音楽に政治を持ち込む

雑記

調べてみたら2014年以来8年ぶりだった、サマーソニック2022。普段は音源で「聴くだけ」の海外アーティストが多数来日ということもあって、これは行くしかないと意気込んで参戦。お目当てのステージを何度も行き来するハードなタイムテーブルだったけど、ものすごく満足できる内容だった。

この8年、またはコロナ前と比較して大きく変化したこととして、エンターテイメントと政治的なものの関係がある。アーティストたちはステージで、SNSで、自分たちの政治的なスタンスを表明するようになった。社会全体としても、価値観をめぐる議論が沸き起こることが多くなった。

今年のステージでは、リナ・サワヤマが自身の曲を紹介するMCでLGBTQの権利に言及。日本がG7の中で唯一、同性婚を認めていないこと、セクシャル・マイノリティをからかうようなジョークを言わないこと、自分たちと一緒に戦ってほしいということを訴えていた。続いて登場したマネスキンは、1970年代のグラム・ロック・バンドのような衣装が特徴的だけど、ベースのヴィクトリアは、胸元の開いた衣装にニップレスをつけて登場。ステージの後半ではそれも外してトップレスで演奏していた。そのこと自体、バンドとしての政治的なアティテュードの表現だという話は事前に記事で読んでいたものの(そもそも女性だけが人前でバストトップを出してはいけないという規範に対する反発は、海外のセレブによってインスタとかでたびたび主張されている)、演奏の凄まじいエネルギー、観客の熱狂もあって、ごく自然なものとして受け入れられていたように思う。

ノリきれない心情

が、僕の中でノリきれなかったところがあったのも事実だ。リナ・サワヤマの主張に対して連帯を示すためには、どういうリアクションをとればいいのか分からなかった(仕方がないのでピースサインを掲げた)し、「またこういうこと言ってSNSが揉めたりしないのかなあ」と不安になったのもあった。実際、前日に行われた東京のステージでは、King Gnuがヴィクトリアの衣装を揶揄したとかで物議を醸していたらしいとか、大阪のステージの前には両バンドでスネアの貸し借りがあったり集合写真がアップされていたりとか、それを巡ってファンの間でも議論になっていたとか、そういう話があったようだ。

ようだ、と歯切れの悪い言い方になるのは、あまり真剣にネットの話題を追わなかったからだ。人によっては、こういうエンタメ・イベントとSNSのトレンドを同時に見ながら、自分の見たステージが評判になっていることを確認するところまでを楽しむらしいのだけど、僕の場合、そうした声がどうしてもパフォーマンスそのものを楽しむためのノイズに感じられてしまう。アーティストの主張には強く賛同するけど、そうじゃない人がいる「かもしれない」、ネットで揉める「かもしれない」。できたらそういうことに触れずにエンタメを楽しみたい。だから、できるだけ周辺情報には触れずにいたいと思ってしまう。

それは誰のせいか

けれどあとになって、それはやっぱり間違っている、と思い直した。

自分はいいけど主張に賛同しない人がいるから、というのを、普通「賛同している」とは言わない。周りが思うことによって主張が揺らぐのなら、それは賛同しているのではなく、いまの世の中の風潮に合わせて「こういう話題には賛意を示すべきだ」と思っているだけでしかない。

いわゆる「音楽に政治を持ち込むな」という考え方の中には、政治的な主張が嫌なのではなく、それによって論争が起きることや、その結果、自分が「純粋に」楽しみたいと思っている気持ちに水を差されることへの嫌悪があるように思う。だからもしかすると、自分もアーティストの価値観に共感し、その場にいる誰もがそれに賛意を示していたら、その主張に政治的なものがあっても許せるのかもしれない。でもそれは、その人自身の考え方ではなく「みんな受け入れているから」「アーティストがそれを主張することを許す」という話でしかない。

図らずも今回、自分自身にもそういう気持ちがあることに気付かされたのだった。

数の問題じゃない

ポリコレについての議論が日本でも成熟しつつある。複数の企業の方や卒業生と接していると、かつてよりもコンプライアンスについての意識は強くなっているし、管理職向けの研修も増えている。だからだろうか、こうしたことが話題になるときにも、「いまどきこんな意識の低い行動は許されない」という話になりがちだ。

これが先ほどの、政治的な主張を許すか許さないかという話と鏡写しのものであることに注意しなくちゃいけない。「いまどきは」「みんな」「こういう風に考えるべきだ」、だから、「このような遅れた行動は許されない」のではない。それは多数派の中身が入れ替わっただけで、多様性やマイノリティの価値観を尊重する行動ではない。もちろん、「ポリコレ棒で人を殴る奴らこそ本当は少数派なのだ」といって「真の多数派」を気取るのだって同じだ。

いずれの立場にも共通するのは、自分がどう思うかではなく、支持者がいるかどうか、反対する人がいないかどうかが、主張の根拠になるということだ。だから主張の「正しさ」は、自分の信念の強さではなく、支持者の多さで決まることになる。

少しずつだけど、アーティストや人前に出る人たちの政治的な主張、価値観の表明が受け入れられるようになっているのだとすれば、そこには、「その人がそう思うこと」をそのまま認めようとする人が増えていることがあるのかもしれない。「いまの時代はこれが普通、価値観をアップデートできていない奴らは旧世代」といった形で時流に乗って誰かを叩くのではなく、「自分もそう思うかどうか」でものごとを判断することができるのなら、それはほんとうの意味で、この国の価値観が変わるということだろう。

価値観の先の政治

社会制度を変えるかどうかという話は、その先にある問題だ。なぜなら社会制度の中には、アメリカで話題になる銃規制や中絶のように、すべての人に一律の規制として適用されるものもあり、個人の価値観の違いをどうすり合わせるのか、難しいものもたくさんあるからだ。けれど、誰かがその人の価値観に基づいて行動を選択し、その結果が他の人に直接の影響を与えないものだってたくさんある。

もっとも難しいものとしては、表現のように、直接的に人の価値観を変えはしないかもしれないが、社会全体の「判断基準」を左右するとみなされるものがある。「人前で肌は出さないほうがいい」とか「政治的にセンシティブな話題について強い主張をしないほうがいい」というのは、人の行動に対する判断基準であり、ある人にとっては不快な行動でも、別の人にとっては、そのような基準が存在することそのものが不快であるような規範だ。

この「快・不快」をめぐる問題に対して社会的な合意を形成することの難しさは、近年になってますます意識されるようになっているし、それこそ社会の分断を招くひとつの要因だと考えられることもある。「音楽に政治を持ち込むな」という主張をする人の中にも、その分断を目の当たりにすることこそが苦しいのだという人もいるだろう。

ただ、だからこそ、「いまは〈こちら〉が当たり前なのだから」という理由ではなく、「まず〈私はこう思う〉から」という理由で行動が選択されるべきなのだというのが今回の気づきだった。分断の前に、自分に正直でいることすら認められないのは、少なくとも僕の理想の生き方ではない。

でも大したことはできない

偉そうなことを書いたけれど、実際、いまの自分にそこまでの強さはない。テレビでコメントをしたり、大学で責任ある業務を担ったりする際に、どのように思う人がいようと自分が正しいと思ったことだけを話す、なんてことができるとも思えないし、そもそも、支持する人と反発する人が二極化されるような極端な主張も(たぶん)持ち合わせていない。自分の価値観よりは、エビデンスやロジックで合理的に、誰もが納得することを話したほうがいいだろうとも思ってしまう。今回の件にしたって、コメントを求められても、ごにょごにょと誰もが納得するようなことを言ってお茶を濁すかもしれない。

けれど、アーティストたちの行動は、そんな僕の心を確実に変えた。ヴィクトリアがニップレスをとった瞬間、周囲の客はスマホを取り出して動画を撮影していたけれど、そのうち、そういう行動すらもバカバカしいものになっていった。自分の主張や価値観に合わない行動をとる人がいたとして、それがどうかしましたか、こだわっているあなたの方がおかしくないですか、あなたがどう思うかだけが大事じゃないですか、そう言われた気がした。

表現活動には、そういう力があるし、振り返れば10代の頃、海外のフェスの映像を衛星放送で見ながら、トップレスで肩車されている女性客とかいるのかすごいなあなんて思っていた時代から、なんならヒッピーの時代から、ロックには「自分がどう思うか」だけを大事にする、そういう性格があった。それがそのまま、2022年のステージにも広がっていたというだけのことだ。

誰にも迷惑をかけなければ何をしてもいい。でもおとなになると、誰にも迷惑をかけずに行動できる余地はどんどん小さくなる。だからこそ、思うこと、感じることについて、「自分はどうなのか」を問い続けることだけは、忘れちゃいけないと思ったのだった。

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