ネットの初期からそうだったのかもしれないけれど、ソーシャルメディア時代になって特に面倒になったなと感じることのひとつに、「意見の食い違い」がある。「感動した」と書けば「は?あんなのクソじゃんセンス疑うわ」と返され、「許せない」と言えば「じゃあこれもあれも批判しないと筋が通らないとおもいまーす」と突っ込まれる。そうした衝突を避けようとすれば、意見の違いは放置するのが吉となるのだけれど、たまに学生のつぶやきを見てしまって「いやそれは違うだろう」となってしまうこともある。いまはすっかり「ネット=自分のひとりごとスペース」だと思っているので、他者の書き込みはすべてbotかAIだと受け止めてはいるものの、自分と異なる意見をどう見るべきか、正解のない問題だなあと思う。
特に、賛否両論あるグレーな事例で、その面倒さは頂点に達する。ある人や情報が「炎上」する、つまり批判を集めると、大抵の場合次に起きるのは場外乱闘だ。つまり、批判対象と批判者のやり取りではなく、批判に賛同する人としない人の間での罵り合いが始まるのだ。ディベートの授業であれば、顔の見える相手に対して「アサーティブなコミュニケーション(相手を大切にする表現)」が大事ですよね、というところから始めるのだけど、ネットにおいてはそれが通用しない。すぐ殺せとかお前が死ねとか言い出すし、一人ひとりは軽い気持ちであったとしても、それが集まることによる「数の暴力」が果たす影響力は大きくなる。
9月30日に公開され、批判を受ける形で1週間での公開停止、差し替えへと動くことになった資生堂のCMなんかは、そういうことについて考えるひとつの題材だと思う。似た事例としては、昨年春のルミネのCMが炎上した件があったけれど、このとき僕はこのブログで「ワンサイドで炎上した」と書いていて、それに比べれば賛否両論ということもあり、場外での罵倒合戦が一部で見受けられる。批判する人にとっては「不愉快」「時代錯誤」といった感想を率直に表明しただけなのだろうが、それが「セクハラ批判」「取り下げ」となるに至って、「過剰な批判」「CMの意味を取り違えている」という反論が登場し、挙句「なんでもセクハラで批判される時代、ほんと窮屈」という流れだ。
こうした場外乱闘の話の文脈がどんどん拡散していく感じは、ものごとがこじれるときに特有のものだし、論点が拡散した段階の一部分だけを取り上げて、「いやそういうけどさあ」と反論を試みるのも、正直詮ない気持ちにしかならない。最低でも「このCMが表現しているもの」と「批判や取り下げの是非」は分けて考えるべきだし、今回の批判が過剰かどうかと、そうした批判一般を許容すべきかどうかも別の問題として扱うべきだ。その上でまずは、表現されているものについて考えてみよう。
問題は「根本の問い」から逃げたこと
僕自身は20代でも女性でもないので、このCMに対して感じたことを表明したとしても、そもそもターゲット外からの意見になるのだと思う。ただコンテンツとしてCMを分析するならば、昨年のルミネのCMと構造的に似通っているにも関わらず、今回は賛否両論だったところが興味深い。共通点としては、(1)綺麗になることを通して女性を応援したいという企業の姿勢や商品に対する共感が既にあった、(2)職場の男性上司がきっかけとなって美意識を高めるという表現があった、(3)キャンペーンの一環としてウェブで動画が公開されていたが、批判を受けて公開を取りやめた、といったところがある。
そして、ルミネと資生堂の違いとして見られるのは、(2)に関して、資生堂の一作目の作品のメッセージを重視し、「あれは男性きっかけなのではなく、女性が自発的に美意識を高めることを伝えようとしている」と読み取った人が擁護に回ったこと、それと関連して(3)について「過剰な批判である」という意見が出てきたことがある。要するに、コンテクストの非常に微妙な部分をどう捉えるかで、受け止め方も批判への許容度も大きく変わるような、文字通りグレーな表現だったということなのだろう。
グレーということは、「女性を応援する」と読むのと、「女性を抑圧している」と読むのの、どちらが「正解」とも決められないということだ。おそらく表現の意図としては、「応援」が正しい。しかし表現というのは、国語の時間のように「作者のいいたいこと」を読み取るものではなく、受け止められ方を込みにして完成するというのがメディア研究などでの常識だ。それゆえこの例で「表現者側の意図を正しく読めていないから批判は間違い」というのも、話をやや単純化しているように思う。
そのため、グレーゾーンを巡って賛否両論になることは否めないが、すると問題は(3)のレベル。今回の批判が過剰かどうかという点に照準することになる。そちらについては、資生堂のコメントにある「『綺麗でなければ女性でない』ということなのか?」というのが批判の中心だとするなら、批判の論点はCMそのものが描き出す、ややメタレベルのところにある。つまり問題は、CMの表現が性差別的かどうかではなく、「化粧をしないと輝けない社会がいい社会なのか」というところにあるわけだ。
こうした問いかけに対して「それは今回の話とはレベルが別だから的はずれ」と言うこともできるだろう。ただ一方で、じゃあどこなら的はずれでない批判が許容されるのか、ということもある。こうした社会のメタレベルの規範というものは、特にマジョリティがそれを許容し、受容している場合、「私はそれに反対なんだけど」と発言する機会すら与えられないことが多い。だからこそ折に触れて、ときには過剰な踏み込みになることを覚悟の上で、「やっぱりこういう価値観はおかしいと思う」と表明せざるを得ないというのは、この件に限らずよくあることなのではないか(たとえば同じ資生堂がマイクロソフトと開発した「“すっぴん”でも化粧顔に見える テレビ会議システム」など)。
そしてさらに言うなら、「綺麗でないと価値がないのか」という問いは、「美」を売りにする資生堂という企業が、その存在価値を根本から問われているということでもある。かつて資生堂の福原名誉会長は「お客様は化粧品を買うのではなく、”きれいになること”を買うのだ」と言ったそうだ。それに対して「本意が伝わらなかったから取り下げる」というのは、企業としての資生堂がこの問いに正面から答える準備も覚悟もないままに、グレーゾーンの表現を社会に投げかけたということを意味する。今回の件が残念だとするなら、それは資生堂が「瑣末な批判に屈したこと」ではなく「自分たちの意図と異なる反応で取り下げる程度のCMを作成していた」という点にあると見るべきだろう。
「共感される」のはいいことか
ところで、今回のはなしでもうひとつ気になったことがある。取材に答えた資生堂の担当者いわく、
CM放映前には、視聴調査などでターゲットとなる方々(25歳前後の女性)から「非常に共感性が高い」という反応をいただいており、公開に至っていました。
というのだ。つまり資生堂(と、おそらく制作を実際に担当した代理店)からすれば、それなりに準備をした上での公開だったことになる。にも関わらず炎上したのはなぜか。もちろんターゲットの中にも不快に感じた人はいただろうが、世の中全体に公開するのに、ターゲット外の人がどう受け取るかといったことを織り込んでいなかったあたりに問題があったのではないか。
「共感される」というのは、バイラルで価値が伝わるとされるソーシャルメディアの時代には非常に重要な要素だ。CMをウェブで公開し、公式アカウントで宣伝していたことも含め、今回のCMの企画に、ソーシャル上での「共感」を呼ぶという意図があったことは確かだろう。だからこそ事前調査でターゲットの反応を確認する作業も必要だったわけだ。
だが「共感」というのは、とてもあやふやな感情だ。こうした調査においてモニターの発言がどこまで信頼に足るものかという問題は、広告・マーケの人間であれば全員が感じていることだし、同世代の女性だけを集めた場所では「えーいいと思いますー」「私もー」となったとしても、集まった人や場面が変われば「んーでもちょっと微妙かも?」と感じることはある。ましてネットという文脈のないコミュニケーションの中に映像表現だけを投げ込めば、ターゲットを絞って見せたときとはまったく異なる見られ方をすることくらい、織り込まれておくべきだったのだ。
つまり、「共感を呼ぶ」というのは、あらかじめ消費者の中にある「共感ポイント」に刺さる表現を見つけるのではなく、「共感されるようにコミュニケーションの文脈をつくる」ことによってしか可能にならないようなものなのだ。この点において「広告からコミュニケーション・デザインへ」と言われ続けている業界の中にあって、それに成功する例があまり表に出てこないばかりか、クライアントも製作者も「これなら生活者に刺さります!」を合言葉にスタティックなKPIを設定してしまっているように見える。
だが、バイラルで「共感の輪」が広がることで、結果的に「反感の輪」を広めてしまうことだってあるのだ。別の話でそれを如実に感じたのが、ANAによる「魔法のチケット」という企画だ。詳細についてここでは説明しないが、このムービーは、おそらく子どもを持つ親をターゲットに、そうした層に「家族で旅をする」ことの価値を感じてもらおうというものだったのだろう。3分という、CMとしては長いがウェブ動画としてはありがちなサイズのこのムービー、僕の周囲では家族がいるかどうかではっきりと感想が分かれた。というよりも、子どものいない人は軒並み「反感」に近い感想だったのが興味深かった。
ソーシャル時代には、こうした場面にまま出くわす。自分がいいと思ったものを、知り合いがボロクソに貶していたり、逆に自分が「問題だなあ」と思った「うなぎ少女」の事例でも、九州の知人は割と共感的だったり、コメント欄で絶賛されているのを目にしたりした。こうなると、人の「当初の感想」なるものはすぐに相対化されてしまう。「いいって思ったけど、いやがる人もいるのか、じゃあ話題にするのは面倒そうだな」となれば、「共感」を得られたとしても、バイラルな拡散にはブレーキがかかるだろう。
今回の資生堂の例に限らず、バイラルに表現を拡散するということは、「1人の共感者をつくり、同時に5人のアンチをつくる」リスクに身を晒すということでもある。これがセルフブランディングを目指す個人であれば、アンチの声に耳を傾けず、ひたすら信者が喜ぶように発言を過激化させるという手法もあり得たのだろう。でも、情報が広まり、批判と検証と解説が場外に拡散していくことが状態化している現在、必要なのは、「アンチとの関係づくり」の方かもしれない。ポスト・ソーシャル時代のコミュニケーション・デザインは、そのくらいしんどいところに、足を踏み入れている。