速度が問題なのだ――技術と民主主義の未来

刺激的、というよりは既視感のある対談だった。ユヴァル・ノア・ハラリとオードリー・タンの対談のことだ。対談の概要は冒頭に湯川鶴章さんがまとめてくれたもので把握できるが、僕らがかつて技術と社会思想の間で考えていたことの変奏であり、また21世紀に論じられてきた問題の最先端の知見が披露されていることがよく分かる。たとえば両者ともに、ローレンス・レッシグの『コード』を前提に話しているが、レッシグの名前はまったく出てこない。いま技術と社会の話をする上での基礎教養の水準がどの程度であるのかも、対談の見どころのひとつだ。

僕の見るところ、この対談でもっとも重要な論点となるのは、「技術は人の意思決定をコントロールするものになるのか、エンパワーするものになるのか」というものだ。ハラリは自らを、技術に対してデータを提供し、技術に「使われる」側に立ち、個人の意思決定のみならず、自己理解、そして民主的な決定までもが左右されるようになるという危険性を指摘している。これに対して技術を「使う」側であるタンは、技術は人間によって制御可能であり、技術と人間の相互フィードバックのスピードを加速させることで、人間が一方的に技術に制御されることを抑制できると考える。おそらくこの対立はプロレス的なもので、特にハラリにとっては、タンがこのように答えることも織り込み済みで、技術による人間疎外を危惧する立場をとったものと思われる。

ただこの対立には、技術を信頼するか否かという論点とは別に、民主的であること、政治が人民の幸福を拡大することに関するイメージの問題があるように思う。第二次世界大戦後の自由主義国家が、おおむね個人の自由の拡大と福祉による生活保障を両立させてきたのに対して、高度な技術によって駆動される21世紀の国家は、多様性と自由を拡大しつつ、政治的コミュニティをどのように統合するかという課題に直面している。この記事では、二人の対談の中で僕が注目したポイントに絞ってコメントしながら、この問題について論じてみたい。

1. 技術と人間が競走する

対談において、タンは一貫して技術の可能性に楽観的だ。というよりも、技術を「使う」というケイパビリティをもつタンにとって、それはごく自然な判断だと思う。ただ問題は、誰もがその技術の恩恵に浴することができるわけではないということだ。ごく一部の技術者が「コード」の設計を独占し、大多数がそれに従うという仕組みのもとでは、人々は自分がどのようなデータを利用され、どのような「アルゴリズム」で自己理解や社会への関与を促されているのかを理解することができない。ハラリが表明する懸念とは、そのようなものだ。

既に十数年前から指摘され続けているこのような懸念に対して、タンは正面から解決策を示していない。というか技術の側の人は、解決できていないことを可能性で語らないので、それは当然だろう。それでも食い下がるハラリに対してタンが示したのは、民主的な参加のフレームワークを用意して、そこに高速なフィードバックを行うことだ。つまり、情報の透明性を高め、参加しようと思えばできる状態を確保し、人間の行動と、それをもとにしたアウトプットの相互フィードバックを高速回転させることで、技術(者)の独裁を抑制するという方式だ。

これには実際に台湾における「ピンクのマスク」の例があり、タンにとっては解決の糸口とみなされるものだ。もちろんこれをデジタル民主主義社会における新手のプロパガンダだとみなす社会心理学的な立場もあると思う。ピンクのマスクの代わりに「対テロ戦争支援募金」を入れることに対して、技術は価値判断をしない。タンの示す解決策は、あくまで「技術的にできること」の範囲の話であり、それを人間がどのような目的で利用するかという点については、常に線を引いているように見える。もちろんその上で、タンは自分自身の理想とする社会構築に向けてそれが利用できると主張するのだが。

もうひとつ指摘しておくとすれば、技術がアウトプットを出す速度が上がれば上がるほど、それに対する人間の「即レス」も要求されるようになるという点は注目に値する。「高速回転」が技術的に可能だとしても、実際にそれを回せば、行動経済学におけるプロスペクト理論のように、目の前の損失を回避する傾向がより強まると想定される。技術にできるのは、その傾向を補正するために、短期的な判断と中長期的な判断で、提供される内容を変えるということだろうが、そもそもその心理的傾向を補正されるべき「バイアス」とみなすかどうかすら、制度設計者のイニシアチブになるのではないかと思う。

高速回転する情報のフィードバックに、どれだけ人間がついていけるか。その「技術と人間の競走」が、本対談から導かれる、新しい検討課題だといえる。

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2. 意思決定を行う集団の最適サイズ

もうひとつ、制度設計者としての技術者という面から、この「フィードバック」について論じられることがある。それは、「ほかならぬ技術者だけが、多くの人々のフィードバックをコードの設計に反映させなければならない」ことの問題だ。技術(者)独裁のようなディストピア的世界観は、当の技術者にとっては大いに不満だろう。むしろ「あれも、これも」という要求に対して、「そんなに言うなら自分でコードを書け」と言いたくなるのをぐっと堪えて、コードの設計に勤しむ技術者からすれば、独裁者はむしろ、無数の要求を上げてくる人民の方だということになる。

ここは、日本で度々この文脈で引用される『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』におけるクゼ・ヒデオのケースを思い起こすべきところだろう。出島に残された300万人の難民とハブ電脳を介してコミュニケーションし、その指導者として出島の独立を目指したクゼの行動は、タンの指摘する高速フィードバックに非常に近い。おそらくクゼは人々の要求に対して(電脳を介しているとしても)そのパーソナリティ的な魅力と真摯な姿勢で対話を続けたのだと思っているが、そこまでいかなくても「ピンクのマスク」のケースに見られるように、誰かが声を上げたら即座に制度に反映されるというフィードバックの速度は、まさにクゼを見ているかのようだ。

しかしながらここで問題になるのは、その意思決定と、影響を受ける集団のサイズだ。上に挙げたケースは、クゼ・ヒデオ的でもあるが、実際の例としては、クレームに対して独断で代替品を用意して送り返したスティーブ・ジョブズの方が近いかもしれない。意思決定の速度と、民主的な合意は多くの場合矛盾する。そしてロジャースのイノベーター理論に従うなら、イノベーティブなアイディアをすぐに採用できるのは全体のごく一部であり、フィードバックが高速化するほど、そしてそれに対する意思決定が即時化するほど、「ついていけない」者の数も増える。すなわち、高速フィードバックを行う上では、民主的な合意プロセスはスキップされる方が望ましい。

まさに「熟議」を基本に、域内の市民の合意、そして足並みをそろえた行動を要求するEUが、その範囲の拡大とともに合意形成に苦しむようになり、崩壊の危機に直面しているという事実を前にすると、この問題はより深刻に見えてくる。技術とフィードバックを用いたデジタル民主主義による幸福の増大は、数億、数十億人というレベルでの合意形成のために設計されてきた近代の代表制性民主主義とは根本的にイメージの異なる社会を目指している。タンのビジョンを追求するのであれば、社会はより細分化された単位でフィードバックを回転させるものに再編成される必要があるが、そのような分権を可能にする動きがグローバルに生じる見込みは、いまのところない。

3. 不可視の存在を可視化する

さらにこのことは、タンの強調する「多様性」の問題とも関わる。合意ではなくフィードバックを通じて漸進的に社会の幸福の増大を目指すデジタル民主主義のモデルにおいては、そのループに参加できる(または巻き込まれる)限りにおいて、多様な価値観、存在様式を受け入れることが目指されている。だが、そのループに参加できない場合は?

いま日本の大学の多くは、オンラインでの講義を進めている。といっても、デジタル資料や音声をクラウドストレージに置いて学生に自主的に受講させるものから、zoomを用いたリアルタイムのビデオ演習まで形式は様々だ。だがどんな形式であれ問題になるのは、そもそもオンラインとかデジタルといったレベルで躓く学生だ。文字入力が遅いとか、パソコンが苦手といった理由で、ワードに文章を入力して提出すべき課題を、手書き用紙を撮影した画像で提出する学生は、一定数存在する。そもそも高速回線をもっていなければ、リアルタイムのビデオ講義を受講することもできないし、教員がメールアドレスを公開していても、何をメールで質問すればいいか分からないという事態も想定される。

技術的には、そうした人々にデバイスを提供し、チュートリアルを行ってフィードバックループに参加してもらうほかないのだと思う。ただ僕がここで強調しておきたいのは、そうした人々は、フィードバックが可視化されているほど、そもそも不可視の存在として無視される傾向にあるということだ。大学という領域を離れれば、このような「デジタルコミュニケーション社会における不可視の存在」は無数に存在している。こうした人々の支援に回るのは相変わらず人なのであり、また、多様なニーズをフィードバックする際に、そうした人々の手が必要な場合も多いはずだ。

民主主義の発展の歴史を紐解けば、それは「民主主義に参加する権利の拡大」の歴史であったといえる。古代ギリシアの政治男性に限定されていた時代が長く続き、近代化とともにそれがジェンダーや人種によらない参加へと拡大し、現在までに、生まれ持った属性によって不利益を被らないこと、状況に応じた配慮がなされること、そして人間の都合によって様々な生き物や環境が犠牲にならないことへと、民主主義の意味は拡張し続けている。「権利が保障されていること」と「実際に権利を行使できること」の間をいかにして埋めるかという民主主義の課題に、デジタル民主主義のモデルがどのように応答するのかは、今後も大きな課題になるだろう。

4. 技術と統合と多様性

ここまで、どちらかというとタンの主張に批判的な立場で書いてきたが、それも含めて僕には、一連の議論に既視感を拭えない。民主主義的参加をめぐる技術者と社会思想家のすれ違いはずっと以前から続いており、僕自身、様々な対談の場でハラリのようなスタンスから技術者に質問を投げかけて、困惑させたりはぐらかされたりした経験が何度もある。ついでに言えば僕も自分でコードを書き、必要なことは自分で解決策を作り出すことを実践するタイプだから、タンのようにしか答えられないだろうとも思う。それでも、そのすれ違いも含めて民主的討議だと思うので、対話は続けたほうがいいのだけれど。

今回の対談で、21世紀に入ってから何度も繰り返されてきた「技術(者)によるデジタル独裁」と「技術を用いた参加が実現するデジタル民主主義」という対立軸は、ややアップデートされたように感じる。いまは、技術による独裁も参加も、可能性の話ではなく、実際の運用として実装できるものになっている。そのうえで僕たちは、どのような社会を選ぶのか、判断しなければならない。

判断基準になるのは「独裁と参加」の対立軸だけではない。「統合と多様性」のバランスについても、僕たちは考える必要がある。また、どの程度まで民主主義を技術によってエンパワーするかという問題もある。

EUの場合、「統合と多様性」は、どちらも捨てがたい要素だ。それを可能にするためにEUでは、権威的な統治体制を敷き、その体制の範囲内で多様性への配慮を広げている(中の人の言い分はあるだろうが)。そして、その体制と多様性を維持するために、技術の可能性に背を向けるという選択を取ろうとしているように見える。

中国の場合、あくまで優先されるべきは統合であって、それは他の何者にも代えがたい。それゆえ技術は、国家の統合のための監視や管理に用いられる傾向が強くなるが、一方で以前の記事でも指摘したように、統合の範囲内で人々の幸福を増大する(あるいは、増大している気にさせる)という点で、多様性のない幸福を目指す社会でもある。

アメリカがこのパースペクティブにおいてどのような位置になるのかは微妙だが、少なくとも統合よりは多様性を重視し、技術を統合のためにではなく多様な幸福の増大に用いる一方で、それらの利害対立の調整には手間取る(場合によっては放棄する)ということになるのではないかと思う。

日本はそもそもデジタル化という点では最先端の国ではないので、技術による統合という選択肢が検討されることはしばらくないだろう。それも含めてこの議論、かつては日本においても非常にレベルの高いやりとりがなされていたのだが、その中心は既に日本以外の地域に移ってしまったのだと思う。寂しくもあるが、言語や地域、政治体制の壁を超えて問題が共有されることは、人類の民主的発展にとって望ましいことだと言えるだろう。