「わたしたち消費」からIPPS消費へ

先日、僕がパーソナリティをつとめているラジオ番組「文化系トークラジオLife」のためにひねりだした「IPPS」という消費モデル。その後いろいろと考えてみたら面白くなってきたので、現時点で思ったことをまとめておきたい。

そもそもこの消費モデルの背景には、広告業界でよく言われてきた消費者行動モデルがある。2000年代に入って、それまで標準モデルだとされていいた「AIDMA」に代わって、電通が「AISAS」モデルを提唱する。「Attention → Interest → Search → Action → Share」と連なるこの行動モデルでは、広告がイニシアチブを持っていた「消費者の注意喚起」ではなく、「ネットでの主体的な情報収集」や「購買後の感想のシェア」といった消費者側の行動が、購買に強い影響を持つことを示唆したものだった。

震災後になって、佐藤尚之さんが「SIPS」モデルを提唱した背景にも、この「代理店のイニシアチブの後退」という基本線がある。「Sympathize(共感) → Identify(確認) → Participate(参加) → Share&Spread(共有と拡散)」からなるこのモデルには、もはや広告的な役割を担う部分が存在しない。むしろ重要なのは、企業も代理店も消費者の共感の輪の中に入り、それを壊さないように努めるべきだというわけだ。

実はこうした論点は、僕自身が2007年の『わたしたち消費』で主張していたことでもある。当時はまだ大きく目立つ事例が少なかったので、コンセプト提案止まりだったという反省はあるけれど、言っていることの中身ではSIPS消費と重なるところが多々ある、といま読み返しても思う。

ただ現実には、この「共感の拡大」というモデルが、特に震災後のソーシャルメディア利用者の急増を背景に、ネット上での共感、空気づくりといった戦略PRの手法と合流した面があることは否めない。ビジネスである以上、具体的な手段に落とし込んでいくことは必須だけれども、それは結果的に、メディア利用のトレンドの変化とともに手法そのものにほころびが出てくることをも意味していた。

変化のひとつ目は、最近批判の多い「バイラルメディア」のような、とにかくPVを稼げばいいのだという粗雑な情報が拡散されていったせいで、いよいよ脊髄反射的に情報をバケツリレーしていくことの弊害が言われるようになってきたことだ。震災直後からデマの拡散の問題はあったものの、ことバイラルとなると倫理問題であると同時にビジネスの問題や権利問題を含むわけで、「やったもん勝ち」とは言い切れなくなる。中身はともかくどのくらい拡散したかだ、というKPIを追求した結果、質の悪い拡散でダメージを負う例も出てくる。

もうひとつは、それも含めソーシャルメディアが「めんどくさい」ものになったことだ。正確に言うと、僕らがずっと研究してきたように、ソーシャルメディアは一貫してめんどくさいものだった。しかしながらそれを上回るメリットが見えなくなってきたのか、他に使いやすい手段が出てきたからなのか、ともかくいくつかのデータがネットユーザーのソーシャルメディア離れを示唆している。「ネット上で共感の声を広く拡散する」というモデルそのものが悪いわけではないが、それだけでは決め手に欠けると思われても仕方がない。

さらに、ウェブの技術そのものが「O2O(Online to Offline)」や「IoT(Internet of Things)」といった、リアルの要素との連動を強める方向に向かっている。僕の昨年の本もそういうトレンドに乗っかったものだし、社会学的にも考察すべきテーマがまだまだたくさんあると思う。だが消費という点から見れば、それとは別の検討課題があるのも確かだ。ネットで拡散される情報でなければ、消費者は何を頼りに購買行動に出るのか?

こうしたことを基本的な関心にしながら考察を進めていたときに目に付いたのが、番組でも取り上げたリアル空間を利用した「リア充」イベントだ。リアル空間にある種の虚構を持ち込むことでエンターテイメント空間化するという試みは、「リアル脱出ゲーム」をはじめとして多数存在する。だがこれらのリア充イベントが特徴的なのは、イベントへの参加よりも、そこで行われていることを撮影し、ソーシャルメディア上で拡散するという性格を持つということだ。「カラーラン」や「エレクトロダッシュ」といったイベントは海外から持ち込まれたものだけど、特にその性格が強く、ある種のアーリーアダプターに受け入れられつつある。

僕も最初はこれを、単にソーシャルメディアでリア充自慢をするための手段だと思っていた。が、ヒヤリングや参与観察を通じて見えてきたのは、こうしたイベントへの参加はいくつかのプロセスがつらなることで完成するようなもので、決して僕らの目に留まる、パブリックな部分だけで成立しているわけではないということだ。

それを表すのが「IPPS」というモデルだ。「Invite(招待) → Plan(計画) → Participate(参加) → Share&Spread(共有と拡散)」という流れは、SIPSと似通っているように見えるけれども、いくつかの重大な相違点を含んでいる。

まず、こうしたイベントは、事前に大々的に宣伝されてはいない。むしろアーリーアダプターに刺さるように、慎重に人を選んで周知されている(だから多くの人は、後でアップされた写真を見て初めてその存在を知ることになる)。だから参加しようと思うと、まず誰かの招待を受けなくてはいけないのだ。

招待されると、次はイベント参加のための計画と準備が始まる。一緒にウェアを買いに行ったり、誰が運転するかを決めたりと、これはこれで楽しい。マラソン大会や登山のために体づくりをする、なんていうのもこの中に入るだろう。スポーツ関連市場におけるシューズの伸びなんかを見てると、ランニングブームも単に健康のためというだけではなく、その準備段階でいかにカネをかけるかという話になっているように思う。

そしていよいよ参加。年に一度のイベントのために入念に準備をして、という場合もあるけれど、たとえば誰かの誕生会とか、そういうものだって誘い合わせて準備を進めるはずだ。だからこれはその準備が報われる瞬間でもある。でも同時に大事なのは、写真を撮りまくることだ。

学生たちの行動を見ていても思うけど、彼ら彼女らはとにかく写真を撮る。光量が足りなかろうがブレていようが、とにかくたくさん撮る。そしてそれを、イベントのために作成したLINEのグループのアルバムにリアルタイムで追加していく。つまり参加しながらシェアしている。実況と言ってもいいだろう。

だからシェアと言っても、その相手は基本的に同じイベントの参加者だ。もっと言えば最初に招待した仲間内でシェアされていくわけだ。それも、イベント中に撮った写真は基本的にすべて共有する。だからその枚数も膨大なものになるのだけど、おそらくそれは、いわゆる「思い出の一コマ」といったものではなく、イベントの流れを追体験するためのタイムライン的な機能を果たしている。だからこれから容量や通信速度などの問題が解決されれば、動画がシェアの主軸になっていくかもしれない。

ともあれ、そうしたシェアがひと段落すると、次はソーシャルメディアのアカウントで、参加していなかった友人やパブリックな場所に向けて、参加報告を拡散することになる。シェアされたものの中から厳選した写真とともに、自分がイベントに参加したこと、そこで「最高の体験」をしたことを、まあ自慢するわけだ。

その情報が拡散されることで、目にした側は「えっ、そんなイベントがあったの」「自分も参加してみたい」という気になるかもしれないし、逆に「はいはいリア充乙」になるのかもしれない。いずれにせよそこで拡散されるのは、あくまでイベントの上辺でしかなく、本体はその場に行って参加しないと体験できないこと。これがソーシャルの時代の次に来るであろう、ある種の「リアル志向」と重なりながら、市場を拡大していくというのがいまの僕の読みだ。

こっからは余談。もちろんそこに社会学的な背景というものもあって、去年の著作で書いたような、「人にとってコンテクストを越えたコミュニケーションは負荷でしかないよね」とか「リアル空間の価値は情報によって空間を上書きすることで再生可能だよね」といったテーマも、こうした消費ときれいにつながってはくる。でもそれだけではなくて、これは結局、僕たちがどんな価値を頼りに生きていくのかということの、ちょっとした価値の変化なのだと思う。

高校生なんかと話していても、いまだに「俺はフォロワー100人いるから80人のお前より偉い」的なことを口にする子がいる。でも、その波は今年あたりから変わってきていて、「フォロワー100人もいるのにイベント誘われないんでしょ?」みたいなことになっている気がする。実際には人を誘うような人ってネットワーク理論におけるハブ的な存在なのでフォロワーも多いのだけど、そのノードに近いかどうかが問われているんじゃないか。

もう少しふつうの言い方をすると、多くのつながりを持ち、そのすべてに気を遣いながらつきあっていく人ではなくて、少数でもいいから自分の文脈でつきあえる人、何時間も話していられるような仲間がいる人である方が、価値のある生き方だと見なされているんじゃないかということだ。社会学の友人研究の中では、2000年代を通じて若者の友達の数は増えてきたことが指摘されていたけど、震災後あたりから、その流れが反転しているのではないか(実際、いくつかの調査では震災後に友人数が減少しているという報告もある)。

確かに、ネットで誰かが拡散する「最高の仲間と最高の夜だったありがとー!」的な投稿には、どこか自尊心を損なうような感じがある。これも本で書いたことだけど、そうした情報を目にするときってだいたい一人のときだから、自分だけが誰にも誘われない存在なんじゃないかという「孤立不安」に苛まれるのも致し方ない。

問題は、ソーシャルメディアって、そうまでして見なくてもいいんじゃないの?ということが、そろそろ知られてきたということだと思う。コミュニケーションが価値を生むと思われていた時代には、どんなにくだらないと思っていてもみんなでワイワイ盛り上げてやる必要があったし、そのために中身のないものを延々と見せつけられるような感じもあったと思う。でも、そうした空騒ぎだの罵詈雑言だのが横行する場所を無理に見続ける理由はないし、それなら小さくてもいいから、誘い会える誰かと、どこかに出かける方が少しは楽なんじゃないか。

もちろんこれは、ある種のモグラ叩きでしかない。ソーシャルの時代が’来るまで生きづらかった人が、ソーシャルの時代に水を得た魚のように活き活きとした一方で、ソーシャルのせいでミソをつけた人もいたように、ポストソーシャルの時代になれば、そこで苦しんでいた人が楽になる一方で、これまで生きやすかった人が生きにくくなるかもしれない。何より、友だちと仲良くやるのもいいけど他に考えることがあるだろう!なんて大人の意見もあるはずだ。

そんなわけで、マーケターではなく研究者で教師の僕にとって、IPPS消費なんてモデルを作ってみたものの、それをどうするかはアンビバレントだ。ま、僕が言うことってたいていコンセプトが先行して具体例に乏しいので、そんなに人の目に留まることもないかもしれないけど。

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