活者にお薦めの言葉を発信してもらおう」というソーシャルメディア戦略は、一般論としてはもう限界なんじゃないかという話だ。実際、ウェブに特化したコミュニケーション・デザインよりは、イベント、観光などを通じた生活者発信のためのプラットフォーム・デザインや、コミュニケーションの前提となるコンテクスト・デザインの方が重視されてきていると僕は思っているし、その理論的なバックボーンも、既にで書いている通り。

でもこの本を読んで思ったのは、もっとシンプルな話だ。
「人ってそんなに、友だちのお薦めなんて聞きたがってるんだろうか?」

お薦めというとどうしても「これ、お前も買ってみろよ!」という言葉を連想する。でも、コミュニケーション・デザインとか言われているものの中でほんとうに必要なのは、その前段階にある「俺、この間これ買ってみたんだけど、すごくよかったんだよ」という言葉じゃないだろうか。もっと言えば、誰に向けられることもない「これ買ってみたけどほんとうによかった!」という言葉だけで、見る側にとっては好奇心や欲望をくすぐられることってないだろうか。

「飲み会の後のシメのラーメン! #デブ活」なんて写真付きで投稿されたらラーメンが食べたくなるし、「夏用のワンピ衝動買いしちゃった♡」とか言われたら「えっ、どうしよう私も欲しくなってきた」となるんじゃないか。それは、友だちが食べたり買ったりした商品と同じではないだろう。でも、誰かの真っ直ぐな欲望は、別の誰かに、似たような欲望を喚起する力がある。本来ソーシャルメディアで拡散していたものとは、「あなたも試してみなよ」というレコメンドではなく、個々人の勝手な欲望が別の欲望を喚起し、それがカスケードのようにひとつの流れを作っていく、そういうものだったんじゃないのか。

たぶん心理学の研究なんかを引けば、その辺の根拠も明らかになると思うし、哲学的にも「わたしの欲望」と「あなたの欲望」が明確に線引きできるものではないなんてよく聞く話かもしれない。有名なのは、ジラールの「模倣の欲望」だろう。ともあれ、そういう風に捉えてみると「誰かのレコメンド」ではない、「わたしの欲望の集積と連鎖」が消費を促すという古典的な現象のネット版が、あちこちに見られる気がする。

たとえばキス動画でお馴染みになり(そのせいでキャズムを超えられないかもしれない)MixChannel。誰が人のいちゃいちゃなんか見たいんだよ!と思う人も多いだろうけど、そこにあるのは「誰かが別の他人に向けた思い」が、自分の方に向いていないからこそ、私もこんなふうに思いを向ける相手が欲しいと思わせるとか、自分の思い人に向ける矢印が大きくなるとか、そういう現象じゃないか。あるいは次の時代のソーシャルメディアになるかもしれないInstagram。あれだって、お薦めの商品を広告として掲載するよりは、わたしが食べたもの、買ったもの、行った場所などの「わたしの欲望の結晶」を周囲に公開する場所だ。

生活者というよりは消費者の中には、明確に自分の強い欲望があって、あれがほしい、これがほしいと思っていたり、他人が何を欲望しているかなんて興味ないという人も多いだろう。きっとそういう人は発信力が強いから、こういう話をしても、コメントに現れるようなレベルでは共感されないかもしれない。でも、そもそも「特に強い欲望がない」「めちゃくちゃ欲しいとまでは思わない」というのが、世の中の多数派なんじゃないだろうか。そういう人にとって欲望は、誰かが何かに対して強く抱いた思いのコピーとしてしか生じ得ないのではないか。

ジラールの「模倣の欲望」は、「欲望の三角形」なんて言われて、モデル=ライバルとなる相手の欲望に同一化することで自身の欲望の対象が明確になるという話だった。でもネット時代における模倣された欲望とは、三角形というよりは、互いに違う対象に向けて並行して走っているにも関わらず、新たな欲望を連鎖的に生じさせる「欲望の櫛型」を形成しているんではないか。だとするなら大事なのは、「オーガニック」であるとしても、「お薦めの言葉」ではなく「欲望の言葉」そのものであるはずだ。

なかなか実務に落とし込みにくい(別に僕の仕事じゃないけど)し、それこそクライアントが聞きたがっている「プランナーのオーガニックな言葉」とは、もっと「消費で世界をよくしましょう!」的なものなのかもしれない。ただ僕の関心はそこにはなくて、誰の、どんな欲望が、いまこの社会に連鎖しているのかという話だ。それはもう少しあとに、また別の記事で書こうと思う。

ウェブ社会のゆくえ―<多孔化>した現実のなかで (NHKブックス No.1207)” style=”border: none;” /></a></div>
<div class=
鈴木 謙介
NHK出版
売り上げランキング: 23,096
タイトルとURLをコピーしました