デザインだけが批判たりうる

雑記

批判的な思想の弱さ

この数年、というかコロナ禍以後、「思想」というものに対してまったく期待が持てなくなっている。個別の思想の内容に、ではない。ほんとうなら、何かを伝え、誰かと別の誰かをつなげるはずの言葉が、誰かを傷つけたり、というより、傷ついたぞ、どうしてくれるんだと詰め寄られたり、そのせいで人々がいがみあったりするものになっていることに辟易している。あるいは、ちょっとした言葉尻を気にして「そういうこと言うとまた炎上するのでは」と怯えたり、センシティブになっている人を見かけたりするのも苦しい。

まず確認しておきたいのは、ここでいう「思想」はいわゆる哲学とか現代思想とか、あるいは文化人類学や精神分析、宗教学など、とりわけ人文系の学問と関わりの深い理論的な思考のことを指している。だから、個人の経験に基づく信念とか、世の中を生き抜く知恵みたいなものとは違って、「役立つ」ことを必要としていない。強いて言うなら、その思想に触れた人の世界観を揺るがし、自分の依って立つ足場の自明性への疑いを刺激するような、そういう力をもっている思考だ。こうした思考のことを、一般的に「批判」と呼ぶ(「非難」や「悪口」とはまったく意味が違うので注意だ)。

けれど、というかだからこそ、批判的な思想の力は、誰にでも通用するものではない。ある人にとっては世界を揺るがすほどの衝撃を与える思想が、別の人にとっては到底受け入れがたいものになることもある。あるいは、頭で考えた観念なんて役に立たない、明日すぐカネになるアイディア以外に価値はないと考える人にとっては、思想の価値は、せいぜい「どれだけの人が注目するか」というマーケティング的な観点から生まれるものでしかない。

もうひとつ。批判的な思想は、誰かの世界の自明性を疑ったり、その世界を拡張したりする魅力をもつ。そこでは、常に「謎への跳躍」が織り込まれる。つまり「あなたはこれを当たり前だと思っているけれど、実はその外側には、こんな世界もあるのではないでしょうか」と問いかける思想は、決まって「そんなものあるわけないじゃないか」「それはお前の妄想や思い込みでしかない」という言い返しを受ける立場にある。

だから現代において思想は、その魅力によって心を動かされる人よりも、その価値を認めなかったり、論者の妄想の産物に過ぎないと批判したりする人たちと向き合うことを余儀なくされる。そうした人たちとの「対決」に巻き込まれてしまって、思想の魅力を伝えるのではなく、「敵対者」とずっとレスバしているところしか見かけなくなるなんてパターンも、もう見慣れたものになってしまった。

しかも、批判的な思想は反論に対してめっぽう弱い。なぜなら現代においてもっとも批判の対象になるべきものが「合理性」になっているからだ。より合理的に、より効率的に、より論理的に。こうした合理性の広がりに批判の目を向けようとすれば、「人間ってそんなに割り切れるものじゃない」「合理性を超えた想像力こそが必要なのだ」といった主張にならざるを得ない。そのこと自体を論理的に、合理的に説明できなければ、当然「お前のお気持ちなんて知るか」と言い返される羽目になるわけだ。

2つの思想的潮流

並の「批判的思考」では言い返しに耐えられない。そこで昨今の人文界隈では、おおよそ2つの方向に思想が展開されるようになった。

ひとつは、「声なき者の声を聞く」というものだ。マイノリティへの注目と言い換えてもいい。それまでの思考、思想の世界では耳を傾けられなかったマイノリティの世界に迫ったり、その当事者たちが自ら発する言葉をより前面に押し出そうというわけだ。

でも昨今、よくネットでフェミニストが炎上しているじゃないかと言うかもしれない。確かに、マイノリティ当事者の声だからといって誰もが耳を傾けるとは限らないし、むしろ激しいネットバトルを誘発しているところすらあるだろう。だがここでよく注意して見なければならない。そこでなされている非難の多くは「我々も/我々こそ真のマイノリティである」と主張しているのだということに。一見すると弱者のふりをしているが、お前こそ権力側であり、自分は虐げられ、声を聞いてもらえないマイノリティなのだという非難は、「声なき者の声を聞く」という批判的思考が最強であることの証である。

とはいえ、「お前がマイノリティだというなら自分だってマイノリティだ」という罵り合いに思想的な深まりは期待できない。それどころか、アメリカ社会に深く食い込む分断の傷跡を見るにつけても、「それぞれに生きる世界があり、感じ方が違うのだ」などと間を取ったかのような立場を取るだけでは不十分だ。異なる世界、異なる感じ方の間で対立する人たちを、思想によって結びつけることはできないのか?

そうした関心に応えようとするのが、もうひとつの潮流である「資本主義批判」ということになる。ここでいう資本主義批判とは、いわゆるマルクス主義的なものに限らず、広く「資本主義が当然だと思っているものに疑いの目を向ける思想」だと捉えていい。近年、文化人類学で話題になっている貨幣や取引の原初形態に関する議論だとか、進化心理学が注目する利他性についての研究など、「人間って資本主義がもっともマッチする生き物ではないんじゃないか」と考えさせるような思想も、分野横断的に共有されつつある。

ただ、こちらはこちらで難もある。もっとも高い壁となっているのは、「資本主義以外の世界の可能性について思考すること」が、現在、資本主義がもたらしているとされる様々な問題に向き合うには力不足であるということだ。資本主義をより強く非難したい人たちにとって、問題は、新たな搾取を生み出す巨大IT企業であり、気候変動対策に消極的な年長世代であり、金儲けを第一に考える先進国の政治経済システムだ。こうしたものを巨大な悪として名指し、非難し、その声を世界中に広げるアクティビズムの活性化こそが喫緊の課題であり、「批判」などという生ぬるいことをしている場合ではないのだ。

実際、そうした熱をもった資本主義批判の中には、議論の前提となるファクトやエビデンスに対するこだわりが弱すぎるが故に、「お気持ち」で終わってしまっているものも少なくない。お気持ちだから悪いわけではないが、お気持ちでいいなら思想はなくともアクティビズムに関わることはできるわけで、その存在意義が問われてしまうと言えよう。

目と口を閉ざし耳を塞ぎ

むしろ現代において「思想」、とりわけ批判的な思想は、人々の思い込みに新たな視野をもたらすものというより、自らが信じる世界を根拠付けるために用いられてすらいるかもしれない。最初に「コロナ禍以後、『思想』というものに対してまったく期待が持てなくなっている」と書いたのも、そうした傾向が強まるだけでなく、自分の身の回りの具体的な出来事として降ってかかるようになったことが関係している。それは大学や研究の世界であれ、メディアの現場であれ、ビジネスパーソンとの商談であれ同じだ。そして困ったことに、僕自身はどちらかと言えば、合理性や論理性に基づく実証研究より、批判的思考に基づく理論的研究をしてきた立場なので、余計に何も言えなくなってしまっている。

そこでしたことは、多くのかつての仲間たちがそうしたように、理解者の内輪の関係に閉じこもることだ。長期的、定期的なコミュニケーションを取ったり、話をしている中でアイディアが創発されるような間柄以外の人たちと関係を断ち、あるいは距離を置き、ギヴ&テイクのバランスを取りながらどうにかやっていくこと。あるいは、「この範囲であれば大きく間違いはしないだろう」と言えるようなトピックに限り、専門家としての機能的な役割を果たすこと。そのくらいまで退却しなければ「批判的な思考」は、現代において強すぎる武器になってしまう。

目と口を閉ざし耳を塞いで生きられるならそれもいいだろう。ただ、さすがに身に着けた思考法はそう変えられないし、現状についての分析や、思想的なインプットも行っているわけで、考えることをやめたわけではない。

まず、発信の仕方を変えた。音声ブログではAIが代わりに喋るようになり、メディアでも配信のない情報番組以外は出演・取材を絞ることにした。ブログに関してはよほどのことがないかぎり読みたい人しか最後まで読まないので、逆に端的にまとまらないように長く書いているけれど、もう長いこと商業媒体での執筆記事も手掛けていないはずだ。

デザインとしての批判

もうひとつ、批判的な思考というより、批判につながる「デザイン」を重視するようにした。この場合のデザインとは、文字通りのビジュアルデザインだけでなく、キャッチコピーなどの言葉、写真や映像、音楽などの表現活動全般を含む。むろん、広義や演習、ワークショップのデザインも含まれるので、これらをアートであるなどと主張するつもりは毛頭ない。「批判的に考えるヒント」としての思想ではなく、「批判的に考えさせるためのデザイン」にこだわりをもつようになったのだ。

一般にも目に付くところで言うなら、勤め先の学部の広報サイトで展開した「100年に一度の変化が、10年に一度は起きる時代」というコピーがある。もう広報の仕事も離れてしまったのでじきに消えるかもしれないけれど、自分の中では、集客のためのマーケティングと、人文・社会科学系の教養を学ぶ学部がもつ思考の魅力を両立させるために腐心したコピーだったなと思っている。

そのほかにも、たとえば学生向けのデザインワークはかなりの数を手掛けているし、テクニカルなノウハウもずいぶん蓄積されている。これらのデザインは、単に学生たちを鼓舞するというだけでなく、学生たち自身が自ら批判的に思考するきっかけを作ったり、そのような場に積極的にコミットする機会を生んだりするものになっている。最近では、関係のある企業の人たちとも、こうしたノウハウを使った場を広げ始めている。

もちろん僕は専業クリエイターではないし、そのクオリティを自慢するつもりもない。ここで僕が言いたかったのは、現代において様々な難を抱える「批判的な思想」が、それ単体ではなく、その思想に基づくデザインに昇華されるとき、本来の魅力を発揮するはずだという確信があり、それゆえデザインの実践こそが思想の場にもなっているということだ。

あらためて強調するけど、こうした実践は、そもそも広義の「デザイナー」の多くがやってきたことだろうし、思想を論じるものは、そうしたデザイナーにとっての刺激でもあり続けてきたはずだ。ただいまの僕は、思想を単体で論じることに興味を失っているし、自分でデザインを手掛けることで、思想を具現化することの方に意義を感じるようになっている。それが届く回路と手段はこれまでと大きく違うので、知らない人には僕が何もしていないように見えるのかもしれない。それはそれで、いずれ振り返って「そういうことだったのか」と分かればいいものなので。

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