もう20年近く、いわゆるマスコミに取材を受ける側なのだけれど、面白いことにこうしたお仕事のタイミングは集中することが多い。何か特定の事件が起きて、それについての取材が集中するというのではなく、それぞれ独立のテーマであるというのも不思議なのだけれど、この夏はたまたまそういうタイミングだった。普段はあまり取材のお仕事の紹介をすることもないのだけれど、振り返りがてら、掲載しきれなかった部分も紹介しておきたい。
オリンピックと誹謗中傷
8月の半ばに掲載されたのが共同通信配信記事のコメント。オリンピック選手への誹謗中傷が相次いだことを受けて、閉会のタイミングで配信されたようだ。
掲載されたコメントの趣旨としては「ネット上で誹謗中傷が相次ぐのは、プラットフォームが注目を集めることによって収益を得る『アテンション・エコノミー』になっているから」「プラットフォーム事業者による投稿削除とともに、選手側もSNSとの接触方法を学ぶべき」というものだった。
掲載されなかったコメントとしては、「SNSでは注目を集めることが収益につながるので、『こんなコメントはひどい』と反応することそのものがアテンション・エコノミーに寄与してしまう。一人ひとりが善意で気をつけるのではなく、プラットフォーム側での対処が求められる」という部分だろうか。この点は出演しているテレビでも述べたのだけれど、あまり理解されにくいポイントなのかなという印象をもった。
生成AIとリスキリング
勤め先でリスキリングについての取材記事が出たので、それを見た記者さんからの依頼でコメントした産経新聞の記事が、9月3日に掲載された。主にリスキリングについて話をしたのだけれど、コメントとしては生成AIを仕事にどう使うかという点に焦点が当てられている。お話をしていても記者さんはかなり勉強された上で取材されているようで、こちらが気付かされる点も多かった。
コメントの趣旨としては、「生成AIは仕事の置き換えというより業務の効率化補助に使われているため、かつてのパソコンのように覚えないと仕事にならないというものではない」「外部サービスを導入する形で用いられることも多く、利用のハードルは低い」「利用する意識の差が大きいため、導入にあたってはそれを埋めていく取り組みが必要」というもの。
ほぼ過不足のないまとめなのだけど、1点目については補足してもいいかもしれない。いわゆる「IT革命」なんて言われていた時代の業務の情報化というのは、紙の台帳をエクセルに置き換えるといった「アナログからデジタルへの移行」という性格が強く、文字通り「パソコンを覚えなければ仕事ができない」という危機感が強かったし、逆に移行しないところはずっと紙のまま、という状態だったわけだ。ところが現在の生成AIは、エクセルの操作を教えてもらうにせよ、データを纏めてもらうにせよ、あるいはアイディアの壁打ちをする場合にも、「なければないで、これまでも人の手でやっていたこと」を時短するために用いられる場合が多い。それゆえ、必ずしも「なければ仕事にならない」というものではない。
これが3点目につながる。生成AI技術じたいは、いわゆる「幻滅期」に入ったとも言われているけれど、「あらゆる人の生活を変える魔法の道具」というよりは「使いこなせる人にとっては便利な道具だが、なければないでどうにかする」というものになりつつあるから、単に導入するだけでは全社的な業務効率化にはつながらない。勤め先でもやれSlackを導入するとか、生成AIを導入すべきだという話になっているのだけれど、自分のように深く使いこなしている立場からすると小回りがきかないし、大多数の教員は教育・研究に活かしきれていないので、そのままでは単にアカウントの無駄遣いになりかねない。ユースケースの共有も含めた取り組みがなければ、業務の全体像が大きく変わるというものにはならないのではないか。
ちなみにコメントした部分以外の記事の趣旨もそうした指摘を汲んでくださったのか、他でも同じようなことを言われたのかは分からないけれど、そういった懸念を組み込んだものになっていた。
若者と政治
9月6日の日本経済新聞夕刊に掲載された記事。総裁選に向けて岸田政権への若者の意識を聞かれたのだけれど、記者さんも若い方で、永田町の常識と若者の感覚の乖離を感じていたところに僕の話を聞いて得心するところがあったようで、取材もとても熱の入ったものだった。ありがたい。
コメントの大きな趣旨としては「若者が政治に興味がないというとき、『政治』は非常に狭い意味に捉えられているが、SDGsやジェンダーなどの問題への関心は高い。狭義の政治を通じた社会変革に対する無力感が問題なのであって、より広い観点で政治を語れるようにすべきだ」という感じになるだろうか。
詳細部分を補足しておこう。まず若者の政治意識についてだが、関わっている研究チームで行っている調査のデータを見る限り、いわゆる「政治的有効性感覚」は低く、自分には政治を論じる十分な知識がないと思っている若者は多そうだ。一方で、世代比較をしてみると30代が自己責任重視であるのに対して、20代はむしろ福祉を充実させるべきだと考える傾向が有意に高い。踏み込んで解釈するなら、「政治に期待しても無駄なのだから、税金を払うくらいなら自分のことを自分でなんとかするべき」という30代に対して、「世の中には様々な問題を抱えた人がいるのだから、高負担・高福祉の社会を目指すべき」と考える20代というイメージ。
さらに別のデータになるが、SDGsの認知度に関しても10代は突出して高い。学校教育に盛り込まれたことが影響しているが、この点は環境問題に関する認知の世代差を生む要因になるだろう。もちろん、「問題があると知っていること」と「なんとかすべきだと考える」ことと「実際にアクションを起こす」ことはすべて別の話だ(これを心理学では「認知」「態度」「行動」と区分する)。とはいえ「知らないから関わらない」という人の割合が減るのは間違いないので、一定程度、態度や行動にもつながる余地はある。
とりわけSNSで政治的な態度を表明することが、周囲に警戒されたり、「芸能人が政治の話をすると萎える」といったコメントを寄せられたりすることにつながる風潮はいまでもあるだろう。ただ、その「政治」を特定の政治家や政策への意見にとどまらないもの、たとえば災害ボランティアの支援をしたといったものに広げれば、むしろ好意的な反応を呼ぶ可能性すらある。「政治的」と呼ばれる態度や行動の範囲を明確に定義しなければ、いつまでも「若者は政治に興味がない」という決めつけのままになってしまう恐れはある。
振り返って
こうして見ると「情報・労働・若者」といった、過去20年くらい扱ってきたテーマの最新の状況についてコメントしているので、変わらずこの分野で期待されているのはありがたいことだなと思う。一方で、少し前になるけど、7月に都知事選と若者の動向についてコメントした際にも記者さんと話したのだけど、それこそ若者のリアリティみたいな話であればより若い論者を頼るのが適切だろうし、年齢的にも立場的にも、より学術的エビデンスと専門性に基づいたコメントが求められるところに来ているというのはある。もちろん、個人的な所感だけをコメントするようなお仕事はしていないのだけれど、そろそろ「何を話してくれる人なのか」についてのカタログをアップデートするべきだなと思ったりもした夏だった。