神と天才とユートピア 第二部 パフォーマティブ労働の時代(2) 薄利多売のパフォーマー

連載

学生活動と「リア充格差」

20160706

もともとそれほど積極的な性格でもないし、学生活動は彼らの自主性に基づいて行われるものである以上、教員が首を突っ込むのは違うよなと思って、学内で行われるライブだの公演だのには足を運んでこなかったのだけど、今年はたまたま縁があって、何度か彼らの表現活動を観に行っている。驚くのは、これが学生自治ってやつか、ということだ。普段は講義において統制される対象としての学生しか見ていないから、彼らが自発的に結成した集団の間で利害を調整し、自己表現のエゴと集団としての規律を達成しているのを目の当たりにして衝撃を受けた。こういうことが自覚的にアピールできるなら、そりゃサークルの経験が就職活動でのアピールになるという人もいるだろう。

もちろん実際には、勤め先くらいのレベルであればそれが求められる最低限なのであって、そうした人としての社会性に加えて、それを個々の仕事に活かす積極性や知識が評価の対象になるのだろうから話は簡単ではない。ともあれ自主活動はそれが学生の自己表現であって、いわゆる「プロ志向」とは別のものであるからこそ、将来の汎用的スキルにつながる可能性がある。本気になってプロと同じ基準の結果を出さないものにはすべて意味がないという価値観で生きていた学生の僕が獲得し損ねたやつがこれか、と思った。

そしてもうひとつ興味深かったのが、この自己表現活動と、ある種のスクールカースト的なものとの関係性だ。というのもこれらの活動においてもっとも重要なのは集客だからだ。公演は観るものと観られるものがいて成り立つ以上、「今度公演やるから観にきてよ」といって人が集まるということが活動の条件になる。表現活動で人の前に出るエゴとスキル、集団内外での利害調整ができる社会性に加えて、学内イベントを観に来る友だちをたくさん集める人望がなければ、活動そのものに「面白さ」を感じられずに脱落することになる。サークルの仲間や学内の友人たちに大きな声援を浴びて「盛り上げてもらう」ことができる時点で、コンプレックスを感じて「うちには無理」と背を向ける人の方が多数派なのだと思う。

学生たちを見ていて感じるのは、こうした「名刺代わりになる活動」への渇望だ。サークルや学内活動であれば集団内外の学生からの評価になるが、学外のビジネスコンテストだとか企画プレゼン、「学生団体」での活動を通じて社会から評価されることもあるし、アルバイトでも最近は地位に見合わない責任を要求されることがある。ゼミでの研究に「時間外活動」を要求されるのが当然であるかどうかは教員と学生の間で意見の食い違いがあるけれど、そういう熱心なゼミに人が集まることもある。総じて学生たちの活動は「ブラック」化しつつあるように見える。ここでの「ブラック」とは、彼らの活動が純然たるコンサマトリー(自足的)なものではなく、「自分がいかなる人物であるか」を示すためのインストゥルメンタル(道具的)なものであるがゆえに、その目的に照らして必要な活動の量が決定されるという意味だ。

その背後には、さしたる自己の意思もないままに表面的な活動の履歴を自己アピールの手段にしようとする、数年前であれば「意識高い系」なんて言われてしまったものもあるけれど、どちらかというと彼らの意識はもっと切実で真摯だ。真摯だからこそ「ブラック」と呼びたくなるほどに活動にのめり込んでしまうし、要求されるものも大きくなる。結果的に、どんなものにも中途半端な意思しか持てず、周囲の学生たちの活動を眺めながらも「観る側」にとどまる層と彼らとの心の距離は開いていくことになる。これが要するに「リア充格差」の一部を形成しているように思える。

プロシューマーとシェアリング・エコノミー

前置きが長くなったけど、連載の第二部の関心は、誰もがパフォーマーであるか、さもなくばモブ的な観客に甘んじるしかない世界が到来しているのだとして、そこでどのようなパフォーマンスが演じられていて、それはどんな条件でこの社会に埋め込まれているのかというところにあった。その中でも特に今回取り上げたいのは、パフォーマーの数が相対的に増えた社会において、観るものと観られるものがどのように分け合われているかということだ。相対的な増加といっても、プロのダンサーやミュージシャンを目指す人が増えたという意味ではない。サークルの発表のようなものから、たとえば企業の宣伝ムービーや友人の結婚式のお祝いでダンスを踊るとかBGMを自前で作曲するとか、そういうことが当たり前に行われるようになり、誰もが「素材」としての価値を帯びる(求められる)ようになったことを指している。

こういう存在を、先日亡くなったトフラーは「プロシューマー」と呼んだ。いまではウェブ業界を中心にプロシューマーは「発信する消費者」、つまりSNSの利用者のことを示す非常に薄い意味合いで使われるけれども、その本来の意義はもう少し大きい。プロシューマーのもともとのモデルは、家庭菜園で採れた野菜を近所に「おすそわけ」するような、つまり市場での取引プロセスを通さずに、ただ自分がそうしたいからという理由で生産も担う消費者像だ。前近代社会においてはそれはコミュニティでの資源分配を可能にするシステムとして社会に埋め込まれていたのだけれど、近代資本主義システムはそれを市場取引の仕組みとして脱埋め込みする。それが現代において、ソーシャルメディアなどと結びつく形で再埋め込みされつつあるというのが、社会学的なプロシューマーの理解だろう。

これは要するに誰もが余剰資源としてのパフォーマンスの提供者となり、ちょっとした娯楽や「素材」としての人間を求めている人のところに届けられるようになるという意味だ。学生イベントの「素材」としてムービーに登場するくらいならともかく、たとえば近年ではテーマパークにおけるフラッシュモブの参加者が、当日のイベントのために一生懸命ダンスの振付を覚えたり、フィットネスクラブや痩身プログラムの会員が自らの身体の変化を広告でアピールしたりと、自ら進んで「広告素材」となるような例も登場している。あるいは居酒屋の店員がネームプレートに趣味やニックネームを記すように、パフォーマティブ労働の分野においてもこうした傾向は見いだせる。一人ひとりは専業パフォーマーとしてそれを生業にしていくわけではないのだけど、市場の外で――つまり直接の対価以上のものを供給することで――自分のちょっとしたパフォーマンスを誰かと分け合うのだ。

言い換えれば、そこにあるのはパフォーマンスを対象にしたシェアリング・エコノミーだということになる。消費者が自分の余剰資源を、ネットを通じて需要のあるところにマッチングしていくというシェアリング・エコノミーの仕組みが、既存の市場取引に対するオルタナティブであるとして「資本主義を変える」と言われているけれど、それは「市場取引を通じて自分の資源を売って生活の糧にする」ということの対極でもある。

こうした現象が興味深いのは、彼らパフォーマンスの提供者は、おそらくプロシューマーにおけるそれと同じく、ただ自分が楽しいから、あるいは周囲からの賞賛を得られるからということで自分のパフォーマンスやパフォーマティブ労働を切り売りするのだけれど、それを需要する側も変化させているということだ。「読者モデル」「カリスマ書店員」のようなセミプロ・プチ有名人をプロモーションに起用する流れは今に始まったことではないけれど、現在はそれよりさらに「人が資本」になっている。ネット上での匿名の「盛り上がり」ではなく、顔の見える一人ひとりが自社の宣伝やブランディングに貢献するよう、消費者との関係性を深め、信頼される企業でなければならないという理念の裏側に、いかにして顧客や従業員を「素材」にするかを考えることが、経営戦略の一環になりつつあるのだ。

「薄利多売」の市場メカニズム

ある意味でそれは「やりがいの搾取」なのかもしれない。しかしこの言葉から連想されるような、悪徳経営者による心の弱い若者の洗脳といった話と、パフォーマティブ労働の拡大という現実にはやはり微妙なズレがある。むしろそこで起きているのは、パフォーマンスが、それを必要としている人のところに手軽に届けられるようになったことで生じている、市場全体の変化ではないのか。

そもそもシェアリング・エコノミーは、休眠資源を効率的に活用するためのアイディアであり、手段だ。効率的な活用とはどういうことか。経済学において目指されるのは、市場の取引を通じて余剰と不足が解消された状態を実現すること。いわゆるパレート効率的な状態というやつだ。ということは人口が増えたり一人あたりの需要が増加したりする場合、その分だけ経済が成長して分け合う資源が増えないと、誰かの需要を犠牲にする配分が行われることになる。これが経済成長の必要性。経済成長を巡る議論のすれ違いは、この前提を共有していないことから生じている。経済成長一辺倒の考え方に反対している人が本来問題にしているのは、市場を通じた分配だけでは資源の偏在を避けられないということだろうし、それに対して経済成長を支持する側は、単に資源を分け合うだけで資源が増えなければ、最終的には全員が食えないレベルに留まることになることを問題にしている。ということは資源を増やして平等に分け合えばいいだけなのだけれど、成長のためには資源の不均等配分も必要悪というところがあって、両者の世界観の違いは埋まりそうにない。

シェアリング・エコノミーが市場経済を変えそうもないのは、シェアされるべき資源がどのように増えるのかという点に無頓着に見えるからだ、というのが、この2つの立場を整理してみて思うことだ。確かに自動車や住宅は休眠資源になりやすいし、日常のちょっとした空き時間で小遣い稼ぎができたらいいなと思う人はいるのかもしれない。だがそれはいまだ発掘されざるフロンティアの金脈なのであって、掘り尽くしてしまえばそれ以上は増えない。さらに、シェアされる資源のマイニングに見合うだけの需要増がなければ、結果的に供給過剰になって価格が下落することになる。現実に起きているのは、ホテルなりタクシーなり、既存の市場において成り立っている需給関係にシェアリング・エコノミーが安値で参入し、供給過剰と価格破壊を引き起こすということだろう。

資本主義の仕組みを変えるはずのシェアリング・エコノミーが、まさに資本主義の仕組みそのものであるかのような薄利多売につながってしまうのはなぜか。ここには2つの問題がある。ひとつは、そもそもシェアリング・エコノミーの前提となるプロシューマーは、経済が成長した果てに人びとが無数の余剰を抱え込んでいることで登場するという点。前近代社会の場合、市場経済が未発達だったこともあって、作ったものがそのまま交換に回される傾向が強かったのに対して、成熟社会においては市場経済の取引の余剰分が、名誉や賞賛といった価値観で取引される。シェアリング・エコノミーの場合、この「余剰」が「自分の持っている資産の休眠分を有効活用する」のではなく「他に売るものがない人びとが自分の資源を廉価でバラ売りする」となったときに、市場破壊的な意味を持つことになるのだ。

問題は供給過剰にある。普通に考えれば解決の方向性は、(1)バラ売りによって価格が低下した分だけ市場が広がり、需要が増えるのを待つ、(2)そんな低価格では食えないとなった人たちが市場から退出することで供給を減らす、の2つしかない。さらに前者の場合、自分の売りたい価格に見合わない状態がいつまで続くのか分からないという新たな問題が生じる。市場取引による需給の均衡というのはあくまでモデルだから「10円のトマトを1日に1個だけ売って暮らす」という現実にあり得ない状態も想定できる。実際はその状態で耐えていればいつか需給がバンランスするのかもしれないけれど、普通はそうなる前に生産をやめてしまう(たとえばコーヒー豆の生産と流通はそうやって何度も危機に直面してきた)。

市場から食えない人が退出すれば自然に価格がバランスするかというとそういうわけでもない。市場からの退出の前提には、「他にも働き口がある」「退出しても他の働き口ですぐ働ける」という条件が必要だ。しかし、シェアリング・エコノミーが進出している市場では、「他に仕事もない」というタイプの人が多いから、価格が低下してもその値段で仕事を続けざるを得ないケースもままあるわけで、仕事や居住を変えるスイッチング・コストが短期的に所得を上回る場合、その人は市場にとどまってしまうことになる。

結局のところ、市場ではなく働き手の側から見た場合、スイッチング・コストの低い別の労働市場が成り立つことが転職の条件になる。こうした仕事を生む可能性が高いのはイノベーションだということになっていて、タイラー・コーエンやエンリコ・モレッティが指摘するように、イノベーション産業の周辺には同時に単純労働が発生しやすい。グーグルが入っている六本木ヒルズで働くのは、グーグル社員だけでなく、彼らにコーヒーを提供するスターバックスの従業員でもある。かくして事態は、市場原理を嫌う人がこぞって批判する、「経済成長」「雇用の拡大」「格差の拡大」の3点セットに収斂することになる。

薄く広くパフォーマンスを持ち寄る

ほんらい必要だったのは、資源を余剰に持っている人がそれを分け合うことで、資源が足りていない人が安価にそれを手に入れられるようにすることだった。シェアリング・エコノミーが、その理念とは裏腹に、極小の資源を切り売りしながらなんとか食いつなぐ貧困層を拡大させる(こうした主張はロバート・ライシュなんかも行っている)のだとしたら、おそらくそのモデルはサステナブルではない。なので実はライシュが心配する前にこうした市場はなくなってしまうのだけれど、連載の関心は、ではパフォーマティブ労働はシェアの対象になるのか、というところにある。誰もがちょっとした空き時間に、企業のプロモーションを肩代わりしたり自ら広告塔を担ったりするのは、いわば「パフォーマンスのシェアリング・エコノミー」ではないのか。

なぜパフォーマンスがシェアの対象になるのか。供給側の事情は次回以降に考えるとして、需要側から見るならば、パフォーマンスという商品のもつ性質に着目すべきだろう。というのも、パフォーマンスは商品としての質のばらつきが大きく、同じことをするにしても「できる人」と「できない人」の差が目立つ。当然、「できる人」に仕事を集中させたいわけだが、困ったことにパフォーマンスの質を維持しながら提供することのできる限界というものがあり、供給を需要に応じて増やすことができない。スターパフォーマーの給与を上げるにも限界というものがあるため、結局のところ、パフォーマンスは需要過剰を抱えたまま高価格で取引されることになる。

こうした状態は、たとえば人気アーティストのライブなどで顕著になっている。チケットは需要に対して低価に設定されており、どうしてもライブを見たいという人の間で私的・非公式に取引される際には驚異的な高値になる。それを抑止するために本人認証などが求められるようになっているわけだが、問題の本質は「人気になるほどのよいパフォーマンスは需要に見合うほどは提供できない」という点にある。

こうした需要を満たすためには、トップのパフォーマーほどではないが、パフォーマンスとして享受可能なものを供給していくしかない。言い換えれば、ほんらいは非常にホスピタリティの高いごく一部の場でなければ手にすることができなかったパフォーマティブ労働を様々な場所で提供することができるようになるために、対価に見合わないようにすら思えるパフォーマンスが、普通の人に要求されていくのである。

もちろん、そのパフォーマンスが提供されていかなければ、市場は全体として成り立たない。では供給する人びとのほうではどんなことが起きているのか。それを次回以降に論じていきたい。

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