宙吊りを楽しむ

先週末、ラジオ番組のため上京するがてら、そろそろ終演が近いという『フエルサブルータ』を鑑賞。

アルゼンチン生まれのノンバーバル・パフォーマンス・ステージで、エキゾチックな和のイメージを取り入れたド派手なパフォーマンスは、なかなか日本では上演されない類のもののように思う。舞台での役者のあり方が、どうしてもテレビ的なものとして捉えられがちな昨今だけど、むしろそっちに挑戦する演者さんたちにとって舞台が身体的な挑戦の場であるということが、こういうステージが増えることで伝わればいいと思う。

内容的には、ワイヤーで吊るされたサムライがオールスタンディングの客席のど真ん中を走り抜けたり、天井から吊るされたプールの中を泳ぐ様を見上げたりと、視覚・聴覚・触覚に訴えかける演出が多い。そのために全体の演出意図のようなものがイメージできなくても楽しめるものになっていると思う。マーケティング的な観点で言えば、最初は写真や動画を撮影していた観客も、上から水が降ってきたり、右に左にパフォーマンスの場所が変わるステージの流れに、いつの間にかスマホをしまって目の前のパフォーマンスを観ることに集中し始めるよう設計されていたのが興味深かった。

わざわざ解釈を加えるのも野暮かもしれないけれど、全体としてのパフォーマンスの流れで意図されていたのは「抗う」モチーフから「飛ぶ」モチーフへの変遷であるように思えた。最初に出てくるサムライは、ワイヤーで後ろ方向に引かれながら、トレッドミルの上を疾走する。つまり、舞台が引っ張る方向に対して抗おうとする。その後登場する三体の日本人形(押井的!)たちは、舞台下手から上手に向かって流れるスモーク――実はこれも舞台上手に設置されたファンによって吸引されている――の中、下手から上手、そして天井へと「引っ張られる」。男女が壁を登るワイヤーアクションでは、ワイヤーを使って重力に抗い、頭上に到達しようとするも転落するさまが描かれる。

舞台の後半では一転、お祭りのようなパフォーマンスが観客を巻き込んで展開された後、巨大プールを女たちが滑り周り、ワイヤーに吊るされた演者たちが場内を飛び回り、トレッドミルの上のサムライが跳躍する演出へと変化する。ぼーっとしていると見落とすけれど、ここでは演者たちの表情もパフォーマンスも、自分たちが吊るされた状況を楽しむものに変化している。ワイヤーに「抗う」のではなく、「飛ぶ」。それは言い換えれば、下に向かう重力とワイヤーの吊力に引き裂かれるのではなく、その中間で半無重力状態を楽しむということだ。

こうした演出構成は、おそらく観客のテンションと内容をシンクロさせるためのものだと思う。どれだけ派手なパフォーマンスも、いきなり見せられて盛り上がることのできる観客ばかりではない。そこで、同じ舞台装置であっても、モチーフを「抗う」ところから始めて、重力に囚われた観客に舞台の設計を理解させる。そこから徐々に、半無重力の非日常が日常的なものであるという意識の転換を行って、最後はパフォーマンス自体を楽しめるようにする。シャイな日本人向けの演出としてはよくできているなあと感じるし、こうしたパフォーマンスの面だけが注目されそうな舞台で、演出意図やモチーフの展開がきちんと織り込まれていることに感動した。

宙吊りという言葉は、現代思想なんかでもよく出てくるけれど、おおむね「決定不能」「解消できないジレンマ」といったニュアンスで使われている。ポストモダン思想だと、そうした宙吊り状態は不可避のものなのだから、いたずらに決断を煽るのはよくない、という話になる。ともあれ、宙吊りというのは、どこか不快ではありながらも耐えねばならないような、そういう意味の言葉だ。けれど『フエルサブルータ』においては、宙吊りであることが、はじめは確かに重力と吊力の間に引き裂かれるものでありながらも、最後には、浮遊するでもなく落ちるでもない、宙吊りのまま飛ぶことを楽しむものへと展開する。宙吊りも悪くない。そう思わせる展開力こそが、この舞台で感じ取るべきものなのだと思った。

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