あえて「面倒」を引き受ける

雑記

エージェントAIが普及してから、仕事が「楽しくない」という声を聞く機会が増えた。あるエンジニアは、AIが書いたコードに「所有感」がないと吐露している。別の書き手は、コードを書くより「空中の雲の中でするような会話」のほうが価値を生むらしいという現実の手触りのなさについて述べている

僕はエンジニアではない。でも、この感覚は分かる。僕の授業は受講者が数百人規模なので、リアクションペーパーの量も膨大になる。AIを導入してしばらくは「これだけのコメントが一瞬で要約できる」と驚いていたのだけれど、次第に「で、要約できたから何なのだ」という気持ちのほうが強くなり、結局やめてしまった。

効率化が進むほど、虚無が増える。考えてみれば妙な話だ。AI時代に僕らは、何を楽しみに生きるのだろうか。

AIは何を奪っているのか

AIが雇用を奪う、という議論は分かりやすい。ただ、そのまま受け取ると雑な脅威論にもなりやすい。というのも、機械化のコストが人件費を下回り、政府が一切対策を打たず、個人もスキルアップをしない。そういう極端な前提を置かないと「大量失業」は語れないからだ。

むしろ最近気になるのは、「エントリーレベルの仕事が薄くなる」という論点である。アメリカでは、AIの影響を受けやすい職種で若年層の雇用が減ったとする記事が報じられている。引用されている数字(22〜25歳が13%減少)は衝撃的だが、僕がここで言いたいのは数字の精度そのものではない。もしこの方向性が正しいのだとすれば、問題は「雇用」よりも「経験」だ。

ジョブ型社会では、実力をつけるのは基本的に個人の責任で、職場は必ずしも育成してくれない。現場で無給のインターンを通じて獲得してきた経験が失われるなら、若者にとって痛いだけでなく、組織にとっても痛い。新人が仕事の経験を積んで成長するというエコシステムが痩せるからである。

AIが奪うのは、目先の仕事量だけではない。学ぶ場の厚みなのだと思う。

楽しくないことの対価

仮に、エントリーレベルの定型業務が薄くなるとして、残る仕事は何か。ここで参考になるのがロバート・B・ライシュの分類である。彼は雇用を「対人サービス」「ルーティン生産」「シンボリック・アナリスト」に分け、「ルーティン生産」が痩せることで中間層が没落し、低生産性の対人サービスと付加価値の高いシンボリック・アナリストに二極化していく、と論じた。

1991年に論じられたこの枠組みをそのまま現代に当てはめるのは乱暴かもしれないが、感触としては分かる。自動化されたあとに残りやすい仕事は、謝罪や感謝のような対人感情労働を含む対面のケアであり、あるいは抽象的なシンボルを操作して記号的な価値を生み出す仕事である。

だが、抽象的なシンボルを操作する仕事に、どれだけの人が就けるのだろうか。リチャード・フロリダは「クリエイティブ・クラス」論で、人間は広く創造性を発揮しうる、と主張した。ただし、彼のいう創造性はデザイナーやエンジニアに限らず、美容師のような対人サービスも含む。つまりそれは「創造性」というより「対人の手触り」を重視する方向への拡張でもある。

日本でこの問題を別の角度から捉えた議論として、冨山和彦がホワイトカラーの転換の必要性を改めて述べている

2000年代、産業再生機構で地方の旅館や建設会社、公共交通などの再建に携わった。当時からエッセンシャル職主体のローカル経済の課題は人手不足だったが、都市部も同じ状況になってきた。病院に行けない高齢者や学校に通えない子供が出てくる。余るホワイトカラーをローカル経済に移動させる必要性が高まる

要するに、自動化が進むほど「人がやりたくない」「楽しくない」仕事が最後に残る、という話なのである。そして対人サービスは効率化しにくい。生産性が上がりにくいという意味で、賃金も上がりにくい。楽しくない上に報われない。そういう未来像が、ここから見えてくる。

娯楽か、自ら楽しむか

この格差論をもう一段押し進めているのが、エージェントAIによる自動化と、冒頭に挙げた「仕事が虚しい」という感覚である。生成AIは文字通り、抽象的なシンボルを操作して価値を生み出すことに特化して進化している。だから創造的な仕事の中核である「創造性」や「手触り」まで、人間から奪いかねない。

つまり仕事は、「誰もやりたくないことを我慢する」だけでなく、「自分が手掛けた実感のないものに責任を取らされる」という意味で、楽しくないものになりつつある。

では仕事は、楽しいものであるべきなのか。むしろ他に楽しいことがあれば、仕事を無理に楽しくする必要はないのではないか。たとえばタイラー・コーエンは『大格差』や『大分断』で、技術が格差を拡大させ、都市部と地方の格差も広げると論じつつ、格差の下の側にいる人々は動画配信のような娯楽で不満を埋め合わせるだろう、という趣旨の見立てをしていたはずだ。

しかし現実に起きたのは、娯楽で不満が解消されることではなかった。むしろ格差が拡大するほど、人々は「敵」を探しやすくなる。中国を非難し、マイノリティを優遇するリベラルを攻撃する政治家を支持する。そういう現象のほうが目立ったように思える。

そもそも娯楽は、常に安全なものではない。古代ローマの時代から、観衆が他者の苦痛に熱狂するような残虐な娯楽も存在してきた。刺激は、人を楽しませるだけでなく、苛立ちや攻撃性も増幅させる。昨年の流行語にオックスフォード英語辞典が選んだのは「レイジベイト」(アクセス稼ぎ目当ての煽りや釣り炎上)だった。

だから僕たちは、娯楽で「楽しませてもらう」だけでなく、日々の生活の中に「自ら楽しむこと」を見出す必要があるのだと思う。

「加算時間価値」という考え方

ここで思い出すのは、僕が2019年に「加算時間価値」という概念を提唱したときの問題意識だ。僕が当時主張したのは、いわゆる「タイパ」に相当する「減算時間価値」だけを追求しても、人は幸福にならない、ということだった。

減算時間価値とは、時間を節約することそれ自体に価値がある活動である。短時間で多くの情報を得る。効率的に娯楽を消費する。こうした活動は、確かに便利だ。

一方で、時間をかければかけるほど価値が高まる活動がある。友人と何時間も語り合う。趣味に没頭する。家族と過ごす。こうした活動を効率化してしまえば、むしろ価値は落ちる。時間をかけることそのものが意味だからである。

たとえば、パートナーに贈る婚約指輪をAIエージェントに選んでもらいました、と言われて「効率化できてよかったね」と感じる人は少ないだろう。時間を効率的に使うのは、時間をかけるほどに価値が高まる領域を増やすためであるはずなのだ。

AI時代の虚無は、要するに「時間をかけることで得られる充実感」が、別のかたちで剥ぎ取られているということなのだと思う。何時間もかけてバグの原因を発見すること。大量のレポートの中から、学生の鋭い一文を見つけること。面倒ではある。でも、その面倒さの中にしかない自棄糞のような高揚感も、確かにそこにあったのだ。

目的のある活動に時間を使う

ここで示唆的なのは、ハンナ・アーレントの「Labor/Work/Action」という区分だろう。彼女は人間の活動を、内容というより意味づけのレベルで区分した。Laborは生きるためにやらなくてはいけないこと、Workは自然に働きかけて新たなもの(作品)を生み出すこと、Actionは人と関わり社会をつくる政治のような公共的な活動である。

この枠組みでいえば、AIはLaborを代替せず、むしろWorkを人間から奪いつつある、と整理できるかもしれない。情報技術は情報の操作には強いが、人の感情を伴う身体的な領域には干渉しにくい。平たく言えば、AIは人と人との関わりを代替しない。

だとするなら、人と人が関わって社会をつくるActionの領域もまた、安易には代替されないはずだ。問題は、僕らがその領域を「面倒」として避けてきたことである。職場の人間関係を調整する。PTAや自治会の幹事を担う。SNSでコミュニティのつながりを維持する。やっぱり面倒だし、避けられるなら避けたい。

しかし、その向こうに「目的」や「実現したい価値」があるとき、その面倒さは別の意味を持つ。関係を調整することそれ自体が目的なのではない。目的に向かう過程で、関係の面倒さを引き受けるのである。

AI時代に僕たちは、効率化された先に残る虚無ではなく、時間をかけるほどに価値が高まる、目的のある活動に時間を使うべきだ。楽しくない仕事から逃げるために娯楽に沈むのではなく、面倒でも自分で引き受けたい活動を増やす。そのために効率化する技術を使う。順番を取り違えないことが大事なのだと思う。

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