「技術の進化と労働」というテーマは、もう10年も前からずっと話題になっているものの、そこで取り上げられる技術が日々アップデートされることもあって、尽きることのない関心を集めている。実はそれぞれの技術がもたらす影響は異なっているかもしれないし、話題になっていない技術が水面下で僕たちの生活を変えつつあるのかもしれないのだけれど、ともあれ、注目ポイントを変えながら「今度こそ人間の仕事がなくなるのではないか」という話が繰り返されている。
目下、もっともホットな話題は「創造的な分野における生成AIの利用が奪う雇用」だろう。具体的にはイラスト生成の分野において、この問題が大きくクローズアップされている。
とりわけ重要なのが、生成AIが学習に用いるデータが、制作者の同意を得たものでない場合、そして、それによって生成されたイラストが、もとの制作物と似たようなものになる場合に、その著作権上の扱いをどうするかということだ。実際、制作者としては自分そっくりの絵柄のイラストをAIが生成して、その権利がプロンプトを書いた人に帰属すると言われて納得するはずもない。この点については、自分の作品を学習されない権利や、その権利を保護するための簡便な仕組みの導入などが課題になるだろう。
創作活動に用いることへの批判
ただ、「そもそも創作活動に生成AIを使っていいかどうか」という話になってくるとちょっと複雑だ。iPad向けイラスト作成ソフト「Procreate」のCEOが生成AIへの嫌悪を表明し、それにクリエイターが賛意を表明したという記事では、データの学習によって、人々が生成AIを用いて手軽に、既存作品に類似したイラストから問題のあるディープフェイクまでを生み出すことができるようになったと論じている。
まず、この点をよく考えておきたい。僕たちはよく「ボタンひとつでなんでもできるようになった」というが、それは本当なのかということだ。生成AIを日常的に使っていれば分かるが、プロンプト一発で望む通りの結果を出せることなど、ほとんどない。ましてイラストともなれば、思うような結果を出力するには度重なる試行錯誤が必要になるし、場合によっては高性能なGPUを搭載した環境と大量の学習データを保存する領域を用意しなければならない。僕のようにこれまでもデジタルツールを使ってイラストを作成してきた素人からしても「これなら自分でやった方が、クオリティは低くても望む結果に近いものができる」と思うことの方が多い。
つまり、「AIで社会的に問題のあるデータも含めて、誰もがお手軽に生み出せるようになった」という主張そのものが、実態を幾分か誇張しているものである可能性が高い。ただ、こうした主張が出てくる背景もよく分かる。要するに、「創作物の本質は、その創造性ではなく、そこにかけた手間にこそある」という(創作者としては当然の)感覚がそこにはある。
一方で、生成AIで生み出された(人間が生み出したものよりもクオリティの低い)コンテンツが、そのように労力をかけた作品よりも利用され、普及してしまうのはなぜか。要するに「きちんと対価を払って描いてもらったイラストと、生成AIで生み出した不完全なイラストの市場価値が等しいから」ということに尽きる。そこまでコストをかけなくても、こっちで十分じゃないか、というわけだ。
これは経済学における古典的な論争、すなわち商品の価値の源泉は投下した労働量にあるのか、市場メカニズムにおける需給バランスに由来するのかという話だ。前者がいわゆる「労働価値説」といって、リカードからマルクスに至る経済学の流れを形成している。一方、現代の経済学の標準的な理解では、投下労働量は商品を生み出すコストの一部に過ぎず、したがって商品の価値の唯一の本質ではないということになっている。後者の立場に従えば、同じ結果をもたらす商品が少ない労働投下で得られるのであれば、それは「効率的」だということになる。
お手軽だからこそ広がる裾野
「既存の作品に類似したコンテンツが生成される」という問題と「なんでもお手軽に作れてしまう」という問題を切り分けて、後者について考えてみよう。既に述べた通り、現在の生成AIは「なんでも」「お手軽に」作れるとは限らないが、少なくともまったくスキルのない人が、文字からイラストを生み出すことができるようになったことは確かだ。ではこれは、時間をかけてスキルを磨き、その人にしか描けないイラストを創造すべく努力してきた人にとって、自分のこれまでを否定されるような出来事なのだろうか。
実は、これまでコンピューターを用いたクリエイティブソフトのほとんどが「素人でもプロ並みの作品が創れる」ことを付加価値にしてきた。当初はPhotoshopでレタッチをするにも、色の三原色と光の三原色の違いとか、トーンカーブが意味するものを理解する必要があったのだけれど、いまではそれらのレタッチも、AIによる自動の範囲選択とプリセットで行えるようになった。というよりもこれらの機能は、Adobeと契約しなくてもスマホの無料ソフトでほとんどできてしまう。だから今の人たちは、僕が20数年前にPhotoshopを使い始めたときに覚えたことを、何一つ学習しなくてもよくなっている。
ブラシにしてもそうだろう。いまや、ネット上でフリーのブラシを探し回らなくても、PhotoshopやIllustratorで使える効果的なブラシがプリセットでたくさん揃っている。Procreateにも無数のブラシライブラリがあり、普通のブラシでエアブラシのような効果を出すために細かな設定をする必要もなくなった。これらは「創作のためにかけてきた努力」を無にするものではないのだろうか。
もちろんそう思っても構わないのだけれど、こうした「素人でもお手軽にできる」ようになったことがもたらしたものについてはきちんと考えるべきだ。つまりこうした機能やソフトは、専門的なスキルを学ぶ時間やその他のコストをかける余地のなかった人を、創作の世界に引き込み、裾野を広げたということだ。そのことが結果的に創造的な活動を活性化し、新たな創作物を生み出したのである。油絵の具を扱う人は増えなかったかもしれないが、油彩画のようなイラストを描く人は増えたはずなのだ。
今回はイラストを中心に書いているけれど、僕がこういうことを考えるのは、VOCALOIDブームを通ってきた音楽制作者だからだ。VOCALOIDが生み出したのは、自分で歌うことができなかったミュージシャンが「歌もの」を作ることができるようになったという話にとどまらない。VOCALOIDによって広がった市場は、それまで「コンピューターでプログラミングして楽曲を演奏する」ものだったDTMの世界を、「コンピューターでレコーディングからミックスまでを完成させるワークフロー」へと進化させ、数百万円かけなければ構築できなかったそのシステムを、高校生がノートパソコンひとつでできるものに変えたのである。そしてそれは、いまこの瞬間にも、都市部に住んでいるわけでもないたくさんの10代の少年少女が、自作曲をネットで公開するための技術的基盤になっている。
市場価値の低下とネオ労働価値説
実は僕は、初音ミクが登場した直後に、当時連載していた某紙の記事で「VOCALOIDは人間の雇用を奪うのか」という点について書いている。そこで主張したのはこういうことだ。つまり、VOCALOIDは確かに、ミュージシャンが仮歌を作る際にそこで歌ってもらうシンガーの仕事は奪うかもしれないが、それによってかえって、技術では再現できない歌唱力をもった人の市場価値が上昇するのだと。
なぜそう言えるのか。「素人が誰でもお手軽に、プロ並みの作品を作れるようになる」というのは、言い換えると「専門的スキルが陳腐化する」ということを意味する。これまで人間が生み出してきたありとあらゆる生産技術は、従来、職人の手によって行われてきた作業に関わるスキルを陳腐化させ、その代わりに「誰もが扱える」ことによって生産を拡大することに寄与してきた。創作に関してもまったく同じことが当てはまる部分はある。
ただ、大きく違う部分がある。それは創作物が工業製品と違い、その価値を客観的に数値化できないということだ。こうした商品のことを専門用語で「信頼財」と呼ぶ。工業製品は規格化されているので、数値で測れる部分が同じなら同じ製品だと見なすことができるが、たとえばバンクシーが壁に描いた絵と同じイラストを僕がスプレーで壁に描いても、同じ価値にはならない。両社の差を生んでいるのは、それを観る人(すなわち市場の評価)が、バンクシーの手によって描かれたという事実を価値の拠り所として信頼しているからだ。
20世紀のポップアートは、製品が大量生産される工業社会への皮肉も込めて、自らの作品を商品として大量にコピーしたのだけれど、デジタル時代には、データのコピーのための限界費用はほぼゼロになっている。言い換えると同じようなデータは世に溢れ、データ当たりの限界価値も限りなくゼロに近づいていく。
問題は、陳腐化され、限界価値がゼロになったデータを人々がありがたがるのかということだ。むろんそういう人もいるだろうが、「無料のデータで構わない」という人は、その商品に対する強いニーズをもっていないということなので、言ってみれば「あってもなくてもいい」という人たちになる。逆に商品に対するニーズが強いということは、「お金を払ってでも良質なものがほしい」と思っている人たちである。
先に述べたように、創作物の価値が信頼財的な性質を有しており、そこにお金を払ってもいいという消費者が一定以上存在すると仮定するとき、この人たちの「信頼」の根拠になるのは何か。それはまさに「生成AIを使わずに人が作った」という点にある。「寿司」を工業的に製造することが可能になったからといって「職人が握った寿司」の価値が低下するわけではなく、むしろ「やっぱり職人が握った寿司は一味違う」という消費者が一定数存在するのと同じだ。
データを限界費用ゼロで生成できるようになった世界では、投下した労働量こそがもっとも重要な価値の源泉になるという「ネオ労働価値説」が跋扈するのかもしれない。そのとき創作者は、生成AIを批判するよりも「AIに頼らずこれだけの手間をかけた」ことを創作の価値としてPRしなければならなくなるのだ。