00年代が終わる

雑記

Happy New Year 09.

「2009年」と書いても「平成21年」と書いても、ほとんど実感が湧かないのだけど、気がついたら年が明けて、00年代も最後の年。「結局何だったの?」と問われれば「よく分からなかった」としか言いようがない10年だったんじゃないか。そもそも「ぜろぜろねんだい」なのか「ぜろねんだい」なのか「にせんねんだい」なのか、呼び方すら定まってないわけで、なんだかその辺りが、この実感のなさの根源なんじゃないかと思う。

もちろん、何かが始まるだの終わるだのっていうのは、人間の側の都合だし、まして文化現象と西暦(や元号)がリンクして変動するなんてのはあり得ない仮定だから、これは「年越し」と同じで、多くの人がそういう気分になっているのをダシにして、「この10年を総括する」なんてことの機会にすればいいものなんだという気がする。どうせ今年はそうやって「俺がこの10年をまとめてやるぜ」って連中が、次から次へと出てくるんだろうし。

とはいえ、総括に値するような出来事がそもそもこの10年にあったのだろうか、と思う。社会的・経済的にはたくさんあったろう。そのひとつである国内の長期停滞に影響を受けた作品もたくさん存在するし、その中には批評的な評価を待っているようなものもあるんだろう。けれど僕が気になっているのはそうしたサイズの話じゃなくて、もっと多くの人にとってこの10年を表象するに足るような、文化的な出来事って何かあったんだろうかということだ。

何も、ネットで起きているような小さな出来事じゃなくて、マスメディアに出てきた表象の方が、この10年を代表する資格があるという話をしたいわけじゃない。むしろ話は逆だ。社会学者として調査設計なんかに関わると感じることだけれど、ここんとこますます、統計的な数としての多数派の感覚が、全体のリアリティを代表するものではなくなっているように思える。昔から「全共闘世代」なんて言っても、ある世代のごく一部じゃないかという批判はあった。でもそれだって、その感覚を形成するマスメディアの中に、運動に関わった人が多かったからという程度の話でしかない。

おそらくいま起きていることは、急速なリアリティの分断なのだろう。人々の感覚が分断されているからこそ、「多数派」を形成できるような質問項目が、「そう聞かれれば、まあ同意できなくもないかな」というような、茫漠としたものにならざるを得なくなったのだ。たとえば、家族は大事だと思いますか、とか、友だちとはメールより直接会って話した方がいいと思いますか、とか。問題は、どんな家族を大事にしたいと思うか、対面した友だちとどんな話をするかなのに。

「80年代はスカだった」というあの有名なフレーズをもじれば、きっと「00年代はスカスカだった」のだろう。とかこんなことを言いたくなるくらい、僕も立派な「総括病」なのだけれど、書いているとなんだかそうかもな、という気分にはなる。形成されるコンセンサスの中身がどこか脆くて、たくさんの穴が空いているような。きっとそういう、しっかり身の詰まった部分もあるのに、全体としては、何を表象しているのか分からないような対象が「00年代を代表する文化」になるんだと思う。

例年、年末年始くらいはテレビを見ようかという気にもなるのだけど、今年はTwitterで実況する友人たちのタイムラインを見ていれば「あ、いまPurfumeが出てるのか」とか分かるので、それでだいたい事足りた。大晦日の最後の10分だけ、ニコニコ動画のエンドロールを見ていたのだけれど、年が明けたところで流れるFooさんの「お正月」(調子っぱずれのリコーダー!)を聴いていたら、なんだか一度しかない09年の始まりがもの凄い台無しになった気がして、でもその感じってまさに00年代っぽいよな、と思った。

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