第85回日本社会学会大会まとめ

この週末は、日本社会学会の年次大会のため札幌。数年前に訪れて以来だったのだけど、なにせ今回はかなり慌ただしい学会だったので観光的なことはほとんどできず。というのも、自分の報告に加えて日韓フォーラムという国際部会にも登壇することになったため、ほぼずーっと学会に張り付いてないといけなかったからだ。学会っていうのは普段勉強してない分野の話、最新動向が聞けるから楽しいのに、自分が緊張状態でアウトプットするだけというのはほんとにつまんない。まあ夜は夜で2年前の名古屋と同じ後輩を引き連れてかなり深い時間までススキノを飲み歩いてたのでそれは楽しかったんだけど。

内容的なことを振り返ると、初日の報告は、おそらくは日韓フォーラムとのスケジュールの調整で会話分析の部会に放り込まれたため、議論の時間を奪っちゃって申し訳なかったなあとか。でも会話分析って初めて聞いたんだけど、一般的な疑問として、会話内での権力関係や非対称性の構築プロセスを見るのにはいいだろうけど、その背後には個々人のテクニックや業務マニュアル、規範意識などがあるはずで、どこまでを会話の効果と見るのかってどう処理するんだろってのが気になったとはいえ、たとえばラジオパーソナリティのような、会話で関係性を生み出す仕事のプロのテクニックなんかを分析すると面白いんだろうなあと思った。まあ既にあるでしょうけどもちろん。

それから日韓フォーラム。コメンテーターの遠藤先生が指摘されていたように、日本においては悲観論と楽観論と慎重論の三つ巴が、ネット普及以前から変わらず喧々囂々するのに対して韓国では、社会全体を巻き込んだ楽観論が出てくる。この対比について語ることは重要だと思う。僕の薄い知識では、韓国においてもネット利用の南北格差、世代間デバイドはかなり確認されていたはずで、逆を言えばそれでも若年層にとっての重要な道具だという認識が出てくるのは、むしろかの国の社会的な課題、あるいは若年層のつきあたるガラスの天井を露わにしているとも言えないか。まあそんな話をできる語学力ないんですけども!

聴けた部会で言うと、松田先生ほかによるモバイルコミュニケーション部会。これは質問でも無茶ぶりしたのだけど、やはり個人利用が前提で、個人がどのように利用しているのかを明らかにしようという意図の調査で、社会の一体性や公共性はどのように可能かという問いを立てるのは難しいんじゃないかという印象を持った。社会の一体性のようなものは、ネットもひとつの要因として取り込みつつも、その他の様々な関係性やコミュニケーション、メッセージ、表象から成り立つわけで、ネット利用者が分断していくからといって、それがただちに社会の分断を意味するとは限らないし、解決のためにはネット利用者が相互にコミュニケーションできればいいというわけでもない。むしろ、ネット利用のシーンにおいては分断されていても、たとえばネットを利用しない高齢の親とネットをよく利用する子どもが家庭内で会話できていればいいという話だってあるわけだ。あるいは帰宅難民になったとき、待っててもバスは来ませんよ、ネットに書いてありますよ、一緒に歩いて帰りましょうって周囲の人に声をかけるとか。

それとの関連で考えたのは、今回の目玉でもあった宮台×小熊対決が見られるかと思われた理論シンポジウム。お互いの間に対立点はない、という話になっていたものの、もちろん立場や考え方に重要な違いはあるわけで、それでも実践上の課題や方向性が同じである以上は、それって要するに方針の違いでしかないよね、という意味では、そんな変なバトルにはならなかったなあという。ただやっぱり、両者が共有しているある種の図式、つまり、もう社会は変わってしまったのに、いまだ戦後の安定社会モデルから意識を変えられない私たちという対比図式から「変わらなければならない」という結論が導き出されるロジックには、どうにも気になるところがあった。

宮台さん自身が述べていたように、依存的な個人→デタラメな民主制というロジックの背後には、一般的には丸山真男があると思われている。だが植村邦彦によれば、このあたりの経緯はすごく複雑だ。すなわち、そもそもマルクス主義の用語として輸入された「市民社会」という概念には、市民革命によって生じた資本主義的な関係性の取り結ばれる場所という意味と、社会主義革命が成った後の「人間の尊厳と平等な権利との相互承認に立脚する社会関係がつくる公共空間」という意味があって、両者はときに混乱していた。講座派の論者は日本の「半封建的特殊性」を問題にしていたから、日本には不完全な市民社会しかないという立場をとったけど、それもどちらの意味なのかあやふやだった。一方で大塚久雄、丸山真男などのラインでは、市民社会=資本主義という理解だから、日本の不完全な市民社会を完全なものにしなければならないという動機はない。

植村の理解では、講座派にルーツを持つ、後者の市民社会を日本につくり出そうとする〈市民社会論〉は、戦後の大衆社会化、そしてその後の低成長期を迎えるにあたり、モラルの低下を根拠に現在の市民社会を批判し、ギリシア的、カント的な「新しい市民社会」をつくり出さなければならないとする中曽根的な政治改革の中に飲み込まれ、日本型新自由主義社会成立の根拠となっていく。実はこの辺が僕の気がかりと関わっている。要するに、「日本はもう変わってしまった、市民の意識をアップデートし、自立しなければならない」というのは、2000年代以降の日本政治における典型的な語り方、特に橋下徹氏の言い分そのものなのだ。

だからいけない、と言いたいわけではない。でも、慎重さは必要かなと思う。小熊さんへの質問紙で聞きたかったのもそこだ。つまりこの種の語り方は、変化こそ宿命であり、その宿命に抗うものはサバイブできないのだという抑圧的なシバキ論になりがちだ。そしてシバキ論はたいてい、相対的に不安定な層には「リスキーなチャレンジへの動員の言葉」として機能し、結果的に彼らの多くをさらなる不安定に追い込む一方で、「まだ大丈夫」だと思っているエリート層にとっては、認知的不協和を埋めるために棄却されるメッセージになりがちだ。

この辺は、宮台さんについても似たようなところがあると思う。べき論でメッセージを出してもだめ、だからしくみづくりなのだ、という主張にはすごく共感するし、またその仕組みも、一方的な啓蒙ではなく、自己否定性をはらんだしくみによるパターナリスティックな介入なのだ、ということになっているわけで、シンポの後でご本人にも伝えたのだけど、まさに宮台社会論の集大成と言える枠組みになっている。でも、僕自身も昨年のLifeでやった「信じる論理、信じさせる倫理」で、この辺のジレンマは扱ったのだけど、やはり宮台理論が持っていた根本的な疑問、すなわち、「仕組みをつくったとして、誰がそれに参加するのか?」という問題を露わにしているように思える。

実践的には、もう時間をかけて賛同者を増やしながら、リクルーティングとサステナビリティのシステムが自律的に回るまで耐えるしかない、ということになると思う。そういえばなんだかすごく元気な小熊さんに比べて、先生はずいぶんとお疲れのようにも見えた。でも、実践に関わる以上、そこでの評価は論理的な整合性や知的なレベルでの真偽を明らかにすることではなくなるはずだから、細かな話はともかく、頑張っていただきたいなと思ったのだった。ああなんかすごい他人事っぽいけど、いや結局師匠と同じとこでつまづいて悩んでるんだよなーと、すごく勇気をもらったのですよこれでも。

市民社会とは何か-基本概念の系譜 (平凡社新書)
植村 邦彦
平凡社
売り上げランキング: 79689

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする