2024年11月17日に行われた兵庫県知事選挙は、その発端となった一連のパワハラ疑惑により失職した斎藤元彦氏の当選という結果になった。学生たちからも「今回の選挙、誰に投票すべきですか?」という質問を度々受けたし、ふだん政治の話なんかしない美容室のお姉さんまで「どうなんでしょうねえ」なんて言ってたから、少なくとも周囲でも関心が高まっているとは思っていた。
他方で、そもそもこうした選挙においては実績をアピールできる現職の方が有利だし、この数年、選挙街宣カーの姿を都心部以外でほぼ見なくなっていることも含め、ネットの情報の影響力が相対的に高まっていることは感じていた。直前の動勢調査を噂で聞いていた範囲では、投票日が近づくにつれ「本当に斎藤氏の再選があるかもしれない」という確度が高まっていたので、「意外な結果」だとは思わないけれど、それでもネット上には驚きの声が広がっているようだ。
NHKの報道によれば、出口調査の結果では、投票者の30%がSNS動画サイトを参考にしたと答えており、そのうち7割が斎藤氏に投票したのだという。斎藤氏に批判的な態度を有していた人からすると、「ネットの世論誘導が選挙結果に影響を及ぼすようになったのか」という感想と、言いしれぬ恐怖をおぼえるところがあるかもしれない。一方で動画経由で斎藤支持に回った人々からすると、「マスコミの情報を鵜呑みにして一人の政治家が政治生命を絶たれそうになることの方がよっぽど怖い」と思うだろう。
陰謀論との親和性
ネットの影響による政治的態度の極性化や世論の分断について研究してきた立場として言えるのは、こうした不安や恐怖を、断片的な情報と、それをつなぎ合わせる「解釈」で埋め合わせようとするのは危険だということだ。自身もかつてネット右翼だったという政治学者の秦正樹氏は、陰謀論が広まる過程について以下のように述べている。
…陰謀論は目の前で起きている現実を是認できないときに生まれやすい。「あるべき現実」との乖離が大きいとき、その乖離を埋めるためのストーリーとして陰謀論が生まれ、支持を得ていく。
陰謀論は演繹法的な考え方で組み立てられる。自分の考えに沿う沿わないにかかわらず、一つひとつの事実を積み上げることで真相に迫っていく帰納法に対し、陰謀論は望ましい結論が先にあり、その結論に合うような理屈だけを抜き出して組み上げる。
いずれの立場であれ「こうなるはずがない」ということが現に起きたときに「こういう力が働いているとすれば合理的に説明がつく」と考え、それを検証することなく真実だと受け止めることから、陰謀論は生まれる。まず必要なのは、今回の結果を望んでいようといまいと、それがたった一つの説明図式で解釈可能とは限らない、という構えを持つことだろう。
第三者効果と「賢い私」
また、今回の選挙が「ネット(動画サイト)vsオールドメディア」という図式で語られがちであることにも注意したい。ポイントは、一方が「多くの人はネットのデマを真に受けて投票したのだ」と考え、他方が「やっぱりマスメディアの世論操作が人々を惑わせていたのであり、それに気づけた自分は正しかったのだ」と考えている節があるということだ。
こうした「自分は正しく情報を受け止め、判断する力があるものの、大半の人は自分のような判断力を持っておらず、したがってメディアの情報に容易に踊らされがちなのだ」という見方をすることを、社会心理学では「第三者効果」と呼ぶ。第三者効果は、メディア規制と結びつけられることが多いのだけれど、今回で言えば斎藤氏を支持しなかった側は「ネットを規制すべきだ」と考えるし、逆に支持した人は「マスゴミは解体すべきだ」と考えるかもしれない。どちらも「自分以外の人はみんなバカなのでメディアを規制しないとまずい」と考える点では共通する。
だが、実際にメディアがそのような影響を及ぼしたのかは分からない。というよりも、第三者効果の背景にあるのは、「自分の判断は理性的なものであり、決していい加減なものではない」と考える人間の思考のクセだ。人によっては「確かに自分は動画サイトを見て投票先を変えたけれど、それは動画の情報を真に受けたからではなく、対立候補の言うことより筋が通ってると、しっかり考えた結果だ」と思っているかもしれない。というより、そもそも「メディアに踊らされた人」と「しっかり考えた人」の間に線を引くことも難しいのだ。
不安を保留する
世論の分断に関する研究においては、アメリカのような極端な分極化(世論が二分されること)を起こすケースのほうがレアで、多くの国は一部の市民が極性化(極端な意見を持つこと)することはあっても、分断と呼べるような状況には陥っていないというのが現在の主流の見方だ。特に日本の場合は、意見の拡散が行われるSNSの利用者が、特に高齢層において他国より少ないため、ネットの影響力は限定的であると見なされてきた。それゆえ、ネットの極端な意見は単なるノイジーマイノリティであり、世の中の大半は中立的・穏健な意見を持っているとも言われてきた。
今回、斎藤氏に投票した約110万票というのは、有権者全体の20%強に当たる。また投票しなかった40%強の有権者の態度も明らかではない。ただ、マーケティングの普及理論(イノベーター理論)の知見を援用するなら、20%というのは「みんなが消費している」と考え始める割合ということになるので、少なくともマイノリティではない。他方、2位だった稲村和美氏も約100万票を得ており、こちらもマイノリティとは言えないサイズになっている。
僕が危惧するのは、社会が「不安」に覆われることによる世論の分断だ。少なくない数の人が、自分と異なる意見を持つことが明らかになり、その相手を「メディアに踊らされて誤った信念を持つようになった人なのだ」と解釈するとき、そこに大きな不安が生まれる。「ネット動画で見たんだけど、斎藤さんはハメられたんだって」と親が電話してきたり、「斎藤さんの集会に集まってる人ってSNSを真に受けた陰謀論者なんだって」と友人に言われたりしたとき、強い意見のない人ほど相手に対して「え、こわ…」と思うのではないか。
その不安や恐怖は、「ネットに踊らされている人がいる」という話だけでなく、そうした話を自分に振ってくる相手にも向けられている。それは、ネットで余計なことを書くと炎上したり誹謗中傷を受けたりするという不安にもつながる。特にネット言説においては、いかに相手が間違っており、愚かであるかを指摘することが、自分の賢さや正当性を主張する手段になりがちで、意見の異なる人と対話する理性は賢さの中に含まれないことが多い。「怖い怖い」と思う人が沈黙するほどに、自分こそが正しく、相手は完全に間違っているという物言いだけが幅を利かせるようになる。
このエントリこそ、まだ詳細がはっきりしない状態で、いろんな解釈で断片的な情報をつなぎ合わせて論じているのだけど、なぜそうしているのかというと、「不安を一旦保留する」ことが大事だと考えたからだ。僕たちは自分で思うほど賢くはないし、一方で他人も自分が思うほど愚かではない。それは言い換えれば、まだ「話せば分かる」余地があるということのはずなのだ。