愛にできることはまだあるか ー 『すずめの戸締まり』をめぐって

雑記

公開直後に観に行って、ほんとうに声を上げて泣く寸前まで嗚咽したのが、新海誠の最新作『すずめの戸締まり』。過去2作と比べてもエンターテイメント性の高い、アクションありコメディあり感動ありの高い完成度には舌を巻いたし、ものすごいスクリーン数で公開されていたことを考えても、興行収入は記録的なものになるだろうという印象を持った。周囲に聞くと人によっては「難しい」という声もあったのだけど、公開直後から良質なレビューブログもたくさん書かれていたので、以前のような考察を書くほどでもないかなと思っていた。

ただ、少し時間がたってあらためて振り返ってみると、自分の気になっていた点について論じている人があまりいなかったことや、それが自分自身の考えてきたこととシンクロする論点であることにも気づいてきて、それならば、と少し書いてみることにした。以下では作品へのネタバレを含むものの、作品そのものへの批評や感想ではなく、作品に刺激されて考えたことについて書いてみたい。

あらすじを振り返る

九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、 「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。

彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、 ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。

なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。

公式サイトより

本作には、大きく分けて3つのストーリーラインがある。まず、すずめと草太による「戸締まり」の旅。宮崎、愛媛、神戸、東京と続く道中、二人は様々な人とのふれあいの中で、「壊されたくない日常」がそこにあることや、「かつてそこにあったが果ててしまった日常」があったことを体験する。というのも、厄災をもたらす存在である「ミミズ」は、廃墟となった場所に現れる「扉」から這い出して、その土地に災害をもたらすからだ。二人はミミズが出てくるのを阻止するために、開いてしまった扉を閉じようとするのだが、そのとき、廃墟となる前にあった日常を生きていた人々の思いが、すずめの心に去来する。旅の中で、「戸締まり」に対するすずめの使命感は高まっていく。

その「厄災」がもつ意味が2つ目のストーリーラインだ。映画の冒頭から津波警報が流れ、作中でもたびたび地震を知らせる緊急警報がスマホに届く。僕も含め、2011年の東日本大震災の記憶が残る人にはものすごく苦しいかもしれない演出だ。おそらく愛媛へのフェリーに乗る展開だったから、すずめの故郷は宮崎に設定されているのだけれど、熊本地震、阪神淡路大震災、関東大震災へとつながるラインが、すずめの草太の道中に重なる。つまり、二人の「戸締まり」は、震災の被害を受けた土地の中の、もしかするとその震災によって日常を奪われたかもしれない場所に開いた、新たな震災を防ぐための旅でもある。

そしてこの震災は、すずめ自身の家族をめぐる3つ目のストーリーラインに関わっている。実はすずめは幼少期に東日本大震災で被災し、母を亡くした経験をもっている。彼女を宮崎に引き取ったのは、母の妹である環。幼い姪を育てながら独身を貫いた環は、巻き込まれる形で草太と戸締まりの旅に出たすずめを案じ、最終的には東京まで追いかけてきてしまう。

この3つのストーリーラインが交差する東京でのシーンが、物語の前半と後半を分かつポイントになる。東京で草太は、ミミズを封じる「要石」となり、「常世」の存在となってしまう。1つ目のストーリーラインの後半は、草太を人間に戻すために、もうひとつの扉がある東北へと向かう「戸締まり」の旅になる。

そして、東北へ向かうということは、2つ目のストーリーラインのである震災、そして3つ目のストーリーラインである家族の物語をも、戸締まりの旅に巻き込むことでもある。物語としては、1つ目の戸締まりと3つ目の家族関係の回復が描かれるとともに、「震災」という社会的なテーマに僕たちがどう向き合うかについて投げかける形で閉じられる。

ストーリーの構造は非常に緻密だし、社会的なテーマを、批判をかわすために表面的に描くでも、大きな問題提起をするでもなく扱う手付きも秀逸だ。本当なら、こうした社会的なテーマについて論じることもできるのだろうけど、僕が気になった(そして号泣した)のは、やはり3つ目のストーリーラインに関する部分だった。

生きたいという願い

実は、3つのストーリーラインを結びつけ、大団円に導く鍵となるのは、すずめと草太の「生きたい」という願いである。というのも、すずめは母を亡くした被災経験から、人の命が偶然によって奪われる理不尽なものであると考えるようになっている。「死ぬのが怖くないのか」と問う草太にすずめが毅然と「怖くない」と答えるシーンに、それは現れる。怖くないからこそ、戸締まりという危険な草太の旅に同行することになる。

一方の草太は、物語の冒頭で、要石であった存在、ダイジンの力で椅子に変えられてしまう。この時点で草太は既に人ではなく、要石の役割を負わされた存在になっている。椅子に変えられた草太は眠るたびに、自分が常世へ沈むイメージを見て、そのまま意識を失いそうになる。そのたび、すずめの呼びかけによって起こされ、どうにか現世(うつしよ)にとどまっている。草太の中から少しずつ「生きること」への希望が失われていく。

東京で要石となった草太を救ったのは、東北にあったすずめの生家に開いた扉から常世へとやってきたすずめ。このあたりは、イザナギが黄泉国までイザナミを迎えに行った日本神話を下敷きにしているのだと思われるが、すずめの名字である「岩戸」だとか、草太が扉を閉じる際に唱える「かしこみかしこみ」の祝詞を含め、さほど重要な意味を持たされているわけではない。

むしろ重要なのは、草太を救ったのが「生きたいという願い」だったということだ。すずめの呼びかけに応じて、常世の深い深い場所から救い出されるとき、草太はすずめと出会い、自分が生きたいと願っていたことに気づく。閉じ師の宿命を負った草太は、目標である教員採用試験を欠席してまで戸締まりの旅を続けていて、自分の人生を生きるという意思を後回しにしている。そこに入り込んできたすずめが、彼自身の生への意思を昂ぶらせたのである。

自分の「生きたいという願い」に気づいた草太は、ミミズに対して祈る。たとえ人の世がかりそめのものであっても、私たちはそこで生きたいのだ、だから鎮まってくれと。僕が最初に泣いたのはここで、古典的なボーイ・ミーツ・ガールによって、つまり人が人によって救われると同時に、それによって世界が救われるという、新海にたびたび投げかけられる「セカイ系」のモチーフには、やっぱり弱いのだと思った。

だが、より強く心を揺さぶられたのは、すずめ自身の救済のほうだ。すずめの生への執着はどこから来るのか。それは、常世において出会う、過去の自分との対話である。すずめが扉を閉じることができたり、常世に入れたりするのは、震災の直後、母を探して常世に迷い込んだ経験があったからなのである。そこですずめは、かつての自分を現世に戻してくれた、母と見紛ったその人が、未来の自分であったことに気づく。そして、こう言うのである。あなたは大丈夫、ちゃんと恋をしておとなになる、と。

人が人によって救われるのと同じくらい、僕にとって「人が自分の力で自分を救う話」は弱点だ。いまこれを書いているだけで涙ぐんでしまうくらいには弱い。けれどこの草太とすずめの対照は、考えれば考えるほど深いものなんじゃないかと思えてくる。

人を救うのは人か

二人に共通するのは、「人を好きになると、人って死ぬのが怖くなるよね」というテーマだ。でも、このテーマがいつまで人の心を動かすものであり続けるのか、やや心許ないところもある。

草太は、自身のために常世まで自分を追ってきたすずめに救われる。そういう人が現世にいるからこそ、自分も生きたいと願う。つまり外発的な動機でこの世にとどまろうとする。それに対してすずめは、人を好きになったり、そのために無茶をしたりできる自分の気持ちに気づいて「大丈夫」だと自分に呼びかける。つまり内発的な動機で生きたいと願っている。言い換えると、草太はすずめがいなければ生きている理由がないが、すずめは草太と別れても生きていけるのである。

こう書いてしまうと、つら、という気持ちになる。僕たちは「人が恋をして救われる」話に、その二人が添い遂げることを期待してしまう。けれど、それが裏返って、「生きたいと願って救われるためには人を好きにならないといけない」となったら、それはやっぱり違う。そして現代の日本では、恋愛をする若者はかつてより少なくなっていることを、いくつもの調査が明らかにしている。恋愛の特権性は相対的に小さいものになり、恋愛関係と呼べる特別に親密な関係でなければ救われないという「おはなし」は、すべての人にとってリアリティのあるものではなくなっていくかもしれない。

それを寂しいと思う自分と、仕方ないとか、あるいはそちらの方がマシな社会かもしれないと思う自分がいる。誰かの愛によらなければ、生きることに意味を見いだせない人が救われない社会は、言い換えるとその人のためにひたむきに献身する人を必要とする。それならば、と思う。誰かを好きになって夢中になって、そのことで生きがいを得たり救われたりするのなら、その相手は、そのことを生業にしているエンターテイナーでもいいんじゃないか。「みんなの推し」を推して救われるのと、自分のためだけに愛を向ける人に救われるのと、結果が同じなら、そして誰にとっても恋愛が当たり前でない社会になるのなら、きっと後者でも構わない。今作のモチーフは「恋愛のおはなし」から「恋愛じゃないけどガチで好きな気持ちをめぐるおはなし」へと世の中が移り変わる転換点を示すのかもしれない。

前作『天気の子』の主題歌である「愛にできることはまだあるかい」で、野田洋次郎はこう歌う。

何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか

なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい

RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」

この大サビの歌詞こそ、本作の下敷きなのだと思うし、僕も、愛にできることはまだあると思う。その愛が、僕らの思っているようなものとは、違うものになるのだとしても。

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