脱・個人所有の時代は来るか

雑記

昨年はあまり目立った活動はしていないのだけど、ウェブや雑誌でインタビューを受けたり、企業の内部セミナーで喋らせてもらったりと、仕事そのものはたくさん受けていた。執筆も、発表されたものでチキーダとの共著や思想地図β、そしてまだ刊行されていないものなども何本か書いていて、まあ単著を出さなかった年としては例年並みの忙しさだったはず。ただ体調を崩したりしていたこともあって、後半は遅れた仕事を巻き戻すだけで精一杯になっていたのも確か。ずいぶんとブログも書かなかったので、いくつか去年やった仕事の話でもまとめておこうかな。

某自動車メーカー絡みでは、「若者のクルマ離れ」をネタに喋らせていただいた。もちろん僕が喋るので、「なぜ若者はクルマを買わないか」について喋ることはない。むしろ、「誰もが一家に一台のクルマを望んだのはなぜだったか」について解説することを通じて、もはやそれが当たり前ではなくなった時代に、どうクルマという商品について考えるか、そのヒントを提供するのが役割だ(だって、本格的なマーケティングは、彼ら自身がやってるものね!)。

出発点となるのは、社会学がモノに対して向けてきたまなざしだ。モノは、単なる物質財ではなく、また、ひとりひとりの異なる選好によって消費される商品でもなく、その時点における人々の理想を反映した、つまり社会的な欲望を背景に市場を流通する。言い換えれば、人が何を好むかはその人の自由だが、たとえ自由に選んだように見えても、その選択には何らかの傾向があり、その移り変わりは、社会の移り変わりをも反映しているのだ、ということだ。

それってホントなのかよ?と言い出すと話が長くなるので、一応その前提で話を進めると、第二次大戦後に復興を遂げたいわゆる西側先進諸国では、その社会的な欲望を共有する人々のサイズが国民レベルになり、また現実にその欲望をかなえるだけの経済成長にあずかることができるようになった。いわゆる「高度成長」による「大衆消費社会」の到来だ。

大衆消費社会は、人々に様々な夢を見せる。ここで言う夢とは、なんとしてもかなえるべき規範のようなものではないが、望んで努力すればいつかはかなうはずの願望という意味だ。つまり「こうなるべき」というほどではないが、「こうなるはずだ」とぼんやりと信頼しているようなモデル、それが夢である。

その夢のうち、クルマ消費に関わるものをみっつ挙げるとすれば、「明るい未来」「温かい家庭」「豊かな生活」ということになろう。未来が明るいというのは、社会の成長と個人の成長がリンクしている、つまり世の中の進歩に自分がついて行くという意味だ。そして両者の架け橋として、「交通」はとても分かりやすいものだった。遠くまで列車が伸び、高速が走り、都市部に地下鉄が整備されていくとともに、「遠くまで、速く」移動できるようになるということが、社会と自分の進歩を象徴していた。

遠くまで速く行く動機とは何か?高度成長は労働者の待遇を改善し、定期休が確保されるという副次効果ももたらした。同時に都市部で雇用が増えたこともあって、田舎を出て都市でサラリーマンになる人が増えると、若い世代は田舎の風習を離れ、アメリカ流の核家族イメージを模範とした家族形成を夢見るようになる。この「温かい家庭」を支えるために、定期休にクルマに乗ってレジャーに出かけるという余暇消費が重要になるのだ。

つまり、社会の進歩と共振し、温かい家庭を築けているかどうかの指標として、一家の稼ぎ手である夫がクルマを所有するということは、様々な夢の中心的な出来事であったし、またそれゆえ、所有しているクルマの「格付け」が、そのまま彼らのかなえた夢の格付けでもあったのだ。だから彼らは、豊かな生活を手に入れるために、クルマという物質的な財を必要としたのである。

だが、物質を所有し、消費することが夢であるような時代の条件は、1970年頃を境にして次第に失われてしまう。その説明はグローバルな経済環境の変化や雇用問題など多岐にわたるので別の機会に回すけど、少なくとも個人がクルマを所有し、それが家族を乗せて遠出するハコとしての役割を果たし、そのことによって所有者の地位を表明できるという黄金のリンクは失われてしまったのだ。要するに、今後若者の所得が増大したとしても、彼らの可処分所得が、かつてと同じような動機でクルマに向かう可能性は低い。

たとえば、都市部の人々に対して向けられる郊外の人々の怒りというものがある。環境負荷その他の問題から脱クルマ社会が唱えられるのを、苦々しく眺める人達だ。私たちの生きている環境では、クルマはないと生きていけない。その現実を無視して脱クルマを言う人達は、私たちのことを不当に無視しているというわけだ。その異議申し立てがどの程度当たっているのかについては疑問を感じることもあるけれど、そこに見え隠れしているのは、「生活のために仕方なくクルマを所有している」という感覚だ。生活のための道具であれば、安くて燃費がよければ軽自動車でも中古車でもよいことになる。そこでは、「格の高さ」を売りたいメーカー側と、「道具」としての使い勝手を求める消費者との間に、重大なミスマッチが生じることになる。

仕方なく乗ってやってるのだ、くだらない付加価値なんかどうでもいいから、とにかく安くしろ、という消費者に応えようとすれば、おそらく新興国の方が一枚上手だろう。草食化した若い奴らのことなんか知るか、オレはクルマの夢が好きだぞ、という(なかば妄想混じりの若者批判が鼻につく)顧客だけを相手にするのも、グローバルな新興富裕層へのリーチを考えない限り頭打ちだ。というか、後者の道を採ったとしても、ある意味で「バタくさい」グローバルな高級車を日本の消費者が受け入れるのかどうか、よく分からないところがある。

ひとつの方向性として僕は、「所有」「遠出」「地位」という、ある時代にクルマが体現した夢を、別の形に切り替えていくことはできないか、と考えている。個人(とその家族)が遠くに行くためではなく、「みんな」で「近く」を乗り回すために使うカーシェアリング、行く先々で車格を自慢するためのクルマではなく、近い場所で価値観を共有するための、個室としての役割に注目したクルマや、停車時間を上手に利用できるクルマ。個人にとっての価値観ではなく、他者や、社会にとっての価値観を表現するための手段としてのハイブリッドカーやコンセプトカー。現在あるものだって、十分に新しい要素は持っている。それを、うまく新しい枠組の中に位置づけられていないだけだ。

「共有」とか「みんな」とか、ウェブの新しい動向の分野ではとにかくあらゆるところで繰り返されている。でも、完全に情報化された分野でのみそれが起こるのであれば、それはその手の論者が言うような産業革命以来の時代の転換ではなく、単なる新市場の到来に過ぎない。個人が所有し、そこに夢を託すことが当たり前で、それを傷つけられると彼らが強い憤りを覚えるようなモノの消費において脱個人所有化が進まない限り、真の意味でのソーシャルな消費など生まれようもないだろう。

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