「である」人と「する」人

雑記

今も残る「である」ことと「する」ことの問題

丸山眞男の文章の中でもっとも有名なものといえば、おそらく国語の教科書で読んだ「「である」ことと「する」こと」(『日本の思想』所収、1961年)になるだろう。あまりに有名なこの文章をいまさら要約するのも気が引けるけど、人を属性で判断する(○○である人だから××)近代化以前の日本社会のしくみと、人を業績で判断する(○○する人だから××)近代社会のしくみの相剋を指摘し、両者の間の倒錯を再転倒する必要を論じる、というものだ。

確かにこの倒錯というのは今でも色んな場面で見られる。新入社員と飲み会、なんていうのがその例かもしれない。上司と部下というのは業績によって規定される、いわば「部下する」関係のはずだと考える新入社員は、「部下である」以上は社外の飲み会においても、座り位置からお酒の注ぎ方まで部下としてのあるべき行動が求められると考える上司の飲み会には出てこない。逆のパターンでいえば「リア充」というのがある。「リア充である」ためには、恋人や友だちがいるだけではダメで、セルフィーをインスタグラムにアップしてハートマークの数字を増やす、すなわち「リア充アピールする」ことが求められる。当事者の間での充実だけがリア充の条件であれば、これほどまでに「リア充する」ことが追求されながらも疎んじられるという倒錯も生じなかっただろう。

どちらの例も、実は丸山がすっかり同じことをこの文章の中で述べている。それだけ普遍的な指摘だということだろうし、この55年間、日本社会ではずっと同じ問題が残存し続けてきたとも言えるだろう。

ネットが加速させる「である」人の可視化

なぜいまさらそんなことを考えたのかというと、ネットのコミュニケーションでもしばしば見られるこの倒錯が、意外に意識されていないように思えるからだ。分析の病、と言ってもいいかもしれない。「○○する人」が可視化されたとたん、これは「○○である人」だと分析する人が出てくる。「オタク」でも「意識高い系」でも「ネトウヨ」でもいい。最近だと「社会学者」なんていうのも、社会学を研究する人ではなく、特定のふるまいをする人に貼り付けられる「である」レッテルになっているかもしれない。そうした行動を批判する人の中にも、社会学の学位を持っているかどうか(これは業績の結果だけれども)、大学の職に就いているかどうかという、別の「である」で「真の社会学者であるかどうか」を判断しようとする人がいるので根が深い。

もちろん、ここでの僕の分析も言ってみれば同じ穴の狢だ。こうした倒錯を避けるために必要なのは「データ」だろう。学生に教えていてよく躓くのは、特に社会的な状態というのは「何である」かだけではなく、それと「何をする」かの組み合わせで測定されることが多いのに、学生たちがすぐ「である」状態を探そうとしてしまうことだ。例えば「2.5次元ミュージカルにハマる女性」を題材に卒論を書きたいという人がいれば、僕らはまず、その市場がどのくらいで、「ハマる」という状態がどう定義されるのかを考えようとする。年に何回舞台を見に行けば、グッズにどのくらいお金を落とせば「ハマっている」といえるのかが決まらないと話が始められないのだが、話をしてみると「そういうことじゃないんです!」なんて言い返されることもある。じゃあ本人の意味世界の中において重要な位置を占めているということが大事なのだから、数の問題じゃなくて自己申告だよね、というと、それも違う、となる。おそらくそういう学生の中には「これこれこういう人」という「2.5次元ミュージカルにハマる女性」である像があるのだと思うけれど、それはデータを取る上ではやや論点先取的な決め付けのきらいがある。

あえてこうした極端な例を挙げたのは、社会の中である人びとが注目を集め、論じられる対象になるとき、本来は何かのデータに支えられた「する」人として定義されたものが、容易に「である」人に転化するケースが目につくからだ。「パラサイトするシングル」はいつの間にか「パラサイトであるシングル」になり、「草食的な行動を取る男子」が「草食系である男子」になり、「ネットで右派的な発言をする人」が「ネトウヨである人」になる。「である」人は往々にして批判や揶揄の対象になり、それに対する当事者からのリアクションとして別の「である」人が定義される。さきほど述べた「真の社会学者」なんていうのは、その典型的なレトリックだ。

つまり、ある種の人びとの可視化がデータに基づいたものであるかどうかと、それが社会の中でコミュニケーションの対象になるときに「である」属性として論じられるかどうかは独立の問題だということだ。データの裏付けはないと困るけど、あったからといって誤解が生じないわけではない。データの有無ばかりを気にする人に対してコミュニケーションを研究する人が距離をおいてしまうのは、その「誤解」はあくまでコミュニケーションの水準で生じていると考えるからだろう。

承認と再配分のジレンマ

常に生じうるものであり、なんとなればネットの普及によって目立つようになったとすら言えるこの問題に絡めて僕が思い出すのは、ナンシー・フレイザーとアクセル・ホネットの政治哲学的な論争だ。「である」の水準では、フレイザーは哲学者ないし政治学者、ホネットは社会学者ないし哲学者なのだけど、両者は「政治哲学する」論争を繰り広げたので、そういう言い方をするのが正しいと思う。ここで議論になっているのは「承認と再配分のジレンマ」と呼ばれている問題だ。

人間に対する不当な扱いの中には、人の業績ではなく属性によって生じるものがある。外国人だから収入があっても家は貸せないとか、女性だから能力はあっても昇進はさせないとか。こういうものに対しては2つの対処の仕方がある。ひとつは、不当な扱いを受けている人を法や規制で保護し、その人たちのための特別枠を設けること。いわゆるアファーマティブ・アクションとか、クオータ制とか呼ばれるやつだ。企業における女性の管理職比率は何割以上でなければならない、という形で、それは実現される。

しかしそこには問題もある。大きなものは、そうやってある人々を可視化、つまり承認することが、容易にその人たちへの憎悪を呼び出してしまうということだ。アメリカの大学ではエスニシティによる入学者の枠が設けられていることが多いのだけれど、そのことによって「自分は白人だから、より能力が劣る黒人を入学させるために入試に落とされた」とか「彼女は女性だから優遇され、自分は男性であるというだけで差別されている」と考える人が出てくる。というかネットがその「承認による憎悪」を加速させている。

こうした問題に対してフレイザーは、重要なのは再配分なのだという。つまり、累進課税だとかマクロ経済政策を通じて、「○○である」人ではなく、「○○する人」の不利な状態を解消すべきだというのだ。そしてそのために重要なのは、アイデンティティの脱構築であるという。要するに、「シングルマザー世帯への手当てを拡充」というと、シングルマザーという人々が承認されることで悪い意味でのレッテルも呼び込んでしまうので、経済状態などのデータに基づいて粛々と再配分を行うべきだというのだ。

なぜこれがジレンマになるのかというと、再配分は手当される側にも、アイデンティティの放棄を要求するからだ。あなたはシングルマザーでかわいそう「である」から手当てを受けられるのではなく、経済的に困窮「する」から手当てを受けられる。だから殊更に単身親世帯であることにこだわってはならない、あるいはひとり親だからって世間に指さされないよう頑張らなきゃという思いは個人的に抱えておくだけにとどめてください、というわけだ。

「である」ことの捨てがたい重さ

この論争を読んだ当時の僕は、この論争はフレイザーの圧勝じゃんと思っていた。実際、アイデンティティに基づく可視化は「である」人と「でない」人の間に無用な対立を持ち込むだけでなく、「でない」人の中にも実は存在している「である」要素を暴力的に不可視化してしまう。すべてがそうとは言えないけれど、ネットで見かけるフェミニズムとオタクの対立の背景には、「オタク男性」というアイデンティティの持つ微妙な自己意識があるように見える。

ただよく考えてみると、だからといってアイデンティティを容易に脱構築できるかというとそれも難しい。あるときはこうだが別のときはこう、という、ジグムント・バウマンが言うクローゼットで着せ替え可能なアイデンティティの流動性を生きられる人はそんなに多くない。そもそも丸山真男からして、人とのつきあい方を「である」価値から「する」価値に変えることの難しさを論じていたわけだし、ネットのような「顔=アイデンティティの見えないコミュニケーション」が展開される場所では、積極的に「私(あなた)は○○である人です」と定義しないと、そもそもやりとりが成り立たない。

さらに言えばホネットが反論するように、そもそもアイデンティティを差異として可視化しないと、手当ての要求が成り立たないケースが現代においてはまま存在する。「保活ママ」は、個々人のレベルで言えば人生の間のいち期間の状態(「保活する人」)でしかないけれど、そういう人たちが他の人たちから区別され、その背景としての雇用の現状や保育施設の数、そうした人びとの票の大きさといったデータと分析が組み合わせられなければ、政治家は「保活ママである人のために保育園を増やす」という政策をイシュー化できない。そこで「パパだっているじゃん」という話は重要なのだけれど、何をどうデータ化するかという次元においてすら、差異をめぐる政治の力学から自由ではない。

「である」と「する」が乖離していく

こうして見ていくと二人の論争がかみ合わせの悪いものであることは確かだが、少なくとも論争が成立することに意義があるという風に思う。丸山も「である」と「する」を車の両輪にたとえているように、これはどちらか一方のやり方だけで済む問題ではなく、両者がバランスしながら、その都度調整していくようなものでしかないのだろう。

ただ気になるのは、どうもこの両者の間が、最近になってどんどん開いているんじゃないかということだ。「行動ターゲティング」という言葉が示すように、現代のネットを中心とした監視のシステムは「主体=存在=である人」ではなく、「行動=データ=する人」を対象にするようになっている。ドゥルーズが指摘していた通り、センサーで取得されたビッグデータが明らかにする行動モデルの世界では、個人(in-dividual)は瞬間の行動の単位に分割されて(divide)いる。データは匿名化され、プライバシーへの配慮から、より個人とのひも付けを解除されていく。

他方で僕たちは、そうしたモデルから導き出された「おすすめ商品」が、ほかならぬ私という主体に向けて送り出されたものだと感じ、「私はそういう人ではない」「自分にもそういう趣味があるかも」といった風に、「である人」の水準でことを受け止める。ここには既に述べた「データによる可視化がアイデンティティを形成する」という逆説が存在するが、それにもかかわらず、どのようなデータが自分という主体を構成するのかが、データを扱う人からも見えなくなっていく。

「である人」という意識と「する人」というデータをきちんと両輪で回そうとすれば、「である」意識の背後にどのようなデータの裏付けが取れるのかを考えることと同じくらい、あるデータが導き出したモデルが社会の中でコミュニケーションの対象になるとき、どのような「である」意識を生むのかという(社会学の言葉を使えば「再帰的」な)センスが必要になる。特に社会学なんてマーケティングと仲良しだから、すぐ「である人」を可視化しようとしてしまう。僕自身がそもそもそういう人だ。けれどその場合、「である人」のアイデンティティに寄り添う覚悟がなければ、事態を混乱させるだけになってしまうかもしれないと思う。

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