消費社会と親密性

雑記

ものごとを固定的に捉えるのではなく、流動的で、変化するものと捉えるのが社会学の特徴だと思うけれど、その中でもジンメルの考え方はとても独特だ。「橋と扉」といったモチーフに見られるように、区別されたものが同時につながるとか、つながっているのに一緒にはなれないとか、そういう曖昧な関係性が、彼の描く社会観の根底にはある。

またその間をつなぐものに、貨幣に代表されるような匿名性の高いものが多いのもユニークな点だ。互いが互いと関係していることを示すものが、親密性のような愛のコードではなく、市場、消費、貨幣といった市民社会のコードであるのは、後のハーバーマスの議論を大きく先取りしている。ヘーゲルからマルクスを経て近代市民社会論の多くが、資本主義による関係性を近代の必要悪とみなし、資本主義から独立した市民倫理を打ち立てようとするのに対して、や、人ってそもそも資本制の中で関わり合うしかないでしょ、というジンメルの態度は、ある意味で社会学の楽観性のひとつのテンプレになっているし、日本の社会学者でも、テレビに出てるような人がとりがちな態度のルーツだよなあとも思う。

ここのところ考えている大きなテーマの中には、たとえば「消費社会における宗教的な儀礼」や「エンターテイメントと関わりの規模の問題」といったものがあるのだけど、その中でも割と気になっているのが「親密性と消費社会」だ。僕たちは誰かと親密になろうとするとき、貨幣や商品をなかだちにした匿名的な、つまり誰であっても同じように接することが求められる関係性を超えた「えこひいき」を互いに求める。これはあなただけ、こういうことをするのはあなたにだけ、という、「他の人にはしないこと」をもって、親密性の証を得ようとする。

しかしながらそうしたことのほとんどは、商品経済によって賄われるという現実がある。デートするのはあなたとだけ、でも、行く場所はお金を払って入場するエンタメ施設であるという場合、別にあなたとでなくても同じことはできますよね、という話になる。プレゼントもしかり。お店で売られているようなものしか相手にあげることができないからこそ、僕たちはそこに呪術的な意味を込めた贈与の儀礼を差し挟む(サプライズのプレゼントなど)のだけれど、モノとしてのそれは結局、大量生産されたモノの一部でしかないので、「わたしだけ・あなただけ」という意味を持ち続けるのは難しい。まして世の中はモノから情報へ変化する時代なわけで、「デジタルのバースデーカード」が、紙と同じように大事にされるのかどうか、心もとないところもある。

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このように「誰でも買えるもの」を媒介にして「他の誰かとは違う関係である」ことを示そうとする消費社会の親密性は、常に根本的なジレンマにさらされていることになる。それは社会学の言葉でいうと「偶有性」の感覚、つまり「自分でない他の人であってもよかったのではないか?」という不安の問題なのだ。親密圏、つまり核家族という領域が必要とされたのは、自分のことをよく知るムラ社会の関係から解き放たれた人々が、その茫漠とした関係から生じる不安、つまりこの世界には私を私として必要とする人は存在せず、私は社会におけるただの機能としてしか求められていないのではないか、という不安から逃れるためだ。「私たちにしかわからない」という関係性が、親密性の根拠だったのである。

消費社会を前提とした親密性がもたらすジレンマは、別にいまにはじまったものではないと思う。「私のどこが好き?」「綺麗なところ」「綺麗でありさえすれば他の人でもよかったの?」という問いかけは昔からあったろうし、それが「わたしは、あなたの年収の高さが大好き」というあからさまな言い方で表現されなかっただけで、産業社会でだって消費にもとづく親密性の不安定さは意識されていたはずだ。

ただ、産業化を推し進めるということは、基本的に流動性を高める、つまり「まだ使えるものを捨ててよりよいものに乗り換える」ことなのだから、人間関係ですら「よりよい関係に乗り換える」ことが合理的になる。ひとつの会社に勤め続けるよりも、よりよい条件の会社に転職することが「よいこと」だとみなされるならば、一人ないし少数の人と継続的に親密でありつづけるよりも、より親密になれる可能性のある人と出会えるように、別れるときに面倒にならない距離感で態度を保留し続ける方が合理的であると考えるのもまた、おかしなことではないはずだ。

私たちは「いつか壊れたり捨てたり売り払ったりする」ことを前提に商品を選ぶことが多い。少なくとも「一生涯所有し続ける」という意思を持って商品を購入することのほうが少ない。ではそうした商品を媒介に築かれる親密な関係は、いつか別れたり取り替えたりすることを前提に深められるようになるのだろうか? それとも、そうした「入れ替え可能性」の不安から、様々な形で互いが入れ替え不可能な、かけがえのない存在であることを示す行動様式が発生するのだろうか? 実際はどちらも起きていると思うけれど、その背後にある「流動化する社会における商品経済を前提にした親密性の不安定さ」というモチーフは、割と興味深いものになるんじゃないかと思っている。

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