行き詰まるセオリー

雑記

全部は読み終えてなかったので、いただきもののエントリに入れられなかった稲葉振一郎『社会学入門』を読了。全体としてはまっとうな「社会学」の「入門」で、いわゆる学説史中心の基礎論・原論的なものとは違うけれど、「近代(モダン)」という概念の美学からの説明など、『モダンのクールダウン』のときから感じていた著者の「近代」への姿勢がよく分かって非常に面白く読めた。教科書として自分が採用するにはちょっと著者の色が強すぎるのだけど、個人で読ませる分にはとてもおすすめだと思う。

特に気になったのは、11講から続く第III部「〈多元化する時代〉と社会学」のパート。最近ちらほらと目に付く「社会学の危機」をとなえる先生方に対して持っていた違和感や想定反論が7割方言語化されていて、そうそう、とうなずくことたびたび。

11講では、社会学の営みが「社会的に共有される意味・形式の可変性・多様性についての学問」と総括され、それが「素直な近代」に対する反省として生じたという、社会学成立事情について述べられている。要は「近代化すればうまくいく、わけでもないらしい」と自覚されるにいたって生まれた「近代を反省する自意識」が社会学だというわけだ。

12講では、パーソンズの機能主義の衰退が、こうした自意識から生まれる多様性の認識と関連していることが指摘される。つまり、対象を科学的に把握し、工学的に操作するという科学的営みそのものの足場の自明性への疑義・可変性を理論に折り込む社会学は、将来の予測においても、それを可能にする不変法則の想定においても、宙ぶらりんにとどまらざるを得ない。なぜなら「社会変動の一般理論」の構築などというものは、定義上不可能だからだ。それゆえパーソンズ以降の社会学では、理論の無限背進を恣意的なポイントで止め、割り切った公理に基づく実証研究を行う、無限に多様な「中範囲の理論」と、フーコー、あるいは構築主義的な知識社会学とに分岐せざるを得ないと著者は述べる。

問題は、こうした「できること」の中で満足する営みが、一方では経済学などでの新しい試みに、そして明確には述べられていないけれど、他方では歴史学などの専門的スキルを持った領域の研究に対するアドバンテージを持っていないということだ。こうした認識の下で最後の13講では、著者の考える社会学の独自性が挙げられる。まず、統計では他に得意な領域があるが、フィールドワークに基づく実証は、まだ社会学に一日の長があるという。ただしこうした領域も、「中範囲の理論」としては隣接分野と似通らざるを得ず、社会学にしかできないというわけではないと著者は述べる。

その上で著者はひとつの方向性として、ダン・スペルベルの知見を引用しつつ、量的な格差ではなく、質的な「差別」の研究、あるいはその「差別化」の延長としての「ナショナリズム」の研究に、社会学の独自性を見出そうとする。僕としては「中範囲の理論」が持つ実効性や、それ自体が放つ「逆説への魅力」という異化効果に惹かれて社会学にのめり込んだ口なので、その辺もまだ可能性がある気がするけど、なるほど著者の立場は明快だ。

ただ、何より膝を打ったのは、以下のフレーズだ。

「基礎理論」「一般理論」がない、学問のアイデンティティを支えるべき理論が見つからないという状況は、「社会学の危機」なのでしょうか? かつてパーソンズが目指したように、そしてひょっとしたら今でも何人かの理論家たちが目指しているとおり、社会学の背骨になるような何らかの新理論を構築するべきなのでしょうか?

ぼくは必ずしもそう思ってはいません。第11講に述べたように、社会学はもともと「危機の学問」であるのだから、このようなアイデンティティの危機自体は、やや格好をつけて「社会学という分野が独立して成り立つための必要条件である」とさえいえるでしょう。ぼくにいわせれば問題はむしろ、社会学がそうした宙ぶらりんに耐えられずに、自分自身の危機を外側に、より具体的にいえば研究対象である社会の方に転嫁してしまう、という危険性です。危機にあるのは自分たちなのに、そのことに耐えかねて、現実の社会の方が危機だと錯覚してしまう、という危険性です。(P232-233)

ここで著者が念頭に置いているのは、マルクス主義の「万年危機論」だ。資本主義崩壊の物語に説得力を持たせるために、いかに資本主義の力が強大であり、その拡大が避けがたいものであるかをマルクス主義者が説き続けなければならなかったように、社会学が「社会の危機」を喧伝する学問に成り下がる、というわけだ。おそらく「資本主義」の代わりに、著者が言うように「再帰的近代化」だの、僕がかつて論じたように「グローバリゼーション」だのを代入すれば、多くの社会学講座が、こうした「危機」を講じようとしている。以前論じた「近代の変曲点」もそれに近いだろうけど、例えば政治学などでも最近は、「再帰的近代化」論を規範概念として――すなわち避けがたい宿命として――論じる向きが出てきている。

講義ならば僕も、「こうした社会学者の主張に、経済学者は真っ向から反論している」などと補足をすることができるし、割とそういうことを心がけているけれど、「社会(学)は危機に瀕しているのです、その原因はこれです、よって私たちはこうした選択をしなければなりません」式の主張から自由になるのは、とても難しい。実際には、ミルズにせよグールドナーにせよ、「社会(学)の危機」は、「反省が大好きな僕たち」の自意識の照射として立ち現れたのであり、そのたびに「危機に一体として立ち向かう社会学的アイデンティティの構築」が目指され、それが結果的に理論的な百花繚乱を生んできたのだ。こうした経緯を無視して「社会学に最低限できること」の中に引きこもり、形式的手続きの正当性だけに依拠しようとするのは、あまりにも「社会学という社会的な営み」に対して無邪気すぎる。それが気にくわないなら、むしろ社会学を堂々と「二流の学問」と断じて社会学者を辞するべきだ。

むろん、社会学が牽引する「社会の危機」論は、現在ではむしろ社会学者でない人々に求められているし、そのような読み込みがなされてしまうことの責を、社会学者だけに求めるのは不当かもしれない。だがきっと師匠ならこうした状況を、「統一的理論に足場を求められない田吾作的ヘタレが、自分の問題を社会(学)の問題に投射してぎゃーこら言ってるだけ」と断じるだろう。そりゃそうだ。本当に社会(学)が危機に瀕しているなら、それは世界的に共通で観察される出来事のはずだが、むしろ問題として挙げられるのは日本の話。それって学問じゃなくて個々の教員の怠慢の問題でしょうよ。まあそこで「俺が足場」と胸を張れる師匠に対して、著者はむしろヘタレたる社会学者の立場を擁護しようとするのかもしれないけれど。

・・・とまあ、書けば書くほどブーメランな感想になるのだけれど、この「反省大好き」な学問を割と自覚的に選んだ自分としては、足場の不確かさに噴き上がることも居直ることもなく、必要な仕事を必要なだけやっていくしかないのだろうな、と思う。隣接諸科学との協力という点でも、いまや社会学者に必要なのは手続きへの引きこもりではなく、神経科学や生命科学、進化経済学や行動経済学、情報科学など、目覚ましい発展を遂げる分野の知見を吸収することだ。このあたり、色々言われているとはいえ、やはり僕が尊敬する1930年代生まれの社会科学者たちにはかなわない。かつては「文学部社会学科」のコンプレックスとして数学と統計が幅をきかせたのだろうけど、それだけではきっと足りない。科学はもっと広くて、面白いものなのだ。

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