曖昧な愛のはなし

川上弘美『某』読了。読み始めたのは去年の暮れだけど、なにせいろんな事があったもので。

死ぬことは、今も怖い。 恋してからは、ますます怖くなっている。 名前も記憶もお金も持たない某(ぼう)は、 丹羽ハルカ(16歳)に擬態することに決めた。 変遷し続ける〈誰でもない者〉はついに仲間に出会う――。 愛と未来をめぐる、破格の最新長編。 ある日突然この世に現れた某(ぼう)。 人間...

複雑な小説だなと思う。特に後半は話の風呂敷を広げすぎていて、物語の構成上仕方のないことではあるけれど、ころころと変わる主語や文体についていくのが大変だった。

内容としては、アイデンティティと愛の話になるのだと思う。

僕たちの多くは、主体的に人を好きになったりしない。あ、なんか居心地がいいなとか、気づいたら一緒になる機会が多いとか、あとは単純な性的関心であれ、要するに誰かとの関係の中においてそういう感情を自覚する。その正体はよくわからないもので、自分のうちに鉛のようにずしんと眠っていることもあるし、形式上は恋人どうしだけれども、ほんとうの自分の気持ちはよくわからない、なんてこともある。

まして、現代は人との関係が流動的だ。誰と話しているかで感じることも変わるし、それらが矛盾を抱えていたとしても、目を背けて生きていけるだけの刺激に満ちている。この小説に出てくる登場人物たちのように、何者にでも変化できるし、そこで得たものを失うことに対しても躊躇がない。

というより「これでないと嫌だ」「これがなくなったら痛い」と思うこと、そういう気持ちを他者に対して抱くことを、自然と避けているのじゃないかと思う。そして、それに特に不都合を感じないというか。

僕自身は古いタイプの人間だから、それってどうなのかなあとも思うし、いやいやそもそも人間がよりどころを感じられる相手なんて一生に何人もいないのだから、僕たちのかかわるすべての人との関係が仲良しごっこであったとしても、それはそれで別にいいじゃないかとも思う。そういう器用さは持ち合わせていないのだけれど、そこまで他人に熱くなれるほど若くもないし。

というような、なんともまとまりのない感情を掻き立てられる小説だった。通俗的ではないし、いまの自分に必要なものだったかと言われると違うけれど、文芸に触れる体験としては、悪いものをもらった気はしない。