別れは出会いの始まり

雑記

2012年が終わる。大晦日の朝までLifeで5時間喋り倒し、そこから忘年会というあわただしい出張だったので、正直年末という感慨はない。大掃除もしてないし、年が明けたら早速取りかからないといけない仕事が山積みで、よくある3連休程度の感覚だ。

もちろん振り返ってみれば、今年は大学院の役職を担当しながら所属学会には参加コンプリート、論文も共著も出たし、どこに出しても恥ずかしくない激務イヤーだったことは間違いない。春から体重はがっつり落ちたし、自然に起きているとはいえ、4時とか5時起床で、早朝くらいしか自分の情報収集に充てられる時間もなかった。というか最初の本が出てから10年つっても誰に祝ってもらったわけでもないし、最後くらい自分で自分をべた褒めしても許されるんじゃないかと思う。

そんな年の終わりに、もう毎年のことなのだけど同じことを書く。毎年大晦日には、「七味五悦三会」を数えながら一年を振り返ることにしている。大晦日の除夜の鐘が鳴っている間に、その年に食べた美味しい料理を七つ、楽しかった出来事を五つ、会えて良かった人を三人挙げることができたら、その年はいい年だったねと言って暮れるという江戸の風習だ。

2012年は、いいこと探しをすれば数え上げるのに事欠かないくらいハッピーな年だったけど、二度と振り返りたくないくらい辛いことも同じくらい思い出せる、触れ幅の大きい一年だったと思う。内容が濃いってことでもあるんだけど、それでも毎年困るのは「三会」だ。

その年に出会えてよかった人とは、その年に初めて会った人のことでなければダメなんだろうか。もちろん、そういう出会いだってあるだろう。でも、名刺を配って回るのが好きな意識高い系じゃあるまいし、そんなに毎年いい出会いに恵まれていたら、36年も生きてたら大変な人脈を築いていることになるはずだ。

出会いの善し悪しなんて、実は出会ったその瞬間に判断できるものじゃないと思う。ソーシャルメディア全盛のこのご時世、誰それと誰それが友達になりました、という「出会った瞬間」の情報は山ほど流れてくるけれど、誰かにとってその出会いが本当に意味のあるものになった瞬間のことは、誰にも明かされない。もしかすると愛し合っていた人同士が、些細な行き違いで互いを憎みながら別れることになったとして、そんな愛も憎しみも全部飲み込んで、その人を好きになったことには意味があったと思えるようになったときが、その人にとって「いい出会い」が芽生えた瞬間なんじゃなかろうか。

「あなたに会えてよかった」という言葉は、その意味でほんとうには相手に伝わることはない。もしかすると、もうその言葉を伝えることができなくなったからこそ、相手との出会いの意味がはっきりと意識されるようになるのかもしれない。まして、相手がそのことを喜んでくれるかどうかなんて決して分からない。何を今更綺麗事言って。あなたのせいで私がどれだけ傷ついたと思っているの、と返されるかもしれない。

僕たちは、いい出会いを求めて名刺を配ったりイベントを開いたりすることよりも、その過程で生まれる残念な出会いやすれ違いや、一方通行の感謝が生む哀しみにこそ向き合わなくちゃならない。いい出会いを求めるってことは、そうやって行き違いになる想いの可能性を前にして、それでもこの出会いには意味があったのだ、と信じるだけの根拠を、自分の中に見つけだしていくことだ。そしてできるなら、行き違ってしまうかもしれない相手に、自分にとっての出会いの意味を伝える努力を続けることだ。

2012年、僕と出会ってくれた沢山の人たちにありがとう。たとえあなたがこれから、僕のことを心から憎いと思う日が来ても、いつか未来のどこかで、僕たちの出会いに意味があったと思えるように、前を向いて歩いていけたらいいなと思います。

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