ハコの中の宇宙

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月曜日、歴代のDoCoMoのケータイが全機種展示されている、と聞いて、ラジオ明けのへろへろの体で表参道へ。ヒルズは久しぶりに行ったけど、相変わらず入り口がよく分からない。でも展示を見ながら切なくなったのは、体調のせいだけではないと思う。

2007年くらいからだろうか。携帯電話の、モノとしてのデザインは完全に停滞しているなというのが第一印象。むろんマイクロタック・ショック以降の小型化、軽量化の流れの中で、限界まで機能を詰め込んだ小さなハコの取り得るデザインのバリエーションはそう大きくないし、ある種の合理的な収斂が結果として生じただけかもしれない。でも、それにしてもほぼ同じ大きさの四角いプラスチックの固まりがただ並べられる光景は、近年になるほど機種の点数が増えることとあいまって、非常につまらない印象を与えるものだった。

ソフトウェア上も(ここ最近のスマートフォンブームを受けてもなお)ほとんど差別化ができず、デザインも横並び。せいぜい変えられるのは開き方くらいというガラパゴスの極地は、それはそれで感慨深いし、それをアートと呼ぶなら、キャンベルスープ的な意味ではそうかもね、くらいの感じなのだけど(それだってMOMAで見たときにはもうちょっと強いインパクトだったけど)、どうしてこうなった、という点については、考えなきゃいけないのだろうなと思ったり。

プロダクトデザインの世界には、セオリーというものがちゃんとある。きっと最近になるほど、現場の人はすごく勉強していると思うし、少なくとも勘だけでやってる人よりは、ユニバーサリティに配慮したものができていると思う。いまやケータイは公共的なインフラとも言える財だし、奇をてらう必要はないのかもしれない。実際、90年代のケータイが、いくら模索期だったとはいえ、あだ花としか言いようのない機種をいくつも生んだのは確かだし、エゴでデザインをするべき分野の仕事じゃないから、「面白ければいいじゃん」とも思わない。

ただ、僕が気になったのは、そこまで勉強するのは何のためだろう、ということだった。セオリーは、破るために学ぶもの、というのがそれこそセオリーだと思っていたのだけど、その結果に自信が持てないのか、いまでは想像力を超えようとすることが禁じられる、というか、セオリー違反だと見なされ、セオリーに従ったのに売れない、となると、市場や消費者の方がおかしい、となる。それはある意味で理論家の放漫なのだけれど、放漫でなければ理論家などとは名乗れないので、仕方のないことなのかもなあ、とため息。

想像力を超えるデザインってなんだろう。アラン・ケイのダイナブックからiPadに至るまで、あるいはウォークマンでも、ノートパソコンだっていい。要するにそれは、デザインが生きられる場を提案することに他ならない。奇抜ということではなく、使われなかったところで、それまで使おうとしなかった人に、プロダクトを使わせるということであり、それが社会の倫理に挑戦することに対して、責任を持つことだ。電車でゲームしたりメールしたりする人が増えることで、眉をひそめ、「迷惑だ」と声を上げる人に、どこでもメールできることは幸せを増やす、と主張することだ。

ことデザインに関する限り、問題はガラパゴスではなく、デザインに対して胸を張れなくなったこと、文句を言われたら謝るしかなくなったこと、デザイナーがデザインのために命を張ることが許されなくなったことなのだと思う。フロアの4割近くを、この2、3年の間にリリースされた携帯電話が占めていたのだけど、きっと、関わったデザイナーの数も、それ以上に増えているのだろうと思い、これはいろんな意味で、人ごとではないのだろうなと感じたのだった。

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