転身
「人生が変わる年」というものがある。それは大抵の場合、自分の外で何らかの転機となる出来事が起きるような年のことを意味している。対して僕の2025年は、自分の生き方を見直して、これまでのルートから外れる選択をする「転身」の年だったと思う。
春先のブログにも書いたように、その転身は決心とか決断という類のものではなく、もっと運命論めいた、「これから自分はこうなるのだろうなあ」という予感に基づく自然なものだった。そして果たせるかな、その予感はほとんどが現実のものになった。
年の初めに立てていた目標のひとつが「自分の世界を出て、外の人と関わる」というものだった。昨年時点で決まっていた仕事やプロジェクトもあったのだけれど、こちらから何のアクションも起こしていないのに、向こうからお声がけいただくことも多かった。思えばこれまでの人生でも「こうなるだろう」と予感していたことは、大抵の場合その通りになってきたのだ。いいことも、悪いことも含め。

終活
なので、今年の自分の環境の変化に関しては「意識して選んだ」というよりも「自然の流れでそうなった」というものが多い。でも、その変化の中で意識して行ったこともある。ざっくり言うと、「そろそろ終活をはじめよう」ということだ。
別に健康上の問題があるとか老いを感じているとかいうことではない。むしろまったく逆で、たぶん(荒れていた20代とは比較にならないとして)30代の頃とほとんど変わらない生活ができているし、なんならちょっと元気になっているフシまである。でもそれゆえに、「いつ何があってもおかしくないんだよなあ」と思うところもある。残り時間を、どうしたって意識はする。
まずやったのが断捨離だ。今年は生活環境が大きく変わる年でもあったので、そのタイミングで蔵書だとか思い出の品だとかの類をほとんど処分した。残ったのは、楽器と服とパソコン。何かを生み出すのに使うもの以外は持っていなくていいと思った。人文界隈ではオーラルヒストリーの聞き取りが流行しているけれど、僕の人生はこの瞬間にだけあるものなので、わざわざ背負い込む過去を増やす必要なんかないのだ。
分身

そんな風にクリエイティブに全振りしたのが今年だったのだけど、特に創造性を支援してくれたのがAIの進化だ。以前の記事で書いたように論文も生成してくれるし、音楽周りでも作曲AIの音楽性や音質はどんどん向上している。これも文章と同じで、生成されたものをそのまま使う「コピペ」ではなく、「こういうコード進行やアレンジがあるのか」というインスピレーションを得るために用いれば、創作活動は以前よりもはるかに刺激的なものになる。
気づいた人がいるか分からないけれど、少し前に書いた生成AIに関する記事4本は、9割がたの文章をAIが生成している。僕がこれまで書いたブログの文体を学習させて、論理展開や文末表現のバリエーションなどを分析させた後に記事のアウトラインと参考資料を投げると、いかにも僕が書いた風のブログができあがる。文豪の文体を真似た記事を書いたり、名作曲家風のオーケストラを生成したりすることを誰もができる時代が、もう数カ月先まで迫っている(なおこの記事はすべて自分で書いている)。
AIにライティングをさせていて面白いと思うのは、どこまでが自分の考えだったのか曖昧になる点だ。「こんな表現、自分なら絶対にしない」と思っていても、「まあ、これもこれでアリか」となるし、まったく想定していなかった論点に、「もしかすると自分はこういうことが言いたかったのかも」とすら思えてくる。AIはいまや自分の分身(ゴースト)になっている。
あらゆることが自動化される時代に、人にしかできないことは何かという問いが、世の中を覆っている。僕が考えている答えは「楽しむこと」だ。たとえば手料理。節約のために自炊するという人もいるけれど、少なくともお金を出せばプロの料理が食べられる時代にわざわざ手料理を作る人というのは、料理が楽しいからやっているわけだ。同じように、文章を書くこと、写真を撮ること、歌を歌うことのような創造的な活動は、プロになってお金を稼ぐためでなくとも、楽しければそれでいいはずなのだ。
祈り
けれどそうやって、純粋に楽しむというのが難しい。手料理であれば自分で食べて満足かもしれないが、欲が出るとすぐ写真を撮ってSNSに投稿したくなるし、公開したら評価もされたくなる。自己満足を自己満足で終えられなくなる罠が、僕らの周りに張り巡らされている。
なにもSNSに限った話じゃない。僕らはいまや、自分がどう感じるかよりも、自分以外の人がどう感じるかを先回りして自分の行動を決めるようになっている。誰かを傷つけたくないからではなく、「ハラスメント」と認定されることが怖いから自分の言動を抑制する。非難される側に回るのが嫌だから、「そういうことを言って傷つく人がいたらどうするんですか」と必死で非難する側に回る。どうするって、謝ればいいんじゃないですか、と僕は思う。人は間違うのだし。

一事が万事そんな調子だから、僕らは「楽しむこと」をそっと自分ひとりの中に閉じ込めて、他人に対してはどうか足を踏まないようにと壁を作り、距離を置き、余計な関係を作らなくなった。先進国共通の傾向として若者世代の幸福感が低下しているという。つながるのは煩わしい、怖い、でも人とつながれなくて寂しいという孤立感がその背景にある。
「みんながいいと思う方」に、人々がいっせいに流れるのは、そうすることでしか人とのつながりを感じられないからかもしれない。だとするなら必要なのは、評価したりされたりする世界から距離を置くための身の処し方だ。
今年話題になったエンタメに共通することとして、「プロがプロを評価し、育てる」というものがある。昨年からの流れではあるけどTimelesz ProjectにせよNo No Girlsにせよ『国宝』にせよ、僕らが目撃できるのはプロに評価されるプロ候補の姿だけだ。以前のように「私が推せば推しを支えられる」という、あらゆる人を評価の網の目に絡め取っていくシステムの対極のような応援のあり方が、結果的に多くの人をつないでいる。
自分の気持ちとして願うこと、祈ること。それによっても僕たちはつながれる。「誰か」を傷つけないためといった目に見えない相手に怯えた先回りではなくて、具体的な「その人」の祈りや願いに敏感でありたいと僕は思うし、その向こうにあるつながりを信じたい。
光について
人はもっと創造的になれるし、それを通して生まれた祈りのような気持ちでもつながることができる。そんな風に思えたのが2025年だったと思う。あとは、自分のもとに降りてくる創造性の息吹をいかにして絶やさずにいられるかが、自分にとっては大事だ。
今年もいろんなライブや美術展に足を運んだ。強く印象に残っているのは瀬戸内国際芸術祭で見た海だ。たくさんの人が訪れている芸術祭ではあるけれど、新しく増えた会場の、さらに少し歩いた海岸には本当に誰もいなくて、ただ海と、空と、風と、立っていられないほどの日差ししかなかった。光が固着されたかのような海風こそ、美しいものとしてそこにあるのだと思った。

ライブハウスであれホールであれ、「照明」というのは面白いもので、客席から見ると演者を照らしているその光は、演者にとっては「自分に向かってくるもの」になる。「ステージの上で自分に向けられた光の中に表現の神様がいる」なんて言う。僕も気づけば、テレビ局のスタジオの照明の中にいる。その光の中にあるものを掬い上げることが、創造性の種になる。
祈りと、光。祈りによって僕たちはつながれるし、その祈りを生み出すような創造性を、自分に向かってくる光の中から掴み取ることができる。来年から始まる人生の後半戦は、どうやらそんな前向きな気持で始められそうだ。
というわけで2025年も終わり。毎年の締めに書いている、いつもの口上で終えよう。大晦日の夜には、昔の江戸の習わしだという「七味五悦三会」を振り返ってみてはどうだろう。これは、その年に食べた美味しいものを7つ、楽しかったことを5つ、出会えてよかった人を3人挙げることができたら、その年はいい年だったねと言って終わるという一年の締め方なのだそうだ。あなたにとっての今年と、できたら来年が、そんな年であるようにという祈りを込めて。

