「見ないものはいらない」の法則

引っ越してからというもの、とにかく10数年ぶりに家電品の買い換えをしたものだから、どれを触っても浦島太郎状態が続いている。マニュアルは分厚いし、色々と勝手も違う。特にオーディオ・ビジュアル環境はもうどうしたものやらって感じ。テレビの設置に来たにーちゃんが問答無用で突っ込んでいったB-CASカードやら、よくわからない案内が表示されている有料チャンネルやら。レコーダーには見もしない番組が勝手に録画されていくし、そもそもこの画質ってどの程度違うのさ正味のところ、みたいな。

一方で、はっきり分かってくるのは「ああ、ほんとうにテレビ番組ってつまらないんだな」ということ。10年ぶりにテレビ受像器を買って、久しぶりに地上波の番組を見てみれば、10年前と変わらない番組で、10年前と同じネタを、10年前と同じ芸人とタレントが繰り返している。懐かしのアニメ特集では、出てくる番組はほとんど80年代までのもので、この20年、アニメって放送されていなかったのだろうかと驚く。どのチャンネルを見ても、テレビは昭和生まれに優しい。

巷ではここ数年「伝説」の大安売りが続いている。伝説のユニコーンも復活だ。でもそこで見られるのは、おとぎ話の世界から飛び出してきた一角獣が、ハリー・ポッターの映画さながらに暴れ回る映像ではなく、若いつもりがいつの間にか歳を取ったおじちゃんたちだ。見てる僕らも歳を取ったもんだ。

かつて、テレビは夢を売る箱だった。経済が成長して、家族がテレビを手に入れることを願っていた時代の名残があった頃までは、テレビに押し売りされるはかない夢に対して、まったき理想を子どもたちに教えるべき、っていう規範も成り立ち得た。そうしたものが潰えた後で、僕らはテレビから夢を買い、娯楽を買い、「面白くなくちゃ、テレビじゃない」のかけ声の下、理想を失った家族をつなぎ止めるため、家族を見る目線として、テレビを家族全員が見られる位置に置いたのだった。

パーソナル・コンピューターの理念とアーキテクチャは、ほんとうに素晴らしいと思う。なぜだか分からないけれど、僕らは自分が操作しているPCの画面を誰かと共有するのが苦手だし、ケータイに至っては、わざわざ覗かれないようにシールまで貼る。アラン・ケイがダイナブックをスケッチしたとき、そこには二人の人物が描かれていたけれど、二人は目も合わせていなかった。たぶん、ディスプレイの中で会話してたんだろう。

だいたい僕らは、「自分が見ないものはいらない」と考える。新聞を見ない世代は、新聞なんて偏向報道にまみれた既得権だとしか思わないし、ネットを見ないケータイ世代は、わざわざパソコンの前に座ってブラウザを立ち上げ、SNSにアクセスする必要なんかないじゃないかと思う。どっちも見ない中高年は、メディアを捨てて直接触れあうべきだ、といったメッセージを、朝のワイドショー番組から受け取り、うんうんとうなずく。

自分が見ていないのだから、こんなもの、この世からなくなってもいい、と僕らが言うとき、そこでは「自分と異なるメディア世界を生きる人」が不可視化されている。テレビもその例外ではない。家族を見つめる柔和な暴力の視線だったテレビは、お茶の間から一人、また一人と家族が去っていくに従って、最後までお茶の間に残った人のためのメディアになった。残された可能性は、きっとWii Fitに保存された、家族の健康データだ。監視手段による家族のデータ化を通じて、僕らは家族や共同体を見つめる視線を手に入れるのだろう。

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