雑記20171117

なぜ消費社会論が日本で廃れてしまったのかという話を、研究会でしていた。2年生のゼミで海外の教科書を読んでいて思うのは、消費社会の持つ「記号消費」という概念は、まだまだ世界的に見ればラディカルな考え方だということだ。消費というのは階級や所得に依存するものであり、企業と消費者の非対称性は強く、消費者は企業の金儲け主義の犠牲になっているという見方が通用する状況が、海外における消費のリアリティを形成している。他方で本邦においては、1970年代に日本を訪れたボードリヤールが「ここには純化された消費社会がある」と驚いたように、そうした階級性や社会構造と切り離された消費が存在するという見方が強かった。

後づけで論じるなら、それこそが戦後の高度成長期における急速な階層格差意識の縮小、あるいは「総中流」と呼ばれたものの成果だったということや、その豊かさが「モノの消費」によって基礎づけられていたことの結果でしかなかったのは間違いない。また現代の日本において「階級前提を無効化する記号消費」などと論じようものなら、お前は格差の現実を無視するのかと石を投げられるのも確かだろう。また、80年代の広告代理店的なプレゼンスが消費社会論にもたらした影響、つまり軽佻浮薄で無根拠なポストモダン論と消費社会の共振がある種のトラウマになり、「ああいう軽い話はもういいよね」となっていることも見過ごせない。要するに日本の消費社会論は、日本が勢い良く経済成長した時代だからこそ言えたご都合主義的な「おはなし」に過ぎず、科学として扱うならば階級や格差や企業の横暴について論じなければ意味がないというゆり戻りゆえに、独自に研究する意義すら失ってしまったということなのだろう。

だが本当にポストモダン的な消費社会論に意味はなかったのだろうか、と思う。実際、ジェンダーによる差はあるとはいえ、片岡栄美がいう「文化的オムニボア」のように、日本の大衆文化がエリート層にあっても消費の対象であったり、たとえばラーメンという大衆食が海外において高級食に変貌したりすることを考えても、消費の無階層性を感じさせるような現象はまま目につく。ピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』が示すのは、消費社会がもたらす先進国による途上国の一方的な搾取ではなく、それがはるかアフリカの西海岸にまでもたらす消費社会的な価値の広がりだ。階級的な前提はなくなったわけではないけれど、それですべてを語ることができるとするのもまた、同じくらい単純過ぎる議論だといえるだろう。

さらに言うならば、いまの消費社会が直面している「環境の限界」を乗り越えることが、階級的な見方では難しいということもある。要するに人類はぜいたくをしすぎたのであり、このまま無際限な消費をつづけると、私たちの生きる環境は早晩、限界を超えてしまう。だから消費にブレーキをかけなければ、という話はそのまま、というわけで既に経済成長した先進国だけでなく、これから経済発展しようとしている途上国にさえも、いま以上の豊かさを得ることを禁じるべきだという話になる。階級的な消費を批判していたつもりが、もっとも階級的な、つまり貧しい人々に豊かさを禁じるという主張に転じるジレンマが、そこにはある。この問題を解消しようとすれば、僕たちはどこかで再び「消費社会論」と向き合わなければならない。

こういう当たり前の議論すら忘れ去られてしまったのは、別に学者の怠慢なのではなく、単に長期の景気停滞によって、消費などという景気のいい話ができなくなったからだろう。人びとの財布の紐は固くなり、できる限り安く、できる限り失敗リスクの小さいものを買いたい。そういう消費者マインドと、微細な記号的差異を人びとが消費するという消費社会論の主張はあまりにも食合せが悪い。言い換えると現実的でない。どのようにしてこのデフレ的状況と、消費社会論の楽観的見方を接合するか。それができない限り、消費社会論のアップデートもまたありえないのだろうと思う。

(Slackより転載)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする