忘却について

雑記

1年間の締めくくりの日には、いつも自分が死ぬ日のことを考えるようにしている。今日でもしも自分の人生が終わるとしたら、そのとき自分は何を思うのか。世界のすべてに別れを告げなければいけないとして、そのときに何を言うのか。

二十歳くらいの頃から毎年そんなことばかり考えていたら、いつの間にか歳をとってしまった。死ぬとか死なないとかいう話がどんどんリアルになる。「もしも」の話ではなく「いつか」の話として死を考えなければいけなくなる。

とりわけ今年は、夏に母が他界したことも大きかった。体調を悪くしてから亡くなるまであっという間だったし、直前まで元気だったことを思えば、人はいつも突然にいなくなるものだなあと思わされる。何度も心のなかで繰り返してきた「朝には紅顔ありて暮には白骨となる」という言葉も、実感を持って刺さってくる。

考えたのは、肉体の死ではなく、精神的な死のことだ。もっというと「忘却されることによる死」のことだ。一般的には死には2種類あると言われていて、肉体的な死のあとに、忘却されることによる社会的な死が来るというのだ。

ただこの話は少し変で、「忘却」というのは文字通り「思い出すことがなくなる」のだから、最初から存在しなかったことになるという意味だ。でも、亡くなった人を忘れてしまうというのは、そういうのとは違うんじゃないだろうか。

小川洋子の『密やかな結晶』は、この「忘却」をめぐって紡がれる物語だ。舞台となる島では、突発的にさまざまなものが「消滅」する。この消滅は、文字通りものが島から消えてしまう(秘密警察のような組織によって強制的に奪われてしまう)だけでなく、それがこの世界からなくなったことについて、人びとが何も感じなくなるという意味で「忘れてしまう」ことを意味する。もっと言えば、「忘れてしまったことは理解できるが、それになんの痛みも感じなくなる」ことが、ここでいう「消滅」なのだ。

作中には、消滅した存在について記憶している人たちも登場する。その人たちは、自分にとって大事だったものが、記憶の中から消滅しないように、自分の大事な人がそれを忘れてしまわないように、必死にその記憶をたどり、語ろうとする。けれど消滅を受け入れた島民たちは、その事実に対して何も感じてくれないのである。

人は忘れるから生きていける。それは仕方ないだけでなく、必要なことだ。それまでの間違いや過ち、失敗、恥、そういうものを過去として折りたたむことができるからこそ、僕たちは明日を生きることができる。でもそれは見方を変えれば、あんなに必死だったこと、どうにかしようと藻掻いたことそのものを、そんな自分をも否定することでもある。

今年、大きな目標にしていたのは「鼓舞激励」、つまり、自分に関わる人たちをエンパワーして、その人たちの力と可能性を引き出すことだった。そこでとにかく気をつけたのは、徹底的に感情を抑制すること。自分の理想とするところに届かなくても、あるいはたまたまその日、環境や状態が悪くても、そこから自分の感情を切り離して、長期的には結果が出ることを信じる。ちゃんと未来はある、いい結果が出る、そうやって周囲を鼓舞していくために、まずは自分のネガティブな感情を自分から切り離す必要があった。

母が倒れたときが、ちょうど大学の大きなイベントの直前だったこともあって、毎日のように、泣いている人と笑っている人の間を行き来し続けた。感情の抑制という課題もあって、どちらの側にいるときにも、心から笑ったり泣いたりしなかった。というか、その感情をギリギリで押し留めていた。そのうち、最初から何も感じることなどなかったかのように、日々が過ぎていって、季節が変わって、すべてが過去になった。

その感情を解放できる唯一の時間が、エンタメに触れているときだった。映画を見ても音楽を聴いても、今年はよく泣いたと思う。たぶん、そこ以外で泣かなかったからだと思う。秋以降、新曲のリリースに向けて曲作りをしていても、自分の歌詞で泣く始末だった。それでも、自分の感情を解放する表現の手段をもっていたことが、心の支えになっていたのは間違いない。

けれど、と思う。他者に対する感情を抑制するということは、酷い言い方をすると、その人がどうであっても何も感じないようにするということだ。自分にとって不快なことをされて腹が立つことも、相手の貢献に胸を打たれて感謝することも、すべてを自己コントロールの範囲内に置き、「ほどほど」のリアクションにとどめるということだ。そうしなければ自分自身も、自分の関わる集団も守れないほどには、いろんなところが軋んでいたのが、2022年だった気がする。

たくさんの目に見える結果を残したし、お金では買えないものをたくさん手に入れた年だったこともまた確かだ。悪いことばかりではない、どころか、素晴らしい体験と時間に恵まれた年だったと思う。だからこそ、それが何かを忘れることで、忘れていくことに痛みを感じないようにすることで手にしたものであったことが、余計に目立ってしまう。削り取られてしまった僕の感情は、いったいどこのゴミ箱に放り込まれたんだろう。

年末のブログで毎年書いている「七味五悦三会」の話をしよう。大晦日の夜、除夜の鐘が鳴っている間に、その年に食べた美味しいものを7つ、楽しいことを5つ、出会えてよかった人を3人挙げることができたら、その年はいい年だったねといって笑って終える江戸の風習。もう20年以上、年越しには自分が死ぬ日のことを考えて、最後にその年のことを振り返っているのだけど、今年はもしかすると、自分が削り取ってきた感情のことも思い出す、そんな年越しになるかもしれないな。できたらあなたにとって今年が、素晴らしかった日々だけでなく、ゴミ箱に放り込んだもののことも思い出して、少しだけ胸がきゅっとする、そんな出来事にも満ちたものであればと思います。

タイトルとURLをコピーしました