山の人と海の人

山の人と海の人、という分け方をすることがある。感覚的なものなのだけれど、たとえばそれは育った街や暮らした場所の影響、そうした場所の風土に培われるのかもしれない。

山も海も、人の言うなりにはならない。だから私たちは、それらに合わせるようにして自分たちなりの安定した暮らしを身につける。気まぐれな自然と共生するためには、その「不安定な安定」を文化として内面化しなければならなかった。

たとえば漁に出る男たちは、明ける前の海を臨み、今朝はダメだと思ったら帰って酒を飲んで寝た。大漁の朝にも、港で祝い酒を挙げた。港に伝わる食には、何が上がるか分からない海の恵みを、そのままに恵みとして受け止めるようなポジティブさがある。そしてどこか、行ったきり帰ることがなくても仕方ないと感じるような刹那さがある。

山での猟や採取は違う。山の生態系は海に比べれば安定していて、どこに何が生まれ、どのような道を通っていきものが棲んでいるのかを知ることができる。それに熟知し、それを壊さぬように分け入ることができなければ、山との暮らしは成り立たなかった。山の暮らしには、そこに根を下ろし、なんとしても生き残る執念深さがある。

山の人と海の人の違いは、そのような風土や思想の違いから生まれる、と思っている。たとえば人と触れ合うにせよ、山の人が相手を慮り、うつろう感情の起伏のうちに規則や兆候を感じ取ろうとするのに対し、海の人はこれぞと通じ合ったときには上機嫌でも、それが叶わぬときには不機嫌になり不平を言う。そんなことを繰り返すうち、通じ合わぬ人と離れていくことも、まあ仕方のないことだと思うようになる。

私たちの大半が町の人になってしまった現代においても、人付き合いや組織運営、あるいは単なる気質として、こうした違いはいくばくかは認められるように思う。少なくとも僕自身は典型的な海の人を自認しているので、相手を知る上でその人がどちら寄りなのかが気になることはある。むろん、極端にどちらとも言えない人がほとんどだけれど。

人を知る、人がつくったものに触れるというのを、それそのものとして経験することが、持て囃されすぎているように感じる。拙くてもいいから素直な気持ちで自己の感情を表出することや、それをそのまま汲み取ることがよしとされる。けれども、感情や感覚は無色透明の宙空から生まれたりはしない。歩いた道や風の冷たさや直面する理不尽さの中で、憎むべきものや愛すべきものが形づくられていく。

その抗えなさを、海だ山だと表現することが適切なのかはともかく、何か、自己の内面によって来るものではないところに振り回される私たちのありようとして捉える思考こそが、人の世に、人の集まり以上のはたらきを見いだす出発点なのだと思う。

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