直感で決める

雑記

仕事柄、質問をするよりは質問を受ける側に回ることが多い。授業での質問のような「正解の答えがある」ものだけではない。とりわけメディア関連の仕事では、知識だけでなく「なぜそうしたのか」を問われることが多い。最近どこそこに行かれたそうですがなぜですか、云々。そして、そのたびに戸惑っている。「特に理由はない」「なんとなく」という場合がほとんどだからだ。

振り返ってみると、人生の重要な決断は大半が直感に基づくものだったと思う。実は、「直感で決める」ということにも2種類あって、「直感でそうしたいと思った」というものだけでなく、「そうすべきだと思った」というものもあるのだ。わからないけど、なんとなくこっちだと思う。いま自分はこっちに行くべきだと思う、という「導き」に対するインスピレーションで物事を決めていると、「どうしてそうしたいと思ったのか」という質問には答えようがない(答えたとしても、ちょっとスピ入った人なのだなと思われるのがオチだ)。

人生がすごく楽になったなと思うのは、その「導き」に人を巻き込む気が薄れてきたことと関係しているかもしれない。若い頃は「自分のセンスに従ってみんなを煽り立てて世の中を変えていくこと」に対する情熱もあったし、だからこそ分かってもらえない、人が思うように理解してくれないことに対する苛立ちも強かった。同時にその苛立ちは、人の何倍も頑張らないといけないのだという切迫感や行動力の源にもなっていた。まあ要するにポジティブにもネガティブにも元気だったのだろう。

歳を重ねてくると、そういう元気さがなくなる代わりに、しなやかさが増してくると思う。周囲への無理解に対する苛立ちが諦念に変わる一方で、分かってくれない人がいたからといって自分の直感やそれに基づく判断は傷つけられたりもしないと思えるようになる。そうなってくると、自分の思う方向とは違う方に走っていく人がいたとしても、「きっとそこには何らかの意味があるのだろう」と鷹揚に構えられるようになる。

先日、若い研究者とご飯を食べる機会があったのだけれど、気づけばずっとこちらが後輩か、付き合いの浅い同年代みたいな口調で話していた。いや、周囲の尊敬すべき先輩方にもそういう態度で接してくださる心の広い方々はたくさんいたので特別なことではないのだけど、自分がそんな風になっていたことに驚いた。単に体力がなくなって丸くなったわけではなく、そうすべきだという自分の中での「導き」があったのだと思う。

とはいえ、そんな風に思えるようになったのもこの数年のことだ。というかほぼコロナ禍のせいだ。ほうぼう駆けずり回ってバーンアウトしそうになるところまで自分を追い込んだ反動もあるし、大きな社会変動を前にしても揺るがない価値を模索するようになったこともある。でもそれより自分を変えたのは、人を巻き込むにしても、『北風と太陽』のお話のように、無理に人を煽り立てるのではなく、周囲が自然とそうしたくなるような環境を作っていくことが結果として人を動かすよねというのが、いまの「モード」なのだという直感だ。

その直感に従って行動してみたら、楽になっただけでなく、結果的にいろんなことがうまく回るようになってきたと思う。そもそも僕の仕事は「どう考えたらいいですか」「どう動けばいいですか」と訊かれることに対して答えを出すというものが多い。だから「分かんないけどこうした方がいいよ」って言ってあげないといけないのだけど、気がついたらその方向性に、ある程度の幅はありながらも巻き込まれていく人の輪のサイズが大きくなりつつある。妥協したり投げやりになったりしなくても、「大まかに言うとこっち」という流れが周囲に生まれてきている。

具体的には、いくつかの研究プロジェクトに参加したり、企業と協働する案件が入ってきたりと、こちらから必死に働きかけなくても、「その方向はいいですね」と言われる場面が増えたねということなのだけど、それによってこちらも少し元気になり、発想も豊かになり、以前よりも「大丈夫かも」と思えるようになった。対面で接する人に対して価値を提供することが増えているので、書き物の仕事をすることは減ったけれど、今年はようやくそちらにも手を付けている。

ふてくされてばかりの30代と40代を過ぎ、分別はつかないまま歳だけはとってもう40代もラストイヤー。自分にも世界にも何が起きるかは分からないけれど、自分の中の「導き」の声を探しながら、もう少しだけ進んでみる。

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