「もう何の話もしたくない」

雑記

「鼓舞激励」を貫いた1年

今年、何人もの教え子に「先生が死ぬときは絶対に突然死ですよね」と言われた。突然でない死があるのかよく分からないが「早く死ねばいいのに」と思われながら死ぬよりはいいんじゃないかな。そもそも、明日生き延びるために今日したいことを我慢して、それで明日死んだら意味ないじゃんその我慢。

ただそこまで言われるからには、それ相応にアクティブだったのだと思う。2022年の頭に立てた目標は「鼓舞激励」だった。特に大学の仕事では人を勇気づけること、進む先によい未来があると信じさせることを目指して、アウトプット活動に勤しんだ。年の前半は、学部の広報用サイトをリニューアル、後半には受験生向け動画の企画・監督を手掛けた。3年ぶりの対面イベントが多く、卒業生や仕事で関わる企業人と学生をつなぐ企画も動かした。この数年続けてきた研究活動も書籍化された。去年までの2年間が、立ち止まらないために必死で動いていたのだとすると、今年は自由に、思うままに動きまくった1年だったと思う。

そんな今年を振り返るなら、やっぱり大きかったのは「アウトプットする領域を移していったこと」だと思う。11月に行われた宇野常寛君とのオンラインイベントでは「もう書籍のようなサイズで言論を世に問うことに興味がなくなっている」という話をしていたのだけど、ちょっと誤解されそうなのでその辺について書いておきたい。

書いたこと・語ったこと

そもそも今年、別に執筆や言論活動をサボっていたわけではなかった。書籍以外でいうと、『tattva』で続けている連載記事が3本。1月の4号は「『承認欲求』の砂漠」というタイトルで、現代のマネジメントにおいて「承認」がキーワードになっていることを論じた。そもそも、「承認されたい」という人はいても「ぜひ人を承認したい」という人はあまりいない。だから承認欲求は常にアンバランスなものになる。そういう前提に立ったとき、部下のやりたいことを承認し、心理的安全性の高い環境を築くことが管理職の査定の基準になるとしたら、組織はどうなるのか? という問題提起だ。

自分の周囲を見渡しても、プレーヤーとして優秀な人が管理職に就いたとたんにパワハラ上司として部下に離反されたり、逆にハラスメント認定されることを恐れてコミュニケーションを怠ったりする例が目につく。パーソル総研の調査によると、上司がハラスメントを恐れて部下に関わろうとしないことが、かえって部下の成長を阻害するという話もあるので、この問題は予想以上に深刻だ。現代の管理職は、どんなモチベーションで部下の考えを傾聴し、尊重し、応援しなければならないのか? これは今年、自分自身が「鼓舞激励」をテーマに動く中でずっと考えていたことでもある。たぶん、人より目立つこと、人を押しのけてでも自分の成績を上げることを目指してきた30〜40前後の社会人は、この先しばらく、この「モードの変化」に苦しむことになると思う。

4月に出た5号では、「アイディアを待てない組織」と題して、創造的であることと時間の関係について論じた。近年、「高速PDCA」のような形で、当初目標と現状の差を確認しながら細かく軌道修正していくメソッドが注目されているのだけれど、これはゴールが明確で、そこにたどり着くまでのステップを定量化できる場合にしか使えない。創造的な活動のように、プロセスもゴールも不明瞭なことに関しては、話が行きつ戻りつする非効率な時間がどうしても必要になる。そのためには組織内の信頼関係を築くことが欠かせない。

4号の話と併せて考えるならこれは、現代的な公的関係のあり方を問う話だということになる。仕事の付き合いは友だち付き合いとは違う。赤の他人の関係なのだから、組織に割り当てられたジョブさえこなしていれば、飲み会だとか他のプライベートに踏み込まれるいわれはない、というのはひとつの正しい価値観だ。しかし、そのようにジョブに割り切った組織で、成果を上げたり新事業を起こしたりすることが本当にできるのか。できないとしたら、現代の組織は「友だち」とも「他人」とも違う関係性を模索し、構築しなければならない。どうやって?

これは、大学で学生と接する上でも大きな課題だと思う。6月に出た毎日新聞のインタビュー記事では、学生が「対面での指導」に苦しさを感じるようになったことを指摘している。対面や電話での指示を嫌がる若者が多いという話はよく聞くけれど、おそらく、メールやチャットのように、指示の内容を正しく飲み込んでレスポンスしようとすることに慣れた人にとって、リアルタイムのコミュニケーションに同じ水準のレスポンスを求められるのはストレスでしかない。自分の時間軸で生活をコントロールすることが当たり前になる社会で、どれだけ時間がかかるかも読めないのに、「予想外の成果」を生み出すことを求められる活動は、果たしてどこまで可能になるのだろう。

組織と創造性の関係が今年のテーマの1つめだとすなら、今年、もうひとつの仕事の軸だったのは「自己啓発と消費」の関係だ。学生たちと一緒に研究した課題との関連もあり、一部は「ハマる消費」として夏のオープンキャンパスなどで公開した。書き物仕事でいうと『tattva』6号に「スピリチュアル化する消費社会」という原稿を寄稿し、読売新聞の取材で「自分の取扱説明書」を作る人たちに関する話もしている。2つの仕事の軸は相互に関係しているし、その他にもインタビュー記事が数本あるのだけど、今回のエントリの本筋からは離れるので紹介だけにとどめる。

表現のことばと動員のことば

言論活動、執筆活動という点では、僕自身、様々なことを「世に問うて」いる。だから「関心がなくなっている」というのは「もう何も書きたくない」ということではない。「あなたに向けて書くことに興味がなくなっている」ということなのだ。

まず、SNS時代において言論活動がすぐに「動員のことば」になってしまうという点。毎年のように見慣れた光景になったネット上の揉め事の多くは、「動員の論理」から生じている。ある出来事に対してそれを直接論じるのではなく、自分と違う立場に賛同した人を揶揄し、嘲笑し、自分の側に正義があることを確認するために、他の人がどのようなことを言っているかを気にしている。だから「動員の論理」というよりは「動員されても安心な大樹」を探しているといった方がいいのかもしれない。誰もが勝ち馬を探している。

困ったことに、その「動員」は、いわゆる「清濁併せ呑む政治的なことば」ではなく、動員する人の「表現のことば」によってなされている。ある結果に向けて言うことと言わないことを調整するのではなく、「自分の素直な気持ち」「自分が心から解決したいと願っていること」を表現し、共感の輪が広がることで動員が生まれる。なぜなら現代は組織動員の時代ではなく、メッセージを通じた個の動員の時代だからだ。1人の表現と1人の受け手の共感がn倍されることで動員のサイズが決まるのであれば、「多くの人が納得する政治のことば」ではなく「1人の心を動かす表現のことば」のほうが力を持つ。

最近良く見るネット上で起きている揉め事には、この「表現のことばで発したものが共感を呼び、動員が生まれる」ことに対するジレンマが透けて見える。当人は個人のモチベーションで動いているのに、それが動員を生み、寄せられた共感にレスポンスしなければならなくなることで、自らの手足が縛られる。動員された観客は自分の期待が叶えられることを勝手に表現者に求め、それが叶わないと知ると怒り出す。

しかも現代では、この「表現のことば」こそ、もっとも尊重しなければならないものになっている。何事かの当事者である人が、社会のマジョリティからは見えない、排除されたその感覚、知覚、価値観を表現すること、そしてそれを社会が広く受け入れることが、とりわけ表現の世界では重視される。そのこと自体はもっと推奨されるべきだけれど、「表現のことばの勝ち馬を探す社会」において、無邪気に投げ込まれたそのことばは、すぐに動員のことばに変わる。

自分から見える世界のすべて

創造的な活動において求められる新たな組織的関係と、総表現社会において個人の表現が動員を生んでしまうこと。この2つがなぜ、これまでのような言論活動への関心を失う理由になるのか。ポイントは、誰もが尊重される社会においては、実は誰も尊重されることがないということだ。

多数派であるか少数派であるかということは、社会的な属性の観点からも、個人の内心の問題としても語ることができる。特定の属性を与えられた、あるいはもって生まれた人が、それだけで自己の表現やことばを奪われてきたことに対して僕たちは顧みなければならないし、その人たちの表現に耳を傾ける必要があるのは間違いない。しかし内心の問題としてみれば、あらゆる自己表現はマイノリティのことばである。自分は世界にひとりしかいないので、その社会・組織・集団においてマジョリティの属性であったとしても、自分だけのことばは、その人のものとして尊重される必要がある。

社会的な属性としてのマイノリティと、マイノリティとしての自己の内心の葛藤は、典型的には「ラストベルトの白人」の問題として現れている。しかし、これはアメリカの海岸部と内陸部の話だけではなく、現代社会のあらゆるところに見られる葛藤である。ネット上に渦巻く多くの怨嗟の声が「自分たちの声こそ届いていない」と憤っている。マスコミは自分たち以外のことばかりを取り上げ、社会制度は自分たち以外の人たちだけを救済している。もっと自分に注目してほしい、もっと自分の感じていることが社会に伝わってほしいと願う人が増えれば増えるほど、「自己表現できること」そのものが特権として映るようになる。

繰り返すけど、ことばを奪われてきた人びとにとって、こうした混ぜっ返しこそ「そんな馬鹿な」「それこそ自分たちが長年味わってきた苦痛だ」という思いのするものだろう。現代においては、ことばを発することそのものが、「表現されざる苦痛」を生み出し、対立を煽るものになる。そうした感情のゆさぶりにうんざりした人びとは、もはやことばを、文字を目にすることそのものから離れるようになっている。

最初に書いた「言論を世に問うことに関心がなくなった」というのは、こうした状況分析を背景にしている。といっても、筆を折るとかそういう話ではない。活動のフィールドを少し変えていくということだ。

ひとつは、長期的な関係を重視すること。ネット上のすれ違い、当り屋的な事故みたいなことばの応酬から距離を置くのはもちろんのこと、スポット的なメディア出演や、互いのバックグラウンドをよく知らないままに複雑なことを話す現場、取材も控えたい。もちろん、国際情勢だとか情報技術だとか、正解のある論点についてコメントするのは、専門家として求められる役割なのでその限りではないけれど。

今年からひっそりと始めた研究サロン的な活動も、長期的な関係という点で重視したい。特に僕らの研究活動は実業の人たちとうまく協働することのできるものだし、ありがたいことに難しい話に関心をもってくれる人も多い。ただ、こちらについては京都の一見さんお断りの店くらいのクローズド活動なので、たぶん外には出てこない。

加えていうなら、やはりクリエイティブな活動にも力を入れていたい。今年は映像作品を作ったり楽曲をリリースしたりもしたけれど、やはり「ここにこういうサウンドがほしい、こういう絵がほしい」と思ったときに、それを手ずから創ることができるのは、自由という意味で自分の喜びだ。プロフェッショナルの高度な表現をオーディエンスとして受け取る体験も素晴らしいけれど、自分の感じたことを言語以外の手段で表現できる力は、ちゃんと磨いておきたいし。

何をするにしても、自分が不活発になることはないし、来年もきっと「ある日突然死にそう」って言われていると思う。あなたの目に、耳に、それが届くかどうかは別として。

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