善良な人びとの傲慢

春の時期になると、年度の後半から始まる2年生のゼミのために、ゼミ生の受け入れプロセスが始まる。勤め先の学部では専任教員の数が多いこともあるのか、伝統的に「学生と教員の双方の意思でマッチングする」という珍しい制度をとっていて、しかもゼミ(および卒論)が必修単位になっているので、卒業したければ絶対にどこかのゼミに所属しなければならない。この仕組みには良いところも悪いところもあると思うけれど、少なくとも一部の教員と学生にとってゼミ選択が、就職活動のようなものになってしまう理由のひとつであるのは間違いない。

何を隠そう、まさに自分のゼミの受け入れプロセスも、そう思われている可能性が高い。説明会でも「ゼミを選ぶのは学生、ゼミは選ばれる側」といったことを強調してはいるものの、長年お世話になっている外部企業との連携など、相応の責任を求められる取り組みも多いので、お互いに「不幸な出会い」を避けるためにも、課題やグループ面接を課す、他所に比べて手間のかかるステップを踏んでもらっている。その結果、「あのゼミは、意識と意欲の高い人が志望するところ」という見られ方をすることもあるようだ。

マッチングというのは、残酷なものだと思う。「絶対にここがいい」と思ったからといって、相手に受け容れてもらえるとは限らないし、そういう僕だって「選ぶ側ではない」なんて口では言うけれど、結局のところ、なんらかの基準で学生たちを選別している。そういうときに決まって僕らは言う――「別にその人が悪かったわけじゃないんだけど」。

辻村深月『傲慢と善良』は、まさに「人との出会い」すなわち婚活という男女のマッチングを巡って飛び交う、人びとの「善良さ」と、その背後に潜む「傲慢さ」を題材にした作品だ。作品の冒頭、主人公・西澤架の婚約者である坂庭真実が失踪する。ストーカーに追われ、彼女を匿うべく同居を始め、そのまま結婚へと踏み切ろうとしていた矢先の出来事だった。真実の行方を追う架は、彼女の実家を訪ね、家族や友人、そして婚活で知り合った男性たちに彼女の話を聞く過程で、大きな混乱の中に突き落とされることになる。架自身、マッチングサービスを通じて真実と知り合ったのだが、それゆえに、彼女のそれまでの人生や、彼女が抱えていた苦しさや闇に、まったく気づけていなかったことを知るのである。

作品の前半は、架と知り合う以前の真実が、どういう環境で、どういう人生を歩んでいたのか、なぜ彼女が失踪するに至ったのかについて明らかにされていく、いわば「捜査」のパートだ。後半では、架と真実の関係の変化について描かれるし、ストーリー的にも、そして作品のプロモーション的にもこの「解決」を軸に「『恋愛』小説」としてアピールしたいのだということは分かるけれど、『傲慢と善良』というタイトルの軸になる、人びとの傲慢さと善良さがこれでもかというくらいに明らかにされるのは前半部分。この段階で、読者は登場人物の言動に架と同様の気持ち悪さ、居心地の悪さを感じるだろうし、僕も正直、読み進めるのが苦しかった。

本当であれば、この前半部分について触れるのもネタバレということになるのだろうけれど、できる限りストーリーの核心に触れない形で解説してみよう。本作においては、架の周囲に何人もの「善良な人」と「傲慢な人」が出てくる。その中には、善良なだけの人も、ただただ傲慢な人もいるけれど、もっとも重点的に描かれるのが「善良であり、かつ傲慢である」ような人びとだ。

たとえば真実の母親。彼女は最近のネットであれば「毒親」と書かれてしまうような、典型的な干渉・束縛型、依存型の人間である。真実に対しても、就職先の世話をしたこと、それが地元の「きちんとした」筋からの紹介であったことを強調し、婚活についても相手の格や出身を気にする。架はそうした発言に触れるたび、その傲慢さに引いてしまうのだけれど、こうした人びとが皆そうであるように、彼女も言うのだ。それは、真実のためなのだと。

そして真実じしんも、似たような問題を抱えている。真実の母親がそこまで過干渉になったのは、真実が自分の意思を主張せず、親の望むような生き方をしてきたからなのだと、彼女は考えている。実際、真実の姉が親に対して自分の意志を持って家を出たのに対して、真実はそこまでの意思を持たずに、流されるようにして生きてきた。だから母は、自分のことがいつまでも心配で、ずっと自分のコントロール下にないと不安になり、あらゆることに口出ししようとするのだと。

そう考えると真実が被害者のように見えてくるが、そうではない。真実もまた、別の傲慢さを抱えている。婚活で知り合った相手に対して「ピンとこない」という理由で断る彼女の中には、明確な意志はなくとも、「このくらいの人でないと自分とは釣り合わない」という強い自己愛とプライドが潜んでいる。自分から何かを求めることはないけれど、むしろそうであればこそ、自分のことを全面的に受け容れる相手でなければ、自分からも相手に気持ちを向けるに値しないのだという傲慢な値踏みの姿勢を、真実もまた持っている。

自分は相手のためになることをしているとか、高望みをせずに謙虚に生きているといった自己認識が、その人の中では「善良」であるために、どれほど傲慢であるかに気づけない。こうした残酷な事実を突きつけられて、読者も心がざわつくだろう。架は作中で何度も「自分にもそういうところがなかっただろうか」と自問するのだけれど、それはそのまま、読者の心の声でもある。だってあの人がこうだから、周りがこう言うから、私が選んだわけじゃないのに、私が責められたり不幸になったりするはずがない、そんなの理不尽だ、という思いを抱えながら人と接した経験が、誰にだってあるはずだ。

本作の残酷なところは、そうした誰しもが目を背けている傲慢さを突きつけるところだけでない。架も真実も、そうした善良さに隠した傲慢さを抱いた人物なのだが、30代にして結婚を焦り、苦しんでいる。そして作中に登場する、いわゆる「まっとうに結婚した人たち」と自身を比較して、何が違うのだろうと悩んでいる。

僕の読むところ、結局こうした「まっとう」な人たちは、ただ善良であるか、逆にひたすら傲慢であるかのどちらかだ。善良な人は、自分にはもっとふさわしい人がいるのではないかと相手を値踏みしたり、逆に謙虚に、自分の言いたいことやしたいことを我慢しているのだから、自分はもっと尊重されるべきなのだという態度で相手をコントロールしたりしようとしないで、それぞれに「それなり」の幸福の中に納まっていく。それは確かにそうだろうなと思う。他方で読んでいて辛いのは、傲慢な人たちだ。傲慢な人たちは、自分の幸せのために人を踏み台にしたり、他人の人生にあれやこれやと口出しして、他方で一切の責任を取らずに自分のことを優先したりすることに躊躇いがない。言い換えると、自分のことを幸せにできるのは自分だけだという開き直りがあるから、周囲に対して、自分は尊重されて当然とか、なぜ自分を幸せにしてくれないのかと責めるような態度を取らない。

傲慢であるか善良でなければ幸せになれないと言うなら、傲慢にも善良にもなれない僕たちは、どうすればいいのか。それは本作の後半の展開を読んでもらえたらと思うのだけれど、全体を読んでいて僕の頭に浮かんだのは、まさにゼミ選択――というか僕の視点で言えば「ゼミ生選考」――のことだ。僕が学生たちに対して望んでいることは、「やっぱりここを選ぶんじゃなかった」と後悔されないこと。転ゼミも許されず、単位を習得しなければ卒業もできない制度の中では、どうしても学生たちのほうで「我慢する」動機が強くなる。そうしたハラスメント的関係を避けるためには、学生を熱心に指導しないことが必要になるのだけど、それはそれで本末転倒だ。結果的に、ゼミ選択の段階で可能な限り情報をオープンにして、また学生たちがどういうことを望んでいるのかをリサーチして、ミスマッチを避けるための広報活動を行うことになる。

その過程で、いろんな学生に出会う。善良な学生は、どんなゼミであれ真面目に、まさに「置かれた場所で咲く」とばかりに淡々と取り組む。傲慢な学生は、大学が自分を育ててくれるといったことに期待せず、自分の好きなこと、したいことのために周囲を踏み台にして卒業していく。それに対して苦労していそうなのが、様々なことに真面目に取り組んでいるのだけれど、周囲の協力が得られず孤立するような学生だ。グループ作業の際に、他のメンバーが誰一人ミーティングに来ない中、一人で発表資料を作成したり、人の仕事を抱え込んだりしながら、どこかで、そんな自分の苦労が報われること、褒められることを求めているような学生。一定数いるこうした学生たちは、どういう動機で、どんなゼミを選ぶのだろうと、いつも気になっている。

おそらくそういう人たちに言えることがあるとすれば、自分の学生生活を楽しくするのは、自分がどれほど努力したかとか、人のために貢献したかとかではなく、自分で自分を楽しませる選択をしたかどうかでしかない、ということだろう。それは何も傲慢な人たちの真似をしろということではなく、自分にとって重要だから、自分にとって必要だからという理由でなしたことであれば、損な役回りを引き受けたことであろうとも有意義であるはずだし、それを犠牲にしてでも善良であろうとしたところで、同情くらいはされるとしても、褒められたり、受け容れられたりする理由にはならないということだ。

人生の選択において自身の幸福を求めるということは、善良さと傲慢さの間で、それでも幸福であろうとする自分を認めることであり、幸福に対する意思を持つことなのだと思う。そして僕たちが生きている社会には、そうできない人がたくさんいる。こうした個人の人生に関わる問いを扱えるのは、やはり文芸の分野なのだなと強く思ったのだった。