下り坂の世界のケア

雑記
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ケアについての議論が流行している、と思う。背景にあるのは、フィジカルなものであれ、メンタルなものであれ、ケアの必要性を感じている人が増えていること、さらにその奥の、この社会全体が「衰退のプロセス」にあることだろう。沈みゆく船で「マイナス幅を減らすだけの仕事」を頑張れる人は、そんなにいない。

問題は、ケアする側とされる側の不釣り合いな関係だ。ケアされたい人の数に比して、ケアしたい人の数は少ない。しかもケアのようなサービス労働は、機械化などによって生産性を高めることが難しい。ひとりの話を聞くのに面談で1時間かかっていたものがオンライン面談に切り替えて10分ずつ6人と面談できるようになって効率がよくなったと言われても、ケアの質が上がったとは言いきれないだろう。

ケアが必要な人は増えていくのに、それを担う人は増えない。その解決策のひとつとして注目されているのが「ケアしあう」関係だという。たとえば男性はこれまで女性にケアを押し付けてきたが、これからは中高年の男性どうしでケアしあうようにならなければいけない、など。こうした「マスト」で語られる話にどれほどの魅力を感じる人がいるのか、僕には分からないけど。

今年の自分のテーマのひとつとして「鼓舞激励」というキーワードを掲げている。要するに「前に進んでいる」「上がっている」という感覚、ガッサン・ハージの言葉を借りれば「存在論的移動」の感覚のことだ。そういう感覚を持てるようになれば、お互いに「あと少しだけ頑張ろう」と言い合うことができる。激励はケアとは違う。もちろん抑圧でもない。単に集団の存在論的移動の宛先を示す役割だ。

そう思うと、トップアスリートや野球の監督が「鼓舞激励」に長けているのは当たり前だという気がする。トップということはつまり「ミスしたら下がるしかない」環境なので、放っておくと心理的安全性はどこまでも低くなる。そこで「上がっている」と思わせる力が、ケア以前に求められているのだと思う。

ドラマを見ていたら「こういうとき、『大丈夫ですか?』って聞くと、『大丈夫』って答えられるからよくないって見ました。だから『どうかしましたか?』って聞くべきなんですよね」って話題が出てきた。その話をネットで見たときは気づかなかったけど、これって「どうしたん?いつでも話きくよ!のみいこ!」って女の子を誘う悪い男とよく似ている。

なんでそういう「話を聞いてくれそうな男」にほいほい引っかかるのかというと、落ちているときにはケアが必要だからだ。だから悪い男に引っかからないためには、ケアの前に「下がらない」ような環境を作らないといけない。

究極的にはそれは経済成長だ、という話になるのだけど、それじゃあまりに粒度が粗い。せめて自分の関わる集団で、自分にできる範囲の「上がる」状態を維持できるか。上げるリーダーとケアしあうチルな現場という関係を構築できるか。適切な解像度のマネジメントが、次に求められるものになるのだと思う。

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