当事者と利害関係者

091016

写真は、ジュンク堂梅田ヒルトンプラザ店6Fエレベーター前で開催されている「関西レインボーパレード2009ブックフェア」。イベントの運営に関わっている子がLifeのリスナーさんで、僕らのブックフェアに触発されて、自分で企画を持ち込んだとのこと。今月いっぱい開催中。また24日に行われる関西レインボーパレードでは、大阪御堂筋でパレードが催される予定。僕は当日のアフターイベントでちょこっとだけ喋るのだけど、そちらは告知の方を参考に。

しかし、当事者ってなんだろうね、と考える。近年、社会学界隈ではこの当事者って言葉がよく使われていて、それは要するにある種の権力性に隠蔽された当事者の生の声を、研究者が明るみに出すことで、当事者の状況を改善したり、権力の構造を問題にしたり、まあそういう文脈で使われるらしい。他方でそうしたアプローチには、勝手に「当事者」を代弁する研究者もまた権力なのではないかとか、対象に寄りすぎて個別最適を主張するあまり、客観性や中立性を欠いた議論になったり、全体の最適化を阻害する帰結を導出しているのではないかとか、そういう批判も投げかけられている。

でも僕が気になっているのは、もっともっと手前のところ、そもそもそうした研究なり活動なりをしている人たちがカテゴライズするその人たちの呼称は「当事者」でいいのか、ってことだったりする。法律の分野で「当事者」と言えば、訴えたり訴えられたりする正当性を有した人のことだ。英語なら「party」を使って表現する。しかし社会問題の「当事者」とは、その問題のもっとも中心にいる利害関係者(stakeholder)のことで、法的資格うんぬんとはさしあたり関係ない。

この分野の研究者たちは、英語で論文を書くときはなんて表現するのだろう、と思うのだけど、この概念の違いは、けっこう重要なんじゃないかという気がする。例えば一般的に「当事者」という言葉で表現するなら、セクシャル・マイノリティの存在をアピールするイベントに関わる僕は、ノンケだけれどもその日その時点で十分に「当事者」だ。イベントのパンフレットには、あらここにもひょっこりって感じで大阪府知事の祝辞的なコメントも載っているのだけど、そういう意味では彼だって「当事者」だ。

ステイクホルダーという概念が社会問題の中で有効に機能するのは、これまで発言を認められてこなかった人々を「当事者」として当該の出来事の中に巻き込んでいくときだ。それは会社経営に権利を持つ、株主と経営者以外の人々は誰かとか、環境問題に対する、「直接の影響」を被る範囲はどこまでかとか、そういう場面で噴出する。だからステイクホルダーとしての当事者は、必然的にその境界を揺るがし、曖昧にしていく傾向にある。

それに対して社会問題を扱う研究者にとっての「当事者」とは、これまで「蚊帳の外」だった人々に、物言う権利があることを示し、彼らの声に耳を傾ける必要性を訴えるという点で、人を「アイデンティファイ」する振る舞いに関わっている。つまり「誰が当事者か」という問題を確定することから、社会問題の性格付けを変えるというものなのだ。そしてこの言葉は、何らかの「アイデンティティ」を必要としている人々を巡る社会問題の中で使われがちであることを含め、どちらかというと「境界を確定する」ために用いられることが多いようだ。

もしかしたらそれで大した問題はないのかもしれないけど、例えばまちづくりに関する「当事者」とは、「そこに住所を持つ人」なのか「そこを訪れるすべての人」なのか、なんてことを考え出すと、「当事者を巡るポリティクス」は、とたんに問題の本質へと切り込んでくるものになる。また、時間の話も重要だ。いまある状態にいる人だけが当事者なのか、それともかつてそういう経験をした人はみな「当事者」たる資格を有するのか。その辺りのことって、誰か考えているんだろうか。

本当なら、何か別の言葉を発明した方がいいのかもしれない。アイデンティティ・ポリティクスと社会問題の関係は複雑だし、ましてや研究の世界でそれを扱うとなると、すごくデリケートな問題が多々発生するのだし。きっと「私たち・が・当事者だ」というのと「私たち・も・利害関係者だ」という物言いとの間にこそ、マジモンの権力が横たわっているのではないか。

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