〈ほんもの〉を捏造する

雑記

昨日は、仕事の予定が思ったより進んだ(というか〆切が延びた)ので、行けるかどうか微妙だった「Architecture After 1995」のシンポジウム、「『2000年以後』を考える」を見に行ってきた。パネリストは五十嵐太郎氏。氏が関わった2000年の展覧会「空間から状況へ」と今回の展覧会を比較しつつ、10年前と何が変わったのか、何が引き継がれたのかについて、出展した建築家たちを交えつつ振り返るという構成。『思想地図vol.3』の巻頭座談会「アーキテクチャと思考の場所」が、1999年の『批評空間』誌上における「いま批評の場所はどこにあるのか」へのアンサーになっていたことと、おそらくパラレルに企図されたものだろう。シンポジウムの中身というより、出展されていた方々のアティテュードについては個人的な問いが残ったが、それは会場でも言ったとおり「保留」としたので、押しかけでコメントした部分だけ、あらためてまとめておきたい。

シンポジウムを聞きながらひとつはっきり分かったのは、藤村君が「プロセス」にこだわることの意味と、00年代の風景とのリンケージだ。00年代とは、いかなる時代だったのか?様々なリソースを引用し、あらゆる角度から語ることができるだろうけど、最大公約数的な要素として「繋がり」を挙げることに反対する人はいないだろう。僕が「ネタ的コミュニケーション」(02年)と言い、北田暁大さんが「繋がりの社会性」(05年)と呼んだ、コミュニケーションの内実ではなく、接続されていることそのものが目的であるような「コンサマトリーな繋がり」が、ネットやケータイを通じて前景化し、バーチャル世界ではなく、現実世界の方を志向(大規模オフ会!)した時期だった、と。

社会批評の文脈では、そうした傾向を頭から否定せずにどう向き合うか、ということを語る人が(僕を含め)多かったけれど、一般的なレベルでも、「繋がれて、嬉しい」という文言は、通信関係のみならず、年賀状の広告や、流行歌の歌詞にまで登場し、誰も意識しないうちに、僕たちの関係性のモードを表現するスタンダードな言葉になってしまった。その意味で、「00年代は繋がりの時代だった」と言う人もいるだろう。が、僕の考えでは、それはまったくの間違いだ。

「繋がる」という言葉には、「分断されていたものが接続される」ということが含意されている。たとえば、離ればなれになっている家族や恋人も、電話があれば繋がれて、嬉しいね、といった具合に。しかし、そこで人はこういう疑問を抱くべきではないのか。そんなにしじゅう繋がっていたいなら、一緒に住んで、24時間ともに過ごせばいいじゃないか、と。なのになぜ、わざわざ電話でなければ繋がれないような関係にとどまっているのか?

おそらく、考え方が逆なのだ。こうした言説は、「繋がれて、嬉しい」という「結果」を導くために、あらかじめ「断絶」を滑り込ませたものなのだ。そしてその「断絶」は所与のものとされ、「解決」のためには「繋がり」を可能にする手段(たとえばメディア)を持たなければならない、とされたのである。00年代とは、この「繋がり」の可能性を「発見」するために、様々なところで既存の関係が無意識のうちに「分断」された時代だったのじゃないか。建築に関して僕はからきしの素人だけど、ある建築に対して何らかの「意味」を付与しようとするとき、なぜかそこに「無意識のうちの断絶」が入り込んできてしまう、そういう風潮ってあったのかもしれない。あれとこれが繋がると、ほら街が賑わいますね、と。でもそこでは、以前の街が本当に賑わっていなかったかどうかが、きれいに無視されるか、忘却されているのである。

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そこで持ち込まれた断絶が、メディアなどによって再び補完されていれば、それはまあ商売の理屈でしょうがないね、ということになるのかもしれない。けど、上の図の通り、その「繋がり」は、あくまで選択的なものであり、「繋がれる」ということが可能性として開示された結果、「繋がれない」部分も生まれてしまうのだ。ちょうど、自分がアドレス帳に登録されていないことを知った瞬間に、どうでもいい知り合いとの関係に、なにか傷が付いたような感じがしてしまうように、それは「繋がり」の可能性を与えられたことで「欠落」として意識されてしまう。なぜか。僕たちが無意識のうちに、あらかじめ「分断」を持ち込んだからだ。

コミュニケーション手段でも、建築でも構わないけれど、僕たちがそうした「繋がりの結果」だけを確認するとき、そこで「何を分断したのか」という経緯は隠蔽されてしまう。藤村君の「プロセスへのこだわり」は、実は期せずして00年代において僕たちが吐き続けてきた嘘――「繋がらなければならない」が、どのようにして発生したのか、その原因と結果を明らかにするものになっている、と思う。いや藤村君はそんなことないって言うのかもしれない。でもこの数ヶ月、彼の周りで色んな人の「プロセス」を見させてもらって感じるのは、その過程とは「何が足りないかを探し、埋め合わせる」あるいは「埋め合わせた結果、いつのまにか繋がったものを再発見する」という振る舞いの連続なのだ、ということ。そこになにもなくても繋がりはある、ということを意識している展示には、お目にかかったことがないのだ。

じゃあ、この00年代のモードは、10年代にはどう受け継がれるのか?まず考えられるのは、その「分断」は、結局インチキだったのだ、僕たちは、「分断」以前の〈ほんもの〉の繋がりを再構築しなければいけないのだ!という主張だろう。こうしたことを言う学生は、ネットについて教えていればどこの学校でも珍しくないし、石川県の携帯所持禁止条例のようなケースだってある。でもこれ、僕にはあまり意味のない主張に思える。「何かが欠落した不完全な関係性を、現状を変えることで完全な関係性に変換しなければならない」という論理の形式は、何も変わっていないからだ。一方は空間やメディアの設計を、他方は法や規範(教育)の設計を呼び出しているに過ぎない。

そもそも、その関係が〈ほんもの〉かどうかなんて、時間的な前後関係で変わるはずだ。昭和30年代にはあったとか、おばあちゃんの頃にはあったとか、それは歴史的な事実かもしれない。けれどそれを経験していない今の10代が「あの頃の懐かしい関係を取り戻そう」とか言い出したらそりゃダウトだろう。「ほんとうらしさ」はいつもそうやって捏造される(捏造という言葉が強すぎるなら、『構築される』という用語もあるが、これは別の意味で負荷が高すぎる。一番マシなのは『再帰的に選択される』だが、それが指すところを理解できる人はごく少数だ)。

むろん、だからといっていけないというわけじゃない。「メディアで繋がれて、嬉しいね」から「〈ほんとう〉の繋がりが取り戻せて、嬉しいね」に変わるだけだとしても、そこで描かれる具体的な「繋がり」は、00年代とは随分違った風景になるだろう。それでも僕は、そうした〈ほんとう〉を取り戻す/捏造するという方向の外に、違った想像力が期待できないかな、と思っている。というのも、そこで取り戻された〈ほんとう〉は、結局のところ、想定された〈ほんとう〉とは異なる、いびつな形をしているはずだからだ。

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分断されたものをつなぎ合わせて〈ほんとう〉を取り戻そうというとき、そこではまず間違いなく、メディアによってすら繋がることができなかった要素が、慎重に取り除かれている。その最たるものは、〈ほんとう〉の繋がりの全体性を取り戻そうとする動きに対して消極的だったり否定的だったりする要素、たとえばみんなで盛り上がる祭りの準備の最中に、「これやって何の意味があんの?」とか自問自答しちゃってる「空気の読めない」奴らだ。たいてい僕らは(たぶん僕だって)そういう空気の読めない人を無言で排除しながら、彼を除いた集団の総体を「全体」と捉え、「みんなで準備盛り上がれてよかったね!」とか言ったりする。しかし、上の図でいえば、誰もが元あった丸っこい四角形を取り戻したと錯覚しているけど、その実そこでできあがったのは、あちこちが欠けた、いびつな領域なのだ。

空間の設計ということで考えるならば、〈ほんとう〉の繋がりを取り戻し、利用者に対して、それがどれだけいびつであるかを気付かせず、あたかも「全体性」が回復したかのように錯覚させる空間が、「よい」とされるようになるだろう。けれどもその評価に乗っていけない、いきたくないというのなら、僕は、ある定められた空間の中に「空気の読めない空間」を作るということが必要なんじゃないかと感じている。

なんだか電波な表現だけど、僕は決して「空気の読めない人のための空間」を作れと言っているのじゃない。一度は切り離された「空気の読めない」空間を、あたかもそこにあることが自然であるかのように、再び埋め込むのだ。今回の展示およびプレゼンでいえば垣内光司さんの作品は、とてもそういう意図に満ちたものだったと思う。たぶん彼の話の中では、そういう要素は結果的に抑えられていたけど。そういえばそう思って学校の中を見渡してみると、意外にこの大学にも「空気の読めない空間」はあって、そういう場所には、やっぱりたいてい個性的なたたずまいの学生が集まっている。

どうせ悩むのなら、建築家は建築家しか悩めないことで悩むべきだし、そのために、既に他の誰かが考えていることなら、それは他人の褌で相撲をとりまくればいいのだと思う。何を考えたかの前に、誰の褌を巻いたか、結局はそれが問われるのじゃないか。

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