感情的にならない ー 『窓辺にて』を観て

雑記

僕はその日、久しぶりのミスをした。溜まった仕事を片付けるつもりで休日出勤のために訪れたオフィスの前で、カードキーを忘れたことに気づいたのだ。家まで取りに帰っても時間がかかるし、夕方から別の予定もあったので、数時間、ぽっかりと予定が空いてしまうことになった。

仕方がないので、映画でも観て時間をつぶすか、と考えた。上映時間がぴったりだったという理由で選んだのが、今泉力哉監督『窓辺にて』。主演の稲垣吾郎さんの演技はこれまでも評判だと聞いていたし、ミスって軽く落ち込んでいるときに、陽気なエンタメや不穏なサスペンスを観るくらいなら、落ち着いた気持ちで見られそうなものにしよう。そんな軽い気持ちで、予備情報もなく鑑賞したのだった。

結果的に、作品そのものも素晴らしかったし、いろんなことを考えさせられることにもなった。この作品の中に答えがあるわけじゃないけど、いま自分が感じていたことや、来年に向けて考えたいことのヒントなのかもしれないと思って、少しだけ書き付けてみる。

どうして怒りがわかないのか

フリーライターの市川茂巳(稲垣吾郎)は、編集者である妻・紗衣(中村ゆり)が担当している売れっ子小説家と浮気しているのを知っている。しかし、それを妻には言えずにいた。また、浮気を知った時に自分の中に芽生えたある感情についても悩んでいた。ある日、とある文学賞の授賞式で出会った高校生作家・久保留亜(玉城ティナ)の受賞作「ラ・フランス」の内容に惹かれた市川は、久保にその小説にはモデルがいるのかと尋ねる。いるのであれば会わせてほしい、と…。

公式サイトより

この作品の魅力は、あらすじではなく会話劇にある。玉城ティナ演じる留亜との会話は、作家らしいどこか背伸びした不思議で抽象的な話題と、年相応の恋愛に悩む少女のワガママの間で絶妙なバランスを保っている。茂巳の妻・紗衣との会話も、スタイリッシュなマンションに住む二人の穏やかで優しい日常のようでありながら、どこか不穏さを感じさせる。

それだけではない。留亜の恋人である優二は、インテリの留亜とは対照的な不良っぽい見た目だが、いわば馬鹿で素直で正直なタイプ。茂巳の取材対象であり友人でもあるプロスポーツ選手の正嗣は、妻・ゆきのがありながら若いタレントのなつと不倫関係にある。紗衣の浮気相手である人気作家の円も含めると、本作では5つの親密な男女関係が絡まりあっているものの、ほぼすべてのシーンが2人か3人の会話で進行する。特に留亜と茂巳の会話のシーンは、ずっとこの空間にとどまっていたいと思わせるほど魅力的で、めったにない経験をしたなと思わされた。

さて、そんな男女関係が入り交じる中で主題となるのは、茂巳の悩みだ。その悩みとは、妻の浮気ではない。妻が浮気していることを知りながら、怒りの感情がわかない自分にショックを受け、なぜなのだろうと悩んでいるのである。

茂巳の周囲の人は、それが茂巳のことだと知っているかどうかとは別に、そんな人は信じられないと憤る。ゆきのは、それは茂巳がもう紗衣のことを好きでないから怒らないのだと詰め寄る。正嗣は、茂巳がショックのあまり防衛本能で何も感じなくなったのではないかと水を向ける。それに対して茂巳は、どちらも違うという。優二は、そんな人はサイコパスだ、まるでSFだと驚く。

この「怒りのわかなさ」に対する作品からの答えは、終盤の茂巳と紗衣の会話、そして茂巳と円の会話にあるのだが、それは作品を観て確かめてもらうとして、僕が強く印象に残ったのは、この「怒りがわかない不思議」をめぐる会話劇が、どこか現代の典型的な出来事のように思えたことだった。

親密な相手なら感情的になっていいのか

茂巳を除く登場人物たちの多くは、共通して「自分が浮気されたら怒ってしかるべきだ」と考えているし、それを他人に求めてもいる。言い換えると、親密な相手に対して裏切られたら、感情的になることが許されると思っている。しかし、それは本当だろうか。

紗衣に対してだけでなく、他の誰に対しても茂巳は丁寧で、押し付けがましくない態度で接している。怪我をして引退を考える正嗣に相談されても、恋人に別れを切り出された留亜に呼び出されても、まずは聞く姿勢を示し、相手の考えを受け入れた上で、自分の意見を控えめに述べる。そもそも茂巳は「怒らない人」なのだ。

そんな茂巳との会話は、まるで昨今の企業における管理職研修を受けた上司とのそれのようだ。傾聴しましょう、相手と意見を戦わせるのではなく、相手のしたいことを尊重し、部下が自発的に成長するように促しましょう。そんな研修を受けた企業人と接する機会が増えているのだけれど、茂巳の会話はまさにそのお手本としか言いようがない。そういう意味で、茂巳の「怒れない」という悩みも、見方を変えればアンガーマネジメントがものすごくよくできた人だということになる。

近年の管理職研修が傾聴やコーチングを重視したものになっているのは、従来のパワハラ型マネジメントへの反発と反省がある。怒りや苛立ちを表明することで周囲を威圧し、コントロールしようとしたり、逆に赤の他人であるはずの従業員同士の関係に感情的な親密さをもつことを強要し、プライベートの関係を後回しにしても飲み会への参加を要求したりするような従来型のマネジメントは、もはや許されないだけでなく、人が採用できないという意味で経営課題に直結する問題になってすらいる。

こうしたトレンドは、親密な関係にも見られるものになっている。パワハラ・モラハラ夫(妻)という言い方があるように、親密な間柄であってもハラスメントになるような行為が許されるわけではないし、まして感情的になって怒ることが愛情の証だ、などという考え方は、それこそDVを助長するのではないかとすら言われてしまいそうだ。

心地いいが、傷つけ合う関係

僕自身は感情的な人間だったし、だからこそ上に書いたような問題を強く意識して、たとえば学生と接する際にも慎重に感情を抑制するようになった。そんな僕にとって、茂巳が周囲の人とする会話は心地いいのだけど、一方で、「抑制している」という意識があるからこそ、もやもやするところもある。

傾聴やコーチングの研修を受けた人と話していて強く感じるのは、「あ、いま気を使われたな」ということだ。ここで感情的になってはいけない、このような返し方をすべきではない、そういう態度が強く内面化されているからこそ、考えるより先に感情を抑制して、「なるほど、あなたはそう考えるんだね」なんて言ったりする。ああ、よくある会話のテクニックだ、と思う。そのとき僕は相手に対して、気を使われることによって壁を隔てられたような気持ちになる。そしてそれは、僕自身が誰かにしていることでもある。

これが親密な関係に持ち込まれるとどうなるか。相手を好きであるということは、相手に何かを要求することではなく、相手の望みを尊重することになる。好きだからこそこうしてくれるはず、ではなく、好きだからこそこうしてあげるべきだ、になる。結果的に「好きどうし」という関係は、相手の行動によって証明されるものではなく、自分の中の気持ちの強さだけで証明されるべきものになる。相手に求めるのではなく、純粋に内発的な動機で好きだと思えるほど強い気持ちでないと、「自分はほんとうに相手のことが好きなのだろうか」ということを確認する術はないのだ。

困ったことに、僕たちの気持ちは往々にしてそんなに強いものではない。その場の雰囲気に流されて好きだと思ったり、嫌いだと感じたりする。その感情に蓋をして、好きだからこそあなたを尊重する、という関係を築くことは、とても心地いいが、同時に自分を深く傷つけることでもある。

正嗣となつ、そして紗衣と円の間には、作中、別れ話が持ち上がる。こういう関係はよくない、もうやめようという話が出るものの、どちらの関係も、その場で決定的な別れには至らない。4人とも、自分の好きな相手に、その人が抱える苦しみや悩みを解消してほしいし、それを手伝えるのが自分であってほしいと思っている。だからこそ彼らの会話は、茂巳と同様に感情的にならない、嬉しいとも悲しいともつかない表情で交わされるものになる。それはとても優しい会話だが、彼ら自身を深く傷つけるものでもある。

感情的にならない社会の親密性

現代の典型的な出来事がこの作品に描かれていると思うのは、こうした優しく、心地よいが実は傷つけ合うような関係性が、僕たちの社会関係の新たな課題として浮上しているように思うからだ。もちろん僕は、そうした関係をときに強要するリベラルな価値観がよくないとか、感情を思うままに発露できる社会にだっていいことはあるなんてことを思っているわけではない。できるだけ優しい関係を築きながら、同時に相手が傷つかないための作法を探すことが、これからの親密性の大きなハードルになると思っているのだ。

そんなことができるのだろうか? 反リベラル派がいうように、そういう関係性を築かなければならないと思えば思うほど、人々は親密な関係を築くことのコスパの悪さに飽き飽きし、パートナーを持つことを諦め、少子化を加速させるのだろうか? あるいは、職場の人間関係は薄っぺらいものになり、創造性に乏しくなり、理想だけ大きい頭でっかちな社会になるのだろうか?

最初に述べたように、本作にその答えがあるわけではない。ただ、本作が投げかける課題は本質的で長期的なものだし、誰にとっても他人事ではないところがある。特にコロナ以後、この問題については雑誌の連載で扱ってきたのだけど、そこで考えてきたことに具体的な輪郭を与えてくれたのがこの作品であり、稲垣さんの演技だった。その意味で、非常に貴重な観賞体験だったと思う。

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