没入型エンターテイメントについて考える

雑記

3月1日に東京・お台場にオープンした「イマーシブ・フォート東京」。事前に大きな話題を読んでいたことや、この分野について以前に論じていたこともあって、春休みのタイミングを利用して行ってきた。結論から言うと、自分が論じていた「没入性(イマーシブネス)」について実践的な取り組みが行われていることが確認できた一方で、今後に向けた課題も感じるものだった。

まず押さえておかないといけないのは、「イマーシブ」が2020年代のエンタメのキーワードになりつつあるということだ。イマーシブなエンタメには大きく言って、「イマーシブ・ミュージアム」のように、既存の絵画を動画化してプロジェクション・マッピングとして投影するタイプのものと、今回のイマーシブ・フォート東京のように演者が演劇を行う場面に一緒に参加できる「イマーシブ・シアター」がある。イマーシブ・シアターには、「ひろしまナイトミュージアム」のように舞台と美術館が一体になったようなものもあれば、レストランや都市の一部などでスポット的に行われるものもある。イマーシブ・シアター専門の施設としては、イマーシブ・フォート東京は国内では珍しい例になるはずだ。

ただ、ここに至るまでの伏線はあって、今回、プロデュースを担当した刀は西武園ゆうえんちの「夕陽の丘商店街」において、昭和の町並みの中で役者が突発的に演劇を始めるというイマーシブ型のエンターテイメントを提供していた。おそらくそこでのノウハウを投入したのが今回のイマーシブ・フォート東京なのだろう。

没入感と没入性の違い

イマーシブ・シアターがどのようなもので、どういう魅力を持っているのかについて述べる前に、もうひとつ明確にしておくべき点がある。それは、イマーシブ・シアターの「没入性」は、僕らが一般に考える「没入感」とはまったく異なるということだ。

没入感とは、端的に言えばある設定や世界観が、その人が受け止める感覚の主たるものになる度合いのことを指す。巨大な映画のスクリーンと音響設備によって、映画の画面の中の出来事しか感じ取ることができなくなったり、VRゴーグルを装着することで視界がヴァーチャルの世界に覆われるといった「感覚の独占」が行われるように仕向けるのが「没入感」を高める方法であり、それゆえ没入感を測る指標は感覚的な、あるいは感覚を刺激する技術的なものになりがちだ。

一方で、没入性にはそうした技術的な感覚刺激は必ずしも必要ない。たとえば演劇のことを考えてみよう。僕たちは舞台上で役者が、僕らと変わらない普段着で、日常的な会話を交わしていても、まったく逆に動物の仮面を被って体をペイントしていても、そこで演じられている世界を「ほんもの」のように受け止めることができる。そこで重要なのは、観客がそこで演じられている世界を受け止め、没入することである。

ただし、その没入はあくまで、観る側が主体的にコントロールするものである。いわゆる「ドツキ漫才」がお笑いとして成立するのは、ドツキあっている舞台上の芸人がそれを「ネタ」として演じていることを観客が承知しているからだ。そうでなければ観客は「え、これガチなのでは?」となって、むしろ不安に陥ることになる。だから没入性には「演技だと分かっていながら、それが本当のことであるかのようにあえて受け止める」という観客の能動性が必要になる。

この「没入感と没入性の違い」について考えるきっかけになったのは、コロナ禍の2020年に流行した「オンラインバスツアー」の事例だ。詳しくは「オンライン・ツーリズムと観光体験」(山田義裕、岡本亮輔編『いま私たちをつなぐもの 拡張現実時代の観光とメディア』弘文堂、P22-40、2021年)という論考を参照してほしいのだが、琴平バスという会社が実施したオンラインバスツアーにおいては、zoomでバスが巡る土地の映像を観るという体験を、「同じ時間にお弁当を食べる」「シートベルトと書かれただけの段ボールを参加者が装着する」といった行為によって、参加者が能動的に「バスツアー」という設定に参与することを可能にしていたのである。

いかにして能動性を確保するか

そのように考えると、イマーシブ・フォート東京のような施設は突然現れたわけではない。むしろ、2000年代のフラッシュ・モブに始まる、「街なかで人々が特定の設定に沿って行動する」という非劇場型パフォーマンスの流れがあり、コロナ禍でのオンライン化されたエンタメやレジャー(たとえば「zoom飲み会」など)があり、人々が「ある設定に能動的に参与する」という体験に対するある種の「慣れ」があって、現在のイマーシブ・シアターにまでつながっているわけだ。

とはいえ、今回イマーシブ・フォート東京に行ってみて感じたのは、まさにこの「参加者の能動的な没入性への参与」がどの程度確保されるかによって、その体験の質も大きく変わるだろうということだ。

僕が論じた「没入性」という概念の理論的な根拠になっているのは、社会学者アーヴィング・ゴフマンの「人々の集まり」に関する議論だ。ゴフマンは、現代の都市空間において、なぜ互いに見ず知らずの人々が、お互いに声を掛け合ってルールに合意したわけでもないのに、整然とした秩序を維持できるのかという問いを立てる。それに対して彼は、人々が言葉を交わさずとも、互いの身体をメディアとして利用し、いまどのようなことが行われているのかについての「状況適合性」を把握することで、秩序が生成されると論じた。要するに「お互いのことを見て空気を読み合うことで、その場に相応しい振る舞いが共有され、結果的に秩序が生まれる」ということだ。これはたとえばコンサートなどでの手拍子を思い出してもらえれば理解しやすいだろう。

イマーシブ・フォート東京に用意された数々のコンテンツは、それぞれプロの役者によって演じられるクオリティの高いものになっている。一方で参加者は、いまそこで何が起きているのか、その場でどのように振る舞うべきなのかといったことについて、事前に情報を与えられていない。それはネタバレを避けるという方針ゆえに仕方のないことであるものの、演者がつくる世界観に没入する際の妨げにもなる。なぜなら「状況に適合した行為」がなんであるのかを理解していない観客が演者と一緒になっても、その場の秩序は生成されないからだ。

この課題に対処するには、いくつかの方法がある。ひとつは、ネタバレになるのを恐れずに、事前に詳細な設定や登場人物などを公開しておくことだ。イマーシブ・シアターの醍醐味は「実際に体験する」ことにあるわけだから、その場でサプライズしなければ体験の価値が下がるわけではない。『ライオン・キング』の筋書きを知っているからといって舞台が楽しめなくなるわけではないのと同じだ。むしろ「いろんなところで出来事が同時進行する」イマーシブ・シアターであれば、「この場面の裏であれが起きているのか」と思うことこそが体験の価値を上げることすらある。

もうひとつは、刀の森岡さんがかつて手掛けたUSJの「ハロウィーン・ホラー・ナイト」のように、参加者自身も用意された設定の一部としてコスプレ参加できるようにすることだ。アメリカででは既に、小説のファンによるコスプレイベントが没入型のエンターテイメントとして流行しつつあるようだ(参考1)。今回訪問したときにも、その場にいる人がおしゃれすぎて「この人は演者なのか客なのか分からない」と感じる場面が何度かあった。「ザ・シャーロック」であれば19世紀のロンドンっ子、「江戸花魁奇譚」であれば江戸っ子など、ふさわしいコスプレでイマーシブ・シアターに参加できるように促せば、文字通り「状況適合性の規則」が書き換わるような体験をできるのではないか。

供給制約の課題をどうするか

もうひとつの課題は、イマーシブ・シアターを採算ベースに乗せる上でのものだ。冒頭に述べたように刀は西武園ゆうえんちなど、様々なテーマパーク、レジャー施設の再生を手掛けている(参考2)。今回も、元になっている施設はヴィーナスフォートであり、お台場再開発の一環として注目されているところがある(参考3参考4)。いわば「居抜き物件」でイマーシブ・シアターを提供することで初期投資を押さえ、またクールジャパン機構からの資金調達もあり、相当にリーズナブルな形で事業をスタートさせているものと思われる。

とはいえ、やはり負担になるのは人件費だ。というのも、演劇という形態は本質的に生産性を向上させられない産業だからだ。

この点について初めて論じたのは、経済学者のウィリアム・ボーモルだ。ボーモルは、オーケストラや演劇といった芸術が、必然的に生産性の低いものになることを指摘している。たとえばモーツァルトの弦楽四重奏は、それが作曲された時代から今に至るまで、4人いなければ生演奏することができない。その間に、他の産業では技術革新が進み、生産性を何千倍にも上げることが可能になったにも関わらずだ。

これは、芸術やエンタメが、どれだけ頑張っても一定の供給制約を持つことを意味する。イマーシブ・シアターを同時に体験できる人数には限度があるし、役者が一日に演じることができるステージにも限界がある。参加人数を増やせば生産性は上がるが体験の価値は下がる。ステージを増やすために役者を雇ってダブルキャストにすれば人件費が上がる。供給に制約がある以上、客単価を上げるほかないが、日本語で演じられるイマーシブ・シアターは、単価向上が見込まれるインバウンドにも優しくない。

結果的に、初期投資の必要な設備投資を最小化しつつ、演目の入れ替えにも対応できるようなシンプルな会場と企画にするしかないのだと思う。さらに言えば、類似の施設をあちこちに増やすことなく、その場、その土地でしかできない企画によって人を集めることができれば、潜在市場の大きなエンタメになるのではないか。

もちろん僕は経営のプロではないので、このあたりはただの思いつきだ。とはいえ、イマーシブ・シアターにおける体験の価値の本質については、社会学や経済学の基本的な理論を押さえておくだけでも十分に理解可能だし、そのうえでいかにして価値提供が行われるかを考えるのは、決して無意味なことではないだろう。

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