意味なんてもう何もないなら

20代の頃、一年の終わりには大きな意味があると思っていた。少なくとも自分自身を振り返り、一度死ぬような気持ちになって、年明けともに生まれ変わるような死と再生の儀礼として、年越しを考えていた。だから毎年末のブログもそうだけど、「こうすると決めていること」のメニューの中で年越しは大事な行事だ。

とはいえ昨今では、その「節目」が曖昧になりつつあるな、と思う。仕事の山場を超えるのは年明けから1月末だし、手帳の切り替えは秋、税金の締めは年末だけど年度の始まりは春、と、一年をどこで区切ったものだか分からない。そもそも毎日のように送られてくる卒論の原稿を添削する年末年始に、「一年の我が身を振り返る」なんて余裕がないことは明らかだ。

そういうことを承知のうえであえてこのタイミングで区切るなら、今年はいろんなことで自覚的に新しいことをしてきたなと思う。マネジメント仕事が増えてきたこともあって、昨年からEvernoteに加えて紙の手帳でタスクとスケジュールを管理するようにしているのだけど、そうすると自己啓発がかった手帳術よろしく、「スキマ時間を見つけて自分磨きに精を出そう」なんて欲も出てくる。今年は、昨年から続けていた「月に一本は映画を見る」という目標に加え、「お金の管理を始める」「英語の勉強をする」「ランニング」「専門でない分野の勉強をする」といったことにチャレンジし、おかげさまである程度までは達成できた。学会や研究会での報告もしたし、テレビにも出たし、ライブや旅行にも行ったし、久しぶりにインプットもアウトプットも真面目にやった年、というところだろうか。

2015-12-31-01

昨年、あんだけ「もう死にそうだな」とかぼんやり思っていたのは何だったんだ、という話なのだけど、気持ち的には長い余生を送っている感覚に変わりはない。自己啓発の話とは矛盾するけれど、自分自身がどこかに向けて根を張り枝を伸ばしているというより、世界という既に組み上がった石壁の隙間を、水になって流れていくような感覚に近い。

過ぎていく毎日が、本当に三ヶ月単位でぜんぜん違うフェーズになっていくな、と思う。とにかく精力的に露出しようと決めて動いた冬を過ぎて、新しい教育の取り組みで考えることの多かった春があり、夏には「独占」などのソーシャル時代の親密性について論じてたりした(そういやポリアモリーなんてのも今年か)けれど、秋以降はそれらの流れが合流する中で、昨年以上にリアルの価値について考えたり実践したり。どんどんネットを見なくなり、通信料は減り、対面の人との関係を大事にする一方で、去る者は日々に疎しというか、そういう点でも節目の年だったと思う。

20年も前に、とある論客の人から酒の席で「40になる準備」について諭されたことを思い出すのだけど、そういう意味では、とうの昔に準備はできている、と思う。というより、これだけ情報が更新され、状況判断が刻一刻と変化する世界の中で、10年単位で何かを切り替えることにどれだけの意味があるのかすら分からないから、かつてよりは準備すべきことも少なくなったのだろう。未来のことがわからないからこそ、自分で未来をデザインしましょう、なんて自己啓発の話に、まったく共感しないにも関わらず不思議な関心を抱くのは、たぶん自分がそういう志向をまったく持てないからなんだと感じる。

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淡々としているようだけれど、入出力を増やすということは、世界に対して感覚を開かないといけないという部分もあって、気持ち的には不安定だったかもしれない。些細なことで傷ついたり苦しんだりしたり、嬉しすぎて(あるいは悔しすぎて)帰ってから自室で一人嗚咽したなんてのも一度や二度じゃない。自分が先頭に立って感覚を開かないとうまく回らないようなマネジメントが多かったということなので、この辺は来年に向けて改善したいところではある。

そんなわけで、一年をどこで区切るか、どこで締めてどこで始めるかなんていうのは、それこそ自分で決めればいい話なのだけれど、街を歩いてもテレビを見てもどこか非日常なのに「終わっていく」雰囲気が特殊なこの時期、一年の振り返りに「七味五悦三会」っていうのをやってます。大晦日の夜、除夜の鐘が鳴っている間に「その年に食べたおいしいものを7つ」「楽しかった出来事を5つ」「会えてよかった人を3人」挙げて語り合うという江戸の風習です。もしかしたら、そんなことを語りあえる相手がいることが一番の幸せなのかもしれませんけれど、そうやって振り返った一年が、あなたの大切な宝物でありますように。

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