現実にウソを混ぜる

たまたま話題になってたので見てしまったこのCM。感動の嵐と紹介されている割にはちっとも心を動かされなくて、全体的にしらーっとしてしまったのだけど、それはなんでなんだろうということを考えてみた。


比較対象としてすぐに思いついたのは「のどごし〈生〉」のキャンペーン「夢のドリーム」シリーズだ。第一弾「プロレス篇」なんか普通にうるっとくるわけだけど、この差はなんだろうというところにポイントがある。

かいつまんで説明すると、ふたつのお話はともに「ありそうもないこと」を描いている。バスケの場合は「いつかシュートが決まる」だし、プロレスなら「長州力と対戦する」だ。そしてその目標のために努力する、という点も似ている。でも両者は、決定的に違う。

何が違うのか。前者では「誰の身にも起こりそうなこと」を、美男美女ばかりが登場するCMとして仕立て上げるための演出がほどこされている。それに対して後者では、「普通は絶対に起きないこと」が、ただの素人の身に起きるという出来事が描かれている。

現実にありそうなことを演出し、ありえない出来事に結びつけていくことを「虚構の現実化」、ありそうもないことを現実に起こしてしまうことを「現実の虚構化」と呼ぶ。重要なのは、どちらもウソなのだが、前者は現実とウソの区別をつけず、後者はあらかじめウソであることが明らかだということだ。

たとえばプロレス篇においても、素人の挑戦、長州力との対戦は現実に起きている。が、そもそもジムでトレーニングするのも、リングで戦うのも、CMのために作られた完全な虚構だ。おそらく、この人が出演できたのだって抽選だとか絵になるとかブッキングの可能性とかを勘案した結果、企画会議を通ったからに過ぎない。では、そういうことが明らかになってしまうとCMの感動は興醒めするか、というと、僕自身はそういう気がしない。そんなことは最初から分かっていることだからだ。

そもそも「虚構の現実化」と「現実の虚構化」という対概念は、電波少年の企画を分析する中で宮台真司が提起したもので、その後のリアリティ・ショウを考える中ではとても分かりやすい分析概念になっていると思う。明らかなウソをホントのように語れられるより、ウソをウソと分かりつつ現実に交えていく方が感動する、ということのディテールについてはもう少しちゃんと考えた方がいいけど、少なくともそれがつい最近の話というわけでないことは確かだ。

メディア研究の文脈で解釈するなら、両者の違いは「疑似イベント」と「メディア・イベント」の差に相当する。ブーアスティンが「疑似イベント」について言及するとき、その背景にはリップマンの「疑似環境」論があり、要するに現実がメディアによって切り取られ、演出を施され、「偽物なのに本物のように見えてしまう」ということが批判的に捉えられていた。ところがメディア・イベント論においては、そもそもイベントそのものがメディアに流通するために、誰かによって企画され、運営されている。スポーツイベントなどはその典型だろう。

こうした「オリジナルのない虚構」が現実に流通することの意味は、広告研究の中では長いこと重要なトピックになっている。疑似イベントが主としてメディア報道に関わる問題だとすると、メディア・イベントは広告・PR的な効果を受け手にもたらす。そしてリアリティ・ショウのような番組は、もはや両者の境界もあいまいであることを私たちに教えてくれる。

「感動」はもはや、私たちの社会の主たる売り物であるといってもいい。そういう意味で相対的に高度なリテラシーを必要とする「現実の虚構化」を下敷きにしたメディア・イベントの登場は、メディア研究にとっても追求しがいのあるものだったのだと思う。だが冒頭に挙げたようなCMや、あるいはソーシャルメディアを伝播する「感動したらシェア!」系の「おはなし」には、もしかするとそうした高度な話は見いだせないんじゃないか。それにも関わらず、むしろインスタントに拡散するのは後者であるように思えてくる。当たり前の話ではあるんだけど、じゃあそれってなんでなの、というあたりは、ちゃんとした検証が待たれるところなんじゃないかなあ、とか。

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