「地雷」が多すぎる

雑記

すっかり本が読めなくなっている。

忙しいからではない。自己啓発に毒されて仕事に全力を出すのが癖になっているからでもない。

原因は、現代の情報過多だ。

この社会では、どんな商品に出会うときにでも事前の評価がついて回る。本であれば「新刊紹介」などのようなプロのレビューがその代表だ。リアル書店を歩いていて偶然出会う本もあるだろうけれど、それすら「あの作家の最新刊」とか「本屋大賞ノミネート」とか「ネットで100万人が泣いた」とかの周辺情報が、判型の3割、4割を覆うように貼り付けられている。

そうするとこちらも、あらゆる本を色眼鏡で見てしまうようになる。レシピ本ですら「味の素使ったっていいじゃん、美味しいよね」とか「丁寧にひいたお出汁は日本の文化だよね」という強い思想を自分の中に確認しないと手に取れない。

そう、誰が気にするでもないのに、どんな本を開いても、それが事前の情報によって文脈付けられていて、自分がその文脈に位置づけられてしまうような気分になるから、本が読めないのだ。

別に気にしなければいいのだけれど、気になることから無理やり目を背けて本を読む理由もないのだ。「こういう業界にいるのだし、最近話題の若手論客らしいから押さえておかなくちゃ」という気持ちで読む本ほどつまらないものはない。

そんな話をしていたら学生に「アイドルオタクが地雷をブロックするみたいな話ですね」と返された。どうやら、SNSで同じ趣味の人とつながる際にも、解釈の不一致で揉めたり、熱量が合わなかったりすることを避けるために、自分にとっての「地雷(を踏みそうな相手)」をあらかじめブロックしていくケースが目立つらしい。それこそエンタメなのだし、お互いを不快にさせないためには、無理して歩み寄るより自分にとって楽しい部分だけを浴びていたいと思うのが人というものだろう。だから自分の解釈や熱量を人に押し付けないように、人前で自分の好きな対象については話さないというのも当世風のリスクヘッジであるようだ。

そう思うと、とかくこの世は「地雷」が多すぎる。これを好きだというとなんと言われるかとか、いい人だと思っていたのにこんなものが好きなんだ、という「期待外れへの不安」が先に立って、いろんな物事を素直に楽しめないのは、性格の問題というよりは環境の変化に原因があるものに思える。

幸いにしてエンタメについてはさほど「地雷」を気にするところもないのだけど、特に言論、批評、思想といった分野は厳しい。これが時事分析であれば経済であれ国際関係であれ、それなりに論理的な説明というものがあるし、教科書通りの枠組みを踏まえているかどうかも分かる。ところが人がどう生きるべきかとか、社会をどうしていくかといった、立場が割れたり、意見が対立したりしがちな分野の話題になると、話のハードルが一気に上がる。

書籍に限らず、SNSなんかでも同じだ。もともと言論や論壇を通じてつながっていたSNSの世界では、すっかり中高年エコーチェンバー化が進んでいて、ふだん接している若い世代との感覚の落差や、よくわかってもいない若者の行動への決めつけを感じる場面が多くなっている。この人たちの書く本は、きっと同世代より上の人たちが読んで楽しむものなのだろうなと思って溜息が出る。

ロイター・ジャーナリズム研究所の2024年のレポート(抄訳)で注目を集めたのは、世界中でニュースにアクセスする人が減っているということだった。気が滅入るような国際ニュース、何度も繰り返される同じ話題といった要素が選択的ニュース回避を促していると分析されているが、そもそもニュースが様々な意見の対立を含むものになっていることも背景にありそうだ。僕が参加している研究チームでもこのことは話題になっていて、2022年から2023年にかけて調査を計画、実施している。それによると、政治や経済などのハードニュースに対して、全体の4割強が「いやになって見るのをやめることがある」と回答している。

理屈の上では、こうした「ニュースの選択的回避」は政治への市民参加を遠ざける影響をもつと考えられるので、決して歓迎すべき事態ではない。しかし、そのように考える研究者の僕ですら、書店で本を手に取るときに、いちいち「この本はいまどういう文脈で出版されているのか」ということを気にしてしまうのだ。

出版とか言論といったものは、自分の意見を遠くの人まで届ける役割を果たすものだった。インターネットが登場したときに期待されたのは、この言論の場がオープンになり、誰もが自由に参加できるようになり、かつて公共圏を支えていたコーヒーハウス的な場がオンラインに再現されるということだった。ところがいま僕らの目の前に広がっているのは、互いを罵倒し合う人々や、自分が目立つためなら手段を選ばない人々たちのバトルロワイヤルである。そしてそれに嫌気が差した人々は、ネットから粛々と退却し、物理空間のコーヒーハウス(スタバ!)に集ってお喋りしている。

人々の多様な生き方や価値観に関心を持つことが求められるいま、ネットという場は広すぎ、多様すぎ、速すぎるのだと思う。人が許容できる「自分と異なる人々」には、量的な限界がある。本を読めるかどうかよりも、自分と異なる意見への「許容量」を一定程度確保して生きていけるかどうか、きっとそんなことが問われている。

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