うろ覚えの”J”ポップ時評 第4回(from『エクス・ポ』第一期)

連載

第04回:「アキバから渋谷へ」

この連載も折り返し地点を越えました。当初の依頼では「最近面白い日本の音楽」について思うところを述べるはずだったこの企画、どんどん「日本のポップカルチャーの現在」を分析するという方向に向かっています。あらかじめ「J」を丸囲いするという逃げを打っておいて正解でした。

さて、前回の最後で僕は、連載の後半では主題をオタク系カルチャーへシフトしていくと書きました。ただ、この点については少し言い訳をしておく必要があるかもしれません。ストリートに対してオタク、という対立図式は、僕の師匠である宮台真司の影響で生まれたものであり、僕自身の90年代を生きた経験からもたらされたある種のリアリティに基づいたものでもあります。ですが00年代の現在においても、その対立図式は有効なのか、という問いは、十分に検討される必要があると思うのです。

ストリート:オタク=強い:弱い=イケてる:イケてない=コミュニカティブ:非コミュニカティブという二元論図式は、もちろんあくまでモデルであり、現実を分析するのに役に立つ限りで有効なものになります。ですが岡田斗司夫が『オタクは既に死んでいる』で述べるとおり、もはやオタクという統一性を前提にするのが困難なのでしょうし、そもそもアニメを見ていればオタクという想定すら自明ではありません。近年生じているいくつかの現象は、こうした二項対立を既に無効化し始めているようにも思われます。

その最たる例が、ここ数ヶ月話題になっている「アキバ歩行者天国問題」でしょう。これは、週末には歩行者天国になる秋葉原の中央通りで、下着露出パフォーマーや、エアガンで撃ち合うコスプレイヤーが登場するなどの「治安悪化」が問題になっているというものです。既に警察や地元商店街も見回りを始めるなど、「アキバの行方」に注目が集まっているのですが、興味深いのは、オタクの街と言われた秋葉原の最前線のトピックが、ストリートでのパフォーマンスになっているということです。

僕は秋葉原の近所に住んでいて、また講義で毎週通っていたということもあって、この数年の「アキバ」の動向を肌で感じることができたのですが、この「アキバのストリート化」に至る流れを僕の視点でまとめるなら、次のようになります。まず電車男ブーム以降「メイド喫茶」が一般にも知られるようになり観光地化。ストリートのそこかしこに客引きのメイドさんが立つようになり、彼女たちを撮影しようとやってくるお客さんをも引き寄せます。今起きているような「オタクのストリート流出」は、おそらくこの辺をルーツにして、徐々に「週末のホコ天のコスプレパーティー化」へと繋がっていきます。ストリートでの撮影会そのものはそれ以前にもありましたが、僕の感触だと、客引きのメイドさんの撮影が一般的になって以降、客引き目的以外の一般のコスプレイヤーでもストリート撮影を行うのが一般化したという印象です。

ストリート化に関するもうひとつのルーツは、ライブパフォーマンスです。アイドルポップス系の女の子たちがライブ、自主制作CDの宣伝のために週末のストリートを利用していたのは、これもかなり前からだと記憶していますが、撮影会化と並行して生じた「ストリートにゆるく共有されたオタク的非日常の流出」によって、実際は禁止されているはずのライブパフォーマンスをあちこちで見かけるようになります。これに目を付けたビジュアル系バンドなども宣伝活動を行うようになり、アキバというストリートは、いわゆる萌え系のオタク以外の人々を包摂していくようになります。おそらく、ここ数ヶ月の間話題になっている「はしゃぎすぎ」な人たちの中には、かなりの割合でバンド系の人が含まれているのではないかと思っています。

三点目は、なんといってもYouTube、ブログ等を通じた「アキバのオフ会拠点化」でしょう。「ものすごい人数でハルヒダンスを踊るOFF」の動画が有名ですが、ストリート化が進行したアキバであれば「こういうことも許されるんだ」というのが、ネットを通じて共有された予期になっていく。それが拡大し、「あのお祭りをもう一度」となると、ホコ天という非日常が、カーニヴァル的欲求の収束点になっていくわけです。

その他にも、つくばエキスプレスの開通による人口移動の変化、中央通り東側のIT拠点開発化によるサラリーマン人口の増加など、この問題は巨視的には「アキバという街の脱オタク化」という現象と絡めて考えるべき複雑な様相を呈しているのですが、さしあたり重要なのは、ホコ天という非日常を介してオタクがストリート化していること、そしてそこで、多くの「小さな仲間共同体」が芽生えているということだと思います。
前回の連載で僕は、酷薄な現実に立ち向かうための癒しのシェルターとして機能するジモトと仲間というテーマが、どちらかというとストリート系と見なされるカルチャーの中に見いだせるということを指摘しました。そこでの仲間関係は、「ゲットー化する地方」という現実の上で求められる、存在論的安心の足場とでもいうべきものなのでしょう。

ですが他方でオタク的な非日常において見いだされる仲間感は、そうした強い連帯性というよりはむしろ、たまたますれ違った関係の中で一瞬だけ可能になるような、でもそこには同じ趣味であるとか対象への欲望を共有しているといった、奇妙に深い関係性を期待できるような繋がりに近いのではないかという気がします。オタクのストリート化という現象は、共通の趣味によって同族性を見いだすオタク的な関係性が、ストリート的な、相対的に流動性の高いものへと開かれつつあることの表れなのではないかと。

そうなると起きてくるのは、「オタクに求められるコミュニケーションスキルの上昇」であるというのも、うなずけることでしょう。流動性の高い関係とは、相手がどのような期待地平(予期の水準)を生きているかが自明でないということです。相手がハルヒ厨なのかエロゲヲタなのか、メイド萌えなのかセーラー萌えなのかといったことや、そもそもどの程度に「ヲタ」なのかといったことが共有できないと、この人も同じアニメが好きなんだ、と思って調子に乗って作画監督やアニメーターの話をし始めたとたん、相手がいきなりドン引き、なんてことが起こるかもしれないわけです。

オタクのストリート化=コミュニカティブ化によって煽りを食うのは、非コミュ的な動機付け(積極的なコミュニケーションを自明視しない態度)からオタク化した人々でしょう。そもそもオタク化すること自体が、非コミュな自分でも参入可能だという期待に担保された振る舞いだったわけです。しかしながら10年ほど前、ゲーム系コスプレイヤーがコミケなどに大々的に参入し始めたあたりから、こういった人たちこそが存在感の点で傍流に追いやられていくという現象が生じはじめます。

そのことを如実に示しているのが、非コミュ的なものの位置づけの変化でしょう。たとえば「すばらしきこのせかい」(07年)や「CHAOS; HEAD」(08年)といったゲームでは、コミュニケーション志向の低い主人公が活動する場所は、「渋谷」ということになっています。森川嘉一郎はかつて、オタクと非オタクの対比を都市論の文脈から「アキバ」と「渋谷」の対比として位置づけたのですが(『趣都の誕生』)、いまではむしろ秋葉原こそがコミュニカティブなオタクの街であり、真に非コミュなオタクは、アキバからもこそこそと逃れて、誰も自分に関心を持たない渋谷へと流浪するのです。

非コミュなオタクにとって重要だったのは、そんな自分でもなんらかの絆に開かれているのではないかと期待できることでした。それが現実に叶わないものである限りにおいて、80年代のオタク論が注目したような、『ムー』における前世の同志探しといったテーマが意味を帯びます。『CHAOS; HEAD』でも、主人公の西条拓巳は、渋谷という街でコミュニケーションを回避しながら生きていますが、結果的に敵と戦う宿命や、同じ敵を共有する仲間の絆へと開かれていきます。しかしながらストリートに流出し、コミュニカティブ化したオタクにとっては、「コミュニケーションを回避しても、いつか運命の絆に巡り会える」という期待を抱くことそのものが、あり得ないご都合主義のように映るでしょう。

むろんそのご都合主義への失望は、「コミュニケーションを回避したボク」が、実は前世からの縁で繋がれた同志たちと、世界を救う戦いに参加する宿命を背負っていたのだ、という想像力が、あまりに荒唐無稽であるために生じています。ですが、その荒唐無稽さを捨象し、「非コミュなボクにだって運命の絆はあるんだ」という感覚へと結実する類型は、「前世の絆」ものとは別様にあり得るはずです。次回は、その絆の最たるものとしての「家族」を扱ったいくつかのオタク系コンテンツに言及しながら、この点を考えてみたいと思います。

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