『君の名は。』と「蝶々結び」――結びの物語

雑記

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これまでも新海作品には触れてきたし、そこで描かれる作品構造についてもいろいろと考えてきた自分としては、『君の名は。』が事前評判通りに大ヒットしていると聞いては見ないわけにいかないだろうということで、公開二週目の週末に鑑賞してきた。梅田の映画館は満席で、上映後にはあちこちからすすり泣きの声が聴こえるという状態。数字という面だけでなく、質的にも大ヒットと言っていいだろう。

僕の中で新海誠の作品は、いつも「セカイ系」という名前でくくられていたように思う。あえて雑な見方を提示するなら、ここで「セカイ系」は、「きみとぼくの物語が世界の危機に直結されており、二人の関係が成就することで世界もまた救われる」という構造を持つ一連の作品を指す。また、そうしたミクロなセカイの幸せがマクロな世界を救うという楽観的な発想も、ときに批判の対象となる。そこで新海作品は、『ほしのこえ』がそうであったように「設定としてありえない、安直過ぎる」という批判と、「泣けるんだから細かいことなんてどうでもいいじゃん!」という擁護の間に立たされていた。今作においてもティアマト彗星の軌道についての疑問が提示されているが、この描写を巡る議論もまた、同じような構図の中にあるように見える。

僕自身は一切の予備知識抜きで鑑賞しに行ったのだけれど、一目見て「んなわけねえだろ」とずっこけたものの、これはもうそういう物理法則の世界なんだと思い込むことにした。社会的な背景も含めて設定を緻密に練り込んだ作品が、上映後「んー、なんだかよく分からなかったー」と言われているのを何度も耳にした。「泣けるんだからいいじゃん」とまでは思わないが、というか瑣末な問題だとも思わないが、それはそれとして受け容れるくらいの余裕はある。

でも僕がもっとも心に残ったのは別のことだ。それは今作が新海作品の中ではこれまでと大きく異なる作品構造を持っていて、同時にこれまでと共通するモチーフにそれがうまく接続されているように思えたからだ。以下、作品のネタバレを含む感想を書いていくのだけれど、それはあくまでパーソナルな、要するに僕にとって意味があった部分についての記述になる。作品全体の批評とは、切り離して読んでもらいたい。

新境地を開いた作品構造

これまでの新海作品から僕が読み取った構図であり、またもっとも不満だったことのひとつが、登場人物たちのモノローグ性だ。男女がいる。ふたりはメールだとか手紙だとか、なんらかのメディアを介してしかコミュニケーションの取れないような限定された関係にある。その限定された関係の中に没入する瞬間にだけ、彼や彼女は日常を離れて別の時間を生きることができるのだけれど、その関係性は限定的なものであるがゆえに決定的に相手には届かず、関係は不成立に終わるか、発展的に解消される。登場人物たちは、モノローグを通じて自分の心情は吐露するけれど、それが相手に届いたとか、あるいは相手からの期待はずれのコミュニケーションに直面したとかいう場面は登場しない。『言の葉の庭』あたりにそういう関係を読み取る人もいるかもしれないけれど、僕の受け取り方はあれですら一方通行の気持ちの投げ合いでしかないと思う。

このあたりの感覚は、自分が社会学を専門にしているから出てくるものだろう。社会学における二者関係(ダイアド)の捉え方にもいろいろあるけれど、少なくとも「独立した意思をもった主体の間でコミュニケーションが成立するというのは自明のことではない」という見方は共通しているのではないか。投げかけた言葉がその通りに受け取られないことも、伝えるつもりのなかったことの方が大きく受け取られてしまうことも、僕たちの生活ではありふれた出来事だ。そうしたすれ違いをどうやって埋めるかについて苦心するのが親密な他者とのコミュニケーションの現実だとすれば、新海作品においては、想いは両者の間で一致しており、障害となるのは環境だけ、ということになる。物語としてはそちらの方が古来から存在する形式ではあるけれど、コミュニケーションの困難について日々考えるような人間からすると、そんな簡単なものかなあと思えてしまうのだ。

では今作においてはどうか。確かに物語の中盤、彗星から分離した隕石によって糸守が全滅したことが明らかになって以降の物語は、これまでの新海作品のように「想いのつながった二人が別々の環境に引き裂かれている」という構造に展開していく。しかしながら大きく3つの点で、そこにはこれまでになかったモチーフが持ち込まれている。

1つ目は、瀧と三葉のやりとりが偶発的に生じたものであり、それゆえに先程述べた社会学的な意味での「コミュニケーション」を経なければ、相互理解や共感に至らなかったという点。秘密を共有する二人の間で心理的な距離が近くなるのは珍しいことではないが、少なくとも最初の段階では反発しあっていた二人は、限定された環境でのコミュニケーションを経て思いを通じ合っていく。

2つ目は、作品世界の中に奥寺先輩をはじめとする「他者」がいること。奥寺先輩も勅使河原も、それぞれ瀧や三葉に思いを寄せているかのような描写があるが、二人の思いは最終的に別の相手へと向けられることになる。こうした存在が登場することで作品世界の奥行きが増すのだと思うけれど、記憶する限りここまでメインキャストにフィーチャーされる人物が、それぞれ独自の思いを持っていたというのは初めてじゃないか。さらに言うなら、三葉が糸守で背負っている立場や役割といったものも、単なる彼女の思いを際立たせるためのカキワリではなく、一方ではもう町を出たいという抑圧になりながらも、亡くなった母や自分を育ててくれた祖母への思いなどとの葛藤もあり、社会的に複雑な地位を受け容れざるを得ないといった形になっており、彼女は「社会内」の存在として描かれている。

3つ目は、多くの人が思ったことだろうけれど、ついに二人が「出会えた」ということだ。タイトルの元ネタになった方のラジオドラマ「君の名は」で二人が出会うのは数寄屋橋。橋というのはあちらとこちらの架け橋だから、そこには異なる環境を埋め合わせるというメタファーがある。一方で今作のエンディングに登場するのは「階段」。これは三年の時間差=年齢差を埋め合わせるというメタファーなのだろうけど、そのことひとつをとっても観客は、エンディングのあとの両者が無事に出会い、名を名乗ることができたのだろうと予感できる。

想いの届かなさの届かなさ

と、分かったように解説しているものの、実は僕がもっとも心に残ったのが、この二人の出会いだった。その時に思ったのは、多分誰もこんなことを考えてないだろうけれど、二人が生きてきた8年とか5年という時間の間に存在したであろう、瀧や三葉の元恋人たちのことだ。

『秒速5センチメートル』の中で主人公の高樹は、社会人になり、3年付き合った相手に「1000回メールしても、心は1センチくらいしか近づけなかった」と言われてしまう。彼の中にはずっと明里がいて、心は彼女のほうを向き続けている。それは恋情の純粋さという点では、作中に出てくる雪や桜の風景と同じように美しいが、どれだけ思っても近づくことのできなかった相手からすると悲劇でしかない。いや、悲劇ですらないのかもしれない。自分が想いを寄せている相手の心のなかにずっと別の誰かがいて、それが誰なのかは相手にも分からず、ただまぼろしの想い人をライバルにして、ひたむきにその人を愛さなければならないというのは、ひりひりとするほど、辛い。

誰かを思い続けるというのは、別の誰かの気持ちを踏みにじることにもつながる。お互いのことをぼんやりと心に描いていた日々に、偶然互いを見つけ出す瞬間が現れ、走りだした瀧と三葉を見ながら僕が涙したのは、おそらくその陰に、ああ、もうこれでこの人の幻影の想い人と張り合わなくていいんだと安堵する人たちの姿が見えたからだ。想いが届かないと思っている人のもとに届かなかったいくつもの想いも、これでようやく解き放たれたのだと思った。

もちろん、それは作中に描写されているわけではなく、僕がそう読み取ったということに過ぎない(だからパーソナルな感想なのだ)。だけれども、作品世界が「社会」としての厚みを増し、想い合っている二人のことだけを描くわけにはいかなくなった今作において、そういう読み取りは決して過剰なものではないと僕は思う。

「結び」の意味をめぐって

では、なぜ今作に限って二人は出会うことができたのか。そのことについて解釈する上でまずヒントになるのは、一葉が語る糸守の伝承に登場する「結び」という概念だ。

おそらく「結び」は、神道でいうところの「ムスヒ(産霊)」にあたる。民俗学的な解釈としては、「ムスヒ」は「ムス+ヒ」であり、「苔生す」といった語で使う、発生・生成を意味する「ムス」を美しく讃えた言葉であるという本居宣長の説が長らく継承されてきた。いわゆるアニミズム的な、あらゆるものが神の力によって生成し、再生する力が、信仰の対象となっていた古代日本の宗教意識である。さらに、柳田國男−折口信夫による解釈では、この霊力の原点には、天照大神に先立つ「元の神」「既存者」があったという。しかも元の神であるところのタカミムスヒには、落雷などの神威が宿っていたという(この点について、歴史学者で東大名誉教授の保立道久氏のブログに詳しい)。

こうした説が作品世界にどの程度反映されているのかは分からないが、鑑賞する限りにおいては、1000年に1度の隕石落下によって甚大な被害を被った糸守において、はじめ「結び」は神からの圧倒的な力を伝承する神的概念としての「ムスヒ」であったものが、大火によって伝承が途絶え、祭りの形式だけが残る中で「結び(破壊からの再生を司る神の力)」という語として残ったという側面と、シャーマンの家系である宮水神社の女子がもつ、外部の人間との意識の交換を通じた、彗星の災害の回避という能力を指す概念としての「結び(危機を回避するために他者と結び合う霊的な力)」に置き換えられていった側面があったと読めた(二葉が早世するのも、シャーマンの家系だからだろうか)。秋祭りの日に隕石が落下するのも、この時期が文字通り集落をあげて危機に対応しなければならないという都合の上に打ち立てられた行事だったからなのだろう。

もう少しだけ読み解くなら、三葉の口噛み酒を瀧が体内に入れることで入れ替わりが発生するというのも、民俗学的にはさほど違和感のある描写ではないと思う。「ムスヒ」には「魂」の字を当てることがあることからも分かるように、日本の伝承の中では、肉体というのは魂の入れ物であって、さらにはその魂は肉体を替えて継承可能であるとされており、霊的な力の本体はあくまで肉体の中身の方にあると考えられてきた。宮水神社の伝承を見る限り、この口噛み酒は災厄をもたらすムスヒの神への生け贄代わりとして捧げられているように思えるので、そこに三葉の半身=魂の半分が宿っているという考え方は正しい。口噛み酒を飲むという行為は、文字通り半分は逝ってしまった三葉の魂の残りを身に宿すことで、もう一度三葉の魂と「結ばれる」という意味を持つ。ちなみに洞窟の中に入って死者に再び見舞うとか、黄昏時に死者に出会うというのもまた、日本の伝承の典型である。

というわけで二人が出会えた理由のひとつには、この「結び」の概念がもつ霊的な力があった、ということができるだろう。そしてもうひとつ注目したいのが、この「結び」の概念を含む脚本を示されて主題歌を書いたというRADWIMPS、野田洋次郎の歌詞の世界観だ。

「せーの」で引っ張って

野田は、本作の公開に先立ってAimer(エメ)という歌手に「蝶々結び」という曲を書き下ろしている。おそらく彼女にとってもエポックとなる作品だと思うけれど、『君の名は。』と重ねて考えた時に、この曲の歌詞の内容は非常に興味深い。

歌詞の内容はシンプルだがとても切ない。想い合う男女の感情を「蝶々結び」に例えて、二人で一緒に結び目を作ることを呼びかける歌だ。しかし、一人で作るならまだしも、二人で蝶々結びを作るのは簡単なことではない。歌われている通り、息を合わせて、同じだけの力を込めて糸を引っ張らなければならない。一方が力を入れすぎれば不格好になるだけでなく、結び目がほどけてしまうのが蝶々結びなのだ。想い合う二人の結びつきの表現としては、過去に聞いたことがないほどに情緒的で叙情的だと思う。

2009年に僕は『エクス・ポ』でRADWIMPSの『アルトコロニーの定理』についてこんなレビューを書いたことがある。野田洋次郎の書く歌詞の世界において主人公ははじめ、絶対的な自己の全否定と「彼女」による絶対的な自己肯定を歌っていた。それは「ラッキー」によってもたらされたものでしかなく、彼女との身体的、あるいは魂のレベルでの合一という究極の願いによってしか安定することのないものだった。しかし同作において野田の歌詞は、明確に「彼女抜きの自己肯定」へと展開しており、それがポスト・ゼロ年代の希望につながっていると。

その後、彼の歌詞には彼女への恨み言だとかヤケクソのような自己肯定だとか、あるいはそれ以前からもあった世界の成り立ちに対する呪いだとか、様々なモチーフが描かれている。しかしながら『君の名は。』のテーマソングに使われた「前前前世」をはじめとする4曲と、この「蝶々結び」では、明らかにもうひとつ世界観が先に進んでいるように見える。それを一言で表すなら「決してひとつになることのない他者と、別々の人として一緒に生きていく」という有り様だろうか。

「蝶々結び」の中で野田は、結び目を作るときだけでなく、もし結び目を解く時が来ても、その時も一緒に「せーの」で引っ張って、と歌う。すれ違ったり、相手が一方的に引っ張って結び目を解くのではなく、別れすらも一緒に、というのだ。「ラストバージン」の中で「あなたの当たり前になりたいと言う/そんな日がくればいいなと言う」と儚いことを言う相手に対し「何も始まることのない終わりまで」続く約束をしようと答える主人公がそうだったように、ここで野田は、想い人との結びつきを、魂の合一ではなく、別々の二人が一緒になって努力をして叶えていくような、それによってしか実現されないようなものとして描いている。『君の名は。』で使われた「夢灯籠」でも「消えることない約束を 二人で「せーの」で言おう」と歌われているように、息を合わせて、二人が同じであるように働きかけるという恋愛観が、近年の野田の歌詞には登場する。

こうして見たとき、瀧と三葉の二人が出会えた理由は「ふたりがともに同じだけの力で出会おうとしたから」という風には言えないだろうか。瀧が三葉に会いに行ったように、三葉もまた瀧に合うために東京に出ていた。二人はクレーターの縁で、異なる時間軸の中で互いを探していた。ラストシーンにおいても二人は、互いの姿を認めるまではもやもやした気持ちを抱えていたものの、その気持の出処を求めて一方だけが誰かを探しに行くということはなかった。二人が同じ気持で同じだけの力を込めて相手を求めた時に、ようやく二人は出会うことができるのである。

新海作品がひとつ先のステップに進んだと思うのは、間違いなくこの点にある。思えば彼の作品に対する不満は、先に書いたとおりそのモノローグ性、言い換えれば、『秒速5センチメートル』に典型的だったように、自分が抱いている「純粋な」思いの影で傷ついたり困惑したり、もっと言えばその想いのカキワリにされている存在がいることへの鈍感さがあった。しかしながら『君の名は。』において、そうした人びとは自分の意志を持ち、自分の人生を生き、感情と存在感を与えられている。そうした当たり前の社会の中で、「思えば叶う」のではなく、まして「行動すればすべて現実になる」のでもなく、異なる意志を持った他者と「せーの」で一緒になる。それは間違いなく、僕たちが手にすることのできる一番まともな希望であると思う。

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