続・社会学は何をしているのか

雑記

以前のエントリで触れたように、社会学という学問は往々にして誤解にさらされるものだ、と、当の社会学者自身が思っている。社会学が他の学問より誤解を受けているという証拠はないけれど、少なくとも研究対象になるものが、専門家以外でも触れることのできる、多くの人が経験したことのある出来事だからこそ「社会学者の見方は間違っている」と非難されることが多くなるのは確かだろう。その非難は、学術を専門としない当事者だけでなく、同じ対象を扱っている他分野の研究者からなされることもある。

たとえば昨年開催された日本社会学会におけるシンポジウム「社会学への冷笑と羨望――隣接分野からのまなざし」は、そのような他分野からの視点を学会的に取り入れようという意欲的な試みで、僕自身は参加しなかったのだけれど、とても刺激的なやりとりがあったようだ。学会員向けのニュースレターによると、環境経済学の専門家から指摘されたのは、環境問題の制度改善を目標とする限り、社会学者の見せる「当事者の語り」へのこだわりは異様なのではないか、ということらしい。

このあたりについてはあとでも指摘するけれど、確かに「社会問題」を扱うのに「少数の事例の過度な一般化」が戒められるべきなのは言うまでもない(このことは、20世紀を代表するアメリカの社会学者、R.K.マートンも述べていることだ)。ただ、「制度改善」がなされれば、当事者の複雑な思いは無視していいのかというと、そういうわけでもないはずだ。

ともあれ、このような形で社会学は「弱点を晒して受けに回る」ことの多い学問なのだけれど、対外的にそればかりやっていても「学問自体の存在意義」は明瞭にならない。社会学の問い方やディシプリンについては以前のエントリで示したとおりなので、今回は、「どんな研究で、どんなことを扱っているのか」という話をしてみたい。

個人の思いを超えてデータを見る

最初に取り上げるのは、筒井淳也『仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』(中公新書、2015年)だ。理論研究と計量社会学の両方に優れた業績を持つ著者は、本書の冒頭で「知っているだけでは何も見えてこない」ということを指摘している。仕事について私たちは多くのことを知っているように思っているが、それにこだわってしまうと、自分の知らない視点、例えば雇用の歴史や他国と比較した場合の評価が見えてこない。問題の全体像を、個人の視点を離れて把握することが大事だというのだ。

そうした考え方に基づき、本書では、日本の雇用や家族形態がどのように変化してきたのかということを歴史的に明らかにしたり、出生率の国際比較を通じて「どのような政策を取るべきか」を提言している。たとえば女性の就業率は1970年代以降、一貫して上昇してきたものの、女性が男性と同じような働き方をする社会にはなっていない。筒井さんは女性の就業率の増加が、たとえば経済不況によって引き起こされたものであって、「両立しやすくなったから」ではないということを、データから明らかにする。また育児負担についても、同じだけ長時間労働をしている夫婦であっても妻のほうがより長時間の家事を行っているというデータから、育児負担の不均等の原因は長時間労働ではなく、夫婦の分担意識や夫の側のスキル不足にあるという指摘を行っている。

もうひとつ、同じく理論研究と計量社会学が専門の数土直紀『信頼にいたらない世界 権威主義から公正へ』(勁草書房、2013年)を挙げておきたい。この本は冒頭の問題設定が非常にユニークなので、学部1年生の入門科目でも紹介することになっている。数土さんは言う。私たちの生きる社会は自由な社会だから、結婚相手も、就職先も、自由に選べることになっている。けれど、その自由がいや増すほど、非婚者が増えたり、就職難になったりするのはなぜだろう、と。そしてそれは、「自分が選べる」ということは「相手も選べる」ということ、つまり「相手に選ばれないかもしれない」可能性も増大するということなのだ、という指摘をしている。

数土さんの関心は、そういう自由の増大した社会で人々が共生するためにはどうすればいいか、という点にあるのだけれど、そのことを論じるのに、政治哲学者がやりがちな、理念的、思弁的に「あるべき社会」について考える前に、調査データを用いて社会階層と社会意識の有り様を数理的に分析するところに大きな特徴がある。どのような社会であるべきかというイメージは、その人がどのような社会階層に属していると感じているかによって変わる。意識の異なる人々の間を結びつけようとすれば、そのような意識(専門的には階層帰属意識という)を実証的に明らかにする必要があるということだ。

いずれの研究も、社会をデータによって大局的に見ているから、個々の主観に引きずられることを抑制しつつ「社会全体としてはどうなのか」を論じようとする。裏から見れば「うちは夫婦共働きながら平等に家事分担してますけど?」とか「結婚できないのが悪って決めつけるな!」といった「感想」を呼び起こす可能性もある。特に後者については難しくて、データ上「非婚者が増えている」としても、その中には「結婚したくてもできなかった」人だけでなく「最初から結婚の意志がなかった人」「同性をパートナーとする人」「自己評価が低くて結婚を諦めてしまった人」など、様々なケースが存在する。それを全部「非婚者」とひとまとめにするのは、あまりに乱暴だろうというわけだ。

個人から見えているものを掬い出す

社会学の中でも、こうした「データをもとに政策を考えて上から押し付ける」ことに対する批判は根強い。典型的なのが冒頭にも挙げた環境問題だろう。社会全体とか、地域の経済といった大きな視点から判断されることがどうあれ、その場に住んでいる人にとっては「そんなことより大事なものがある」。たとえばこの家は、先祖代々受け継いできたものなのだとか、もっと個人にフォーカスすれば、この庭の木は、自分が小さい頃によく遊んだ思い出の木なのだとか。それがダムに沈んでしまうのは忍びない、なんていうひとつひとつの思いに対して「や、でもデータ上はこっちが合理的なんで、そういう個人の感想はよそでやってもらえますか」というのは、とりわけ社会問題を扱う上では不適切だというのだ。

だから、社会学はデータを通じて「鳥の目」で社会を俯瞰するだけでなく、「虫の目」で社会を這って調査もする。典型的なのが聞き取り調査だ。ただ、実際にフィールドで様々なことを聞き取りして痛感するのは「世の中、ひとつにまとめられない」ということだ。たとえばマンション建設問題ひとつとっても、地域の景観を重視する立場、新住民の流入を警戒したり、逆に歓迎したりする立場、行政上の手続きを問題視する立場など、様々な論点があり、また個人の中でもそれらは渾然一体として、はっきりと軸が定まっている人ばかりではないことが普通だ。「反対派○%」「賛成派×%」なんて二分法に落とし込めるほど人間の考えは単純ではないし、「建前上は周囲の目が気になるから反対してるけど、正直なところ儲かりさえすればなんでもいいんだよね」なんてエゴイズムは、よそ者が2、3日話を聞いたくらいでは引き出せるものではない。

それゆえ社会学者がフィールドに入って聞き取りをする際には、1回限りではなく継続的に、場合によってはフィールドの人々と生活をともにしながら彼らのことを記録する、参与観察の手法が取られることもある。参与観察は文化人類学や民俗学などでも用いられる手法だが、異文化、異民族に参与するのではなく、同じ社会に住まう、しかしながら同じではない人々のところに入り込んで、その人々の考えていることや、取り巻く環境、影響を及ぼしている要因を明らかにするのが社会学の参与観察だ。

打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房、2019年)は、沖縄の暴走族の若者を10年にわたって追いかけた、近年では珍しいくらいに地を這った力作だ。当初は「暴走族のパシリ」として集団に入り込み、文字通りこき使われながら徐々に彼らとの関係を築き、そのリアリティに迫るような研究だったのだけれど、長い時間を経て、ヤンキーたち自身が成長し、あるものは地域を離れ、あるものは地域の経済構造の中で地位を得て、それなりに「落ち着いて」いく。その過程を追うことで結果的に、ヤンキーたちが生きている、ある意味で逃れられない社会構造(沖縄であること、その産業や政治的意味、彼らの階層)が見えてくる。もちろん上記のような理由もあって、その「構造」を、上から解釈して押し付けたりはしないのだけれど。

その点は、「上から押し付ける」社会学に対する非難とはまた別の非難を呼び起こす原因にもなる。「お前が個人的に見たものが全体から見てどの程度のものやっちゅうねん」ということだ。僕自身、そうした疑問を感じることは多いし、ジャーナルの査読や院生の指導の現場でもそういうことを指摘する。ただよく考えてみれば、それは研究手法がまずいのではなくて研究が面白くないということなので、そこは区別しておかなければいけないし、そもそも「虫の目」を否定する社会学は、その歴史から言ってもあり得ないのは間違いない。

鳥の目と虫の目を交錯させる

一般的には、データを扱う社会学よりも、個人の思いやフィールドの記録を扱う社会学のほうが知られることが多いし、学部生の分野選択でも人気が高い。なぜならば社会学の計量分析は、経済学のように高度な数学モデルを作るのではなく、本来であれば簡単に尺度化できないものを数量的に表現できるようにするための「質問・調査設計」こそにその肝があるからだ。つまり社会の姿や人々の思いを把握し、さらにそれを一般の人々が答えやすく、かつ実証的に表現可能な調査票に落とし込むマルチプレイヤーとしての能力が求められるので、誰にでも手を出せるものではない。

また、たとえフィールドに赴き、そこで人々の複雑かつ多様な立場や語りを得ることができたとしても、それをそのまま提示するだけでは、もはや「研究」にはならないだろうとも思う。個人の情報発信能力は技術革新とともに高まっており、これまでなら誰かが聞き取らなければ引き出されなかった思いが、社会学者の媒介を経ずにブログやソーシャルメディアに直接溢れ出すようになっている。これは異論のあるところかもしれないけれど、これからはむしろ「他者が訊いてくれたからこそ語られたこと」のほうにフォーカスすることが求められるのかもしれない。あるいは、さらに一歩引いて「語られたこと」をソースとした研究(会話分析や概念分析といった手法がある)の高度化が必要なのかもしれない。

総じて言うなら、「鳥の目」「虫の目」を自在に操り、どちらの視点からも社会に触れることのできるような研究が、より評価されるべきなのだろう。ただそれは個人の手に余るもので、例えば「両刀遣い」の代表選手である見田宗介さんのようなレジェンド級の人が現在いたとしても、それぞれに高度化した研究手法を一人で担うのは無理だ。だとすれば、鳥の目の人は虫の目の研究を、虫の目の人は鳥の目の研究を理解し、自分の研究の中に取り込んでいかなければいけない。たとえば、浅野智彦さんが中心となって進められている若者研究では、個々の語り数量調査の分析がともに扱われている。

研究者にできるのは「研究」の評価だ。学問というのはディシプリンの妥当性でその価値を問われるものであって、研究者の肩書が学問であるか否かを決めるのではない。まして、個々の断片的な発言を取り上げて、「このような人間の行う研究はきっと学問とは呼べないはずだ」とか「こういう人間がいる分野は総じて学問的妥当性がないに違いない」という判断はできない。ただし、既に述べたとおり社会学は、それを専門としない人たちとも対象を共有している以上、「素人の判断は学術的価値とは無関係」と突っぱねるわけにもいかない。メディア露出の多い師匠筋に囲まれ、自分自身もそのような道を歩んでいる僕がこれ以上何を言っても「おまいう」だとは思うので、あとのことはもっと良心的な人が引き取ってもらえたら。

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