それでもまだ成長期

雑記

最近、あるデータを見ていて気づいたのだけど、こと働き方に関して言うと、自分の世代とその下の世代を比較したときに、僕らは「好きなことを仕事にしたい」「リーダーシップや決断力のある上司が理想」という傾向が強いようだ。サンプルの偏りとか調査設計の問題はあるにせよ、どことなくイメージが浮かぶ結果だと思った。なんといっても、自己主張することと、自分を軸に考えることが結びついているのだと思う。

それは同世代から少し下くらいまでの人たちを見ていても感じるところだ。SNSでも隙あらば自分語りが展開されるし、「セルフブランディング」なんて言葉も飛び交っていた。心理学的には承認欲求の中でも「称賛獲得欲求」というのだけど、世の中の立場がどうあれ、まず自分に注目を集めたいし、称賛されたいという意思の強い人が目立つ。ちょうどベンチャーブームだとかSNSの登場だとかが重なった20世紀末から21世紀初頭にかけての動きがあり、とにかく人を押しのけて誰よりも先に称賛を獲得しようという人たちがたくさんいたのが一昔前の「個人アテンションの時代」だったのではないか。

良くも悪くも、パンデミックの間にその傾向がリセットされた感はある。アメリカではフェイクニュースの問題やベンチャー詐欺事件などがあり、アテンション・エコノミーの弊害が指摘されるようになった。日本でも外出が制限されている間に「映えスポット」のことも忘れられ、画面に登場するのは自宅の部屋ばかりになった。すべての流行がそうであったように、魔法が解けてしまえば、「なんであんなことに必死になっていたんだろう」と思うようなことばかりだ。

代わって登場した若い世代は、ほんとうにしっかりしているなと思う。「Z世代」とか呼ばれて、やれ自己中心的だとか、逆に自己主張がなさすぎて理解できないとか言われる彼らだけれど、僕から見ればその行動原理は割とシンプルだ。彼らは、人間関係をギブ&テイクで捉えたときに、テイクのないギブはしないけれど、ギブされたものに対してはちゃんとお返しをしなければいけないという公平性へのこだわりが強い。そしてその公平性は、社会的な立場とか世の中の通念よりも優先されるというものだ。

だから、ペイ・フォワードというか、こちらから先にギブすると、できるだけ貸し借りのない状態に戻すために一生懸命になってくれるし、たとえ小さな不公平であっても、こちらの不適切な行動には丁寧に(ときに強めに)指摘してくれる。逆にギブに対して力不足からお返しができないとなると、申し訳なさゆえにその関係性から撤退してしまうことすらある。その行動原理さえ分かっていれば、ものすごく信頼できる人たちだし、関係構築もしやすくなった。

信頼関係を築くと強い、という特性と、不特定多数から称賛されたいという傾向は、特に相性が悪い。別のデータを見ても、この世代は鍵垢で身近な仲間に認められたいという特性があるようだ。心理学的には承認欲求の中でも「拒否回避欲求」と呼ばれるものに近そうに見える。褒められるために多少の「やらかし」をしても構わないというスタイルは一昔前のもので、むしろ嫌われないことが重視されている。といっても同調圧力というか、排除圧力が強いわけではなく、人はだれも平等に尊重されるべきだという価値観も強いので、結果的に、誰もが共感し、反対のしようのないクリーンな倫理にコミットしているように見える。

そうした変化の中で、僕自身の価値観も大きく変わっている。旧世代らしく隙あらば自分語りというのは変わらないのだけれど、人を押しのけてでも称賛されたいとか、自分の不遇な状況をSNSで愚痴って慰められたいとアピールする同世代に対して「重苦しさ」を感じる度合いが高まっている。もっと言えば、ある年代より下の人にとっては老害とさえ映るだろうな、とも。

自分の中でこの価値観の変化を感じ始めたのはコロナ直前くらいだと思うけれど、昨年からの1年あまりが、より自覚的に「変わらなければ」と思った時期だった。「もう自分たちが若い頃の感じが通用しない時代だよね」ということを思っている人は多いだろうけど、僕の場合はもっと積極的に「年長世代として、若い人たちの感じ方を潰さないように」という意識で行動パターンや言葉の使い方をアップデートした。

ただ、それが本当に苦しくもあった。自分自身がアップデートされていく中で、以前のままの価値観で動く周囲とのズレが大きくなっていったり、自分の中では許せないことをされたり、それでかえって自分を責めたりといったことが続いて、気づけば駅のホームや街なかで涙が止まらなくなることが多々あった。「なんでお前まだ生きてんの?」という声が頭の中を鳴り響き、不眠が続いた。人を恨むな、自分を責めるなと何度言い聞かせても、心のほうが追いついてこなかった。

ずっと続けてきた音楽制作を、配信という形で世の中に聴いてもらうことにしたのがちょうどパンデミックの頃だった。最初は、仕事に行く道すがら聴けるくらいの長さの作品が数曲あればいいと思っていたものが、気づけば年々曲が増えていった。でも、制作を始めたのが世の中的にも閉塞していた時期だったこともあり、聴き返すにも重たい気持ちになるものも少なくなかった。ここらへんで一度精算しなければ、という気持ちから、アルバム制作を本格的に始めたのが去年の夏頃だ。

制作は、信じられないほどスムーズに進んだ。大学教員の仕事とメディア出演を両立しながら新曲を書き、アレンジ、レコーディングを終えたのは12月。これはシングルにしようと当初から決めていた「ここにいるのが君なら」に続いて1月には『環世界』をリリース。あれだけ精神的に追い込まれながら、ちゃんと自分の作品を生み出すことができたという達成感が、アップデート前の自分を受け入れ、前に進む力になったように思う。

自分の表現が売れたらいいとか、たくさんの人に聴かれないと不安だとかは思わない。聴かれていようといまいと、2024年に自分がどんなだったか、きちんと楔を打てたと思うし。でも、これは本当にありがたいことなのだけれど、データを見ると毎日何回かは、過去の曲も含めて聴いてくれている人がいるのだ。僕はミュージシャンではないし、歌がうまいわけでも楽器が弾けるわけでもないから、誰かの人生の一部をそうやっていただけているのは、心から嬉しい。

48歳になった。番組でご一緒している同年生まれのアナウンサーさんとは「還暦レースラスト一周」なんて笑ってるけど、衰えているとか下り坂だとかいう感覚はぜんぜんない。別にうまくもない歌も、下手くそなのも含めて自主制作で音源を出していた20数年前から変わっていないと思う。むしろ音楽に限らず様々なことで、たくさん勉強して、毎日のように新しいことができるようになっているから、もっと成長できそうだなと感じてすらいる。好きにやれる場所に、好きなように飛んでいけると思う。そういう自分なら、好きでいられると思う。

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